読史随感

第164回 日本の国のアイデンティティ

 新年を迎えるにあたり、改めて日本はどのような国か考えてみた。日本の国柄、国のアイデンティティである。日本の歴史、地理、文明、精神文化、宗教、社会的慣習、家族のあり方、及び国の統治形態等について、世界的な視点でその特性をよく理解すれば、日本のナショナル・アイデンティティが見えてくるだろう。

 日本の歴史は古く、国は自然発生的である。アメリカや旧ソ連のように人工的につくられた国ではない。そのため、日本人の国への帰属意識は自覚されないほど自然に生まれている。あまり意識にのぼらないが、日本人の国への愛着心も強い。国民の意識は、政府を基本的に信頼している(世界は政府を信頼しない国が多いが)。こうした意識は、日本の長い歴史が比較的善政の歴史だったことから来ると思う。

 日本は島国であるため、歴史的に大陸の諸民族のような民族の存亡をかけた闘争を経験していない。そのため、国の存立に関する危機意識に大陸諸国のような敏感さがない。かつて、「日本人は水と安全はタダだと思っている」、という警句があったが、「安全」に国家の安全(セキュリティ)を含めることがきる。この警句が島国日本の恵まれた自然環境とセキュリティ環境を象徴している。日本が平和の歴史が長く、国柄が平和指向なのは、島国の環境と無縁ではない。 

 「日本のナショナル・アイデンティティは和である」には異論もあるだろう。しかし世界的に見て、「日本は和の国」と言ってよいと私は思う。日本は戦国時代も経験し、近代は対外戦争も経験した。しかし、日本の歴史の基調は平和である。和国、和食、和服、和洋といった日本語にみられるように、「和」は日本そのものを意味する。古くから「日本は和の国」だとの自己認識があった。聖徳太子が定めた十七条憲法には、国のあり方の第一条に和が置かれている。日本人は闘争、不和を好まない。和を好む。

 我々に自覚はほとんどないが、日本文明は世界的に特色ある文明である。アジアの文明だが、意外に西欧文明と共通点がある。西欧と同様、中世に封建時代を経験した歴史をもつのと、近代に西欧文明を意識的に学び導入したためだろう。古代に漢字を導入し中国文明を学び、同じアジアで近隣の中国と類似した文明と思いがちだが、実際はかなり違う。文明のコアとなる宗教等精神文化の他、社会慣習、家族観、国の統治形態が違っている。

 日本文明のコアとなる宗教等精神文化の根底にあるのは、神道である。神道はキリスト教や仏教のような論理体系をもたないが、清浄の美と、清明正直、すなわち、心身を清浄にし、清らかで、明るく、正直に生きることを道徳的、生活感覚として尊ぶ信仰である。清浄の美を尊ぶ文化は、日本の掃除、清潔、入浴の文化として世界に知られている。

 最後に国の統治形態として天皇の存在を日本のナショナル・アイデンティティに挙げたい。世界的に見て日本の天皇の特色は、非常に古い時期に国が成立したときから現在までずっと一系で続いていること、および国を統治するにあたって、歴史の早い時期に最高権力者ではなく、最高権威者となって存在し続けことである。このような国は世界中で日本しかない。

 日本の国の発展を希求するとき、日本のナショナル・アイデンティティと思われるものを、誇りをもって肯定的に認識することに意味があると思いたい。

2025年1月1日

第163回 大東亜戦争(太平洋戦争)をどう見るか

 1941年の12月8日、臨時ニュースが流れた。「本8日未明、帝国陸海軍は西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」。国民は日本が米英と開戦したことを知り、初戦の勝利に歓喜したが、最終結果は悲惨だった。国をあげて戦った戦争に完敗し、自信を喪失した。戦後日本は侵略戦争をしたと米英から弾劾され、東京裁判では、国の指導者が戦争犯罪人として断罪された。私は終戦の1945年生まれであるが、戦後、学校教育でも社会でも大東亜戦争を肯定する意見はまず無かったと思う。しかしあの戦争が本当に侵略戦争だったのか、戦争犯罪人を断罪した裁判は正しかったのか、日本は謝罪する必要があったのか、などについては議論が多く、あの戦争の全体的、総合的評価は今なお確定していないと思われる。   なぜ大東亜戦争を振り返るのか。あの戦争をどう認識するかが、なお国際社会における日本の国のあり方に影響するからである。私は大東亜戦争を戦後における平均的認識よりもやや肯定的に見るのが正しいのではないかと思っているが、以下、世界の識者が残したあの戦争に関する発言を、参考のためにいくつかとりあげる。

 フーバー(第31代米国大統領):私が日本との戦争の全てが、戦争に入りたいというルーズベルトの欲望であったと述べたところ、マッカーサーも同意し、1941年7月の金融制裁は、挑発的であったばかりでなく、その制裁が解除されなければ自殺行為になっても戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込み、それはいかなる国と雖も品格を重んじる国ならば、我慢できることではなかった、と述べた。ウェデマイヤー(米国陸軍大将):1941年ルーズベルトが日本に加えた経済制裁は、中国を援助するためではなく、日本を戦争に挑発するためであり、イギリスの勢力を維持するために、どうしたらアメリカを参戦させられるかという、ルーズベルトのジレンマを解決するために使用されていた。オリバー・リットルトン(英国軍需大臣):日本がアメリカを戦争に追い込んだというのは歴史の狂言である。真実はその逆である。アメリカが日本を真珠湾に追い込んだと見るのが正しい。タナット・コーマン(タイ外務大臣):あの戦争によって世界のいたるところで植民地支配が打破された。日本が勇戦してくれたおかげです。マハティール(マレーシア首相):アジア人の日本が、到底うち負かすことのできないと私たちが思っていた英国の植民地支配を打ちのめした。マレー人だって日本人のように決心すれば何でもできるはずだ。日本が50年前の戦争について謝り続けるのは理解できない。M.ユスフ・ロノディプロ(インドネシア大使):第二次大戦前、アジアのほとんどの国は白人たちの植民地になっていました。それを、日本が白人たちと戦うことによって解放したというのは間違いない事実です。ラダクリシュナン(インド第2代大統領):西欧の植民地であったアジア諸国は、日本人が払った大きな犠牲の上で独立できたのである。我々アジア人の民は、日本に対する感謝の心を忘れてはならない。サムソン・ウィジェンシンハ(スリランカ最高裁弁護士):第二次大戦において日本が一方的に侵略戦争を行ったなどという主張がありますが、そのような話は馬鹿げたたわごととしか思えません。サンテン(オランダ内務大臣):あなた方の日本国は、アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、アジアの諸民族に大変迷惑をかけたと、自らを蔑み、謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ、自ら血を流して、アジア民族を解放し、救い出すという人類最高の良いことをしたのです。

令和6年12月15日

第162回 説明責任(アカウンタビリティ)について


 政治をはじめ企業や医療など、様々な場面で「説明責任(アカウンタビリティ)」という言葉がよく使われるようになった。説明責任(英語:accountability)とは、政府、企業、団体、政治家、官僚などの、社会に影響力を及ぼす組織で権限を行使する者が、有権者、株主、従業員といった直接的関係者に、また消費者、取引業者、銀行、地域住民などの間接的関係者に、その活動や権限行使の内容と結果の報告をする必要があるとする考えをいう。

 政治における説明責任は、民主主義の根底に存在する。代議制民主主義には、有権者を起点として、政治家、官僚へと仕事を委ねる関係が存在し、これを「委任の連鎖」と呼ぶ。有権者から政策決定を委ねられた政治家、及び政治家から政策実施を委ねられた官僚は、委ねた人々の期待に応えた行動をとらねばならない。そのような行動をとっていると説明できる状態を「説明責任(アカウンタビリティ)」が果たされているという。「委任と説明の連鎖関係」が、代議制民主主義が機能する根本条件である。

 代議制民主主義は間接民主主義とも言われるが、「間接」は単純なコミュニケーション以上の内容を含む。国民から政治家への委任は、国民の幸福のための良き政治の委任であり、そこに政治家の高い見識、熟慮、良き政策の決定及び実行力が期待されている。政治家から官僚に対する委任も、官僚の高度な専門知識に基づいた実際的な、間違いない政策具現化と実施が期待されている。そのような委任を受けて政策を作り決定する政治家は国民に、これを具現化して実行する官僚は政治家と国民に、説明責任を果たすことが求められる。

 説明責任の考えはアメリカで生まれ、日本に定着した経緯からわかるように、日本の伝統文化から自生した考え方ではない。日本社会には、自分のやったことを言葉で説明することにあまり重きを置かない傾向がある。結果がすべてであり、不言実行をよしとする。特に言い訳は好まれない。言い訳には必ず自己弁護や自己正当化が伴い、真実から遠ざかる。昔の武士は、言い訳を一切しなかった。そして至誠は言葉を超えて通じると信じた。自分のやったことの言葉による説明は言い訳に堕す可能性があるのを警戒した。

 私は1970年から1998年まで旧通産省に奉職したが、この時代、説明責任という言葉はなかったと思う。あったのかもしれないが、そうしたことを意識して仕事をしたことはない。私の深く尊敬するさる外務官僚(故人)は、メモワールなど書いてはならないと言っていた。官僚としての業績は実際にやった仕事に尽きる。それをメモワールとして残す(世間に示す)必要など全くない、と。

 しかし今改めて、政治家、官僚の説明責任は非常に重要だと思う。ただその運用について改善すべきと感じるものもある。一つは野党が政府に説明責任が果たされていないと言うが、説明されたものを拒否し、理解しようとせず、説明責任を権力闘争の手段に使っていると感じることがある。もう一つは、国(議会と政府)は国民が好まないことでも、必要な政策を掲げ、決め、実行しなければならず、そのため入念な説明をすべきだと思うが、これがなかなかなされない。日本国民は、耳ざわりの良いことばかり言う政治家よりも、厳しいが必要な正しいことを言う政治家を理解し、そうした政治家を選挙で選ぶ見識をもっていると私は思うのだが。

令和6年12月1日

第161回 自由民主主義が良い(2)

 近年世界的に民主主義の後退が見られる。日本でも国民生活と国の安全に対する不安が増し、国政への不満は多いが、日本は迷わず、民主主義でやっていくしかないと思う。世界を見て、やはり民主主義国が良い国だと思われるのと、歴史的に代議制自由民主主義が最も進んだ国の統治体制だと私は思う。

 民主主義の歴史は古く、議会制度の歴史も古いが、代議制民主主義が興隆したのは近代である。19世紀後半、イギリスのジョン・スチュワート・ミルは、代議制民主主義を最善の政治体制と見なした。イギリスは17世紀の終わりには議会政治を確立し(名誉革命)、18世紀後半には議院内閣制を確立、政党政治を定着させた。イギリスの興隆と相まって、その代議制民主主義が良き国家統治の見本となった。

 19世紀、英、仏、米を始めとする欧米諸国で代議制民主主義が進展した。選挙権が拡大、普通選挙に向けた動きが加速した。19世紀後半には欧米諸国を越えて広がり、20世紀は民主主義の世紀となった。アメリカは二つの世界大戦で民主主義の擁護を掲げて戦い、民主主義が世界的な大義となった。しかし、このことは20世紀における民主主義の順調な発展を必ずしも意味しなかった。ドイツ帝国は第一次大戦後、民主的なワイマール共和国となったが、ワイマール共和国の議会制度は独裁者ヒトラーを生んだ。第二次大戦に勝利した社会主義国ソ連は、戦後欧米民主主義国と対立(冷戦)、20世紀末には崩壊した。冷戦終結後、世界は自由な民主主義に収斂していくと見られたが、そう単純には進んでいない。民主主義の発展の歴史はまことに紆余曲折の歴史であり、今後も紆余曲折しながら進むだろう。

 日本の民主主義の発展も、世界史の一部として見ることができる。19世紀後半、代議制民主主義が欧米諸国を越えて広がったが、その一つが日本。明治新政府は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」を国家運営の基本方針とした。石橋湛山は言う、明治の真の遺産とは、日本が帝国の仲間入りしたことではなく、日本が民主主義と言論の自由を重視する国になったことだ、と。日本は19世紀末、憲法を定め、選挙を実施し、帝国議会を開いた。20世紀始め大正デモクラシーとなり、普通選挙も実現した。しかし、昭和になって軍部が国家を支配し、軍国主義化。なお議会は存続したものの、民主主義は窒息した。そして敗戦。GHQの草案になる日本国憲法(1946年成立)は、世界におけるきわめて正統的な民主主義思想を体現する憲法であった。戦後の日本はこの憲法のもと、民主主義の国として生きてきた。

 日本は今後も民主主義を最良と信じてやっていくしかないと思うが、代議制民主主義の具体的なあり方に「正解」は存在しない。今後のため、留意すべき二点を挙げたい。一つは、「民主主義のガバナビリティ」の問題。民主主義は民意を尊重するゆえ、必要な政策だが人々に困難をもたらす政策決定はなかなか受け入れられない、という問題がある。これについての簡単な処方箋は無い。国民の高い見識と良識に依るしかなく、結局民主主義の成否も、国民の民度によるということになる。もう一つは、行政官僚との関係。代議制民主主義は高い専門能力をもつ行政官僚による専制に陥る可能性を秘めている。自民党政権がそうだったと認識する民主党が2009年政権を獲得したとき、「官僚打破」を掲げた。しかし、それで民主党政権がうまくいったとはいえない。民意を受けて選ばれた政治家は、専門能力をもつ官僚を排除するのではなく、完全に使いこなす高い能力と識見を持たなければならない。

令和6年11月15日

第160回 自由民主主義が良い

 民主主義が世界的に後退しているようである。アメリカの非政府組織「フリーダムハウス」の報告書(2022年)によると、民主主義国家の数は2005年89カ国をピークに減少し、21年には83カ国となった。一方、参政権や報道の自由などに制限を加えている専制主義国家は、2005年には45カ国だったが、2021年には56カ国に増加した。

 アメリカの政治学者フランシス・フクヤマは、1992年『歴史の終り』を著し、自由民主主義が普遍的、最良であって、共産主義を含む過去のあらゆるイデオロギーより優れており、自由民主主義が世界的に勝利すると説いた。この主張の背景に、1889年東欧民主革命が起き、1991年ソ連が崩壊、東西の冷戦が共産主義に対する自由民主主義の勝利で終わる世界の変化があった。

 フクヤマは、歴史が自由な民主主義に向かって収斂していくと見、冷戦終結後、世界は遅かれ、早かれ民主的な国家に向かうと思われてきたが、近年その見方が揺らいでいる。東欧では、ポーランドやハンガリーなどに共産主義並みの強権政治が復活し、世界で民主主義が最も良く機能しているとみられる西欧でも、オーストリア、ベルギー、イタリア、ポルトガル、英国などで民主主義指数が悪化している。そして自由と民主主義のリーダーであるはずのアメリカで、民主主義が後退している。前大統領トランプ氏が大統領選の結果の正当性に異議を唱え、2021年トランプ支持者らが大統領選に不正があったと訴えて、アメリカ合衆国議事堂を襲撃した。スウェーデンの民主主義・選挙支援国際研究所(IDEA)は2022年、米国を「民主主義の後退している国」に分類した。同研究所によると、過去10年余で、民主主義の後退国は約2倍に達し、米国の他、インド、ハンガリー、ポーランド、トルコ、スロベニア等が民主主義後退国に含まれる。

 世界的に民主主義が退行した背景に、権威主義国家を代表するような大国中国とロシアの大きな影響力がある。中国は共産党の独裁体制で経済発展を遂げ、いわゆる西欧的民主主義を否定するようになった。ロシアはソ連崩壊後急激な国家の民主化につまずき、権威主義国家運営で復活して現在に至っている。G7の力は相対的に低下し、G7に中国、ロシア、インド等の加わったG20の力が増している。中国、ロシアはグローバルサウスと呼ばれる新興・途上国に影響力を強めている。グローバルサウスはロシアのウクライナ侵攻にも中立的で、国の統治体制も中露をモデルとする国が少くない。 

 何といっても、中国の経済発展・大国化の影響が大きい。英エコノミスト紙のEIAによると中国は「独裁政治体制」に分類され、その「民主主義指数」は世界167カ国中148位にランキングされるなど、中国は民主主義国と見なされていない。しかし、中国はこうした西側の見方を否定する。民主主義には各国の歴史や文化に根ざした形態があり、中国には中国の民主主義があると主張している。

 分断化が進み、民主主義が退行するような世界の中で、日本はどうあるべきだろうか。日本は立派な民主主義の国で(ちなみに英国エコノミスト紙EIAは日本を「完全民主主義国」の一つに、スウェーデンIDEAは日本を「中程度の民主主義国」に分類している)、日本は今後も民主主義が最良であると信じ、民主主義による国家運営を成熟させ、民主主義でやっていくのが良いと思う。世界の民主主義の成長の歴史と日本の民主主義について、次回もう少し考えてみたい。

令和6年11月1日

第159回 貧にして怨み無きは難し―孔子

『論語』に言う、「子曰く、貧にして怨(うら)み無きは難く、富みて驕り無きは易し」と。貧乏で恵まれない人が、社会を恨むようになる。よほどできた人物でも、これを無くすのは難しい。これに比べると、裕福で恵まれた人が、驕り高ぶらないでいるのは易しいことだ。二千五百年も前の人間通、孔子の言葉である。

 孔子は貧乏で代表させたが、人の怨みの原因は貧乏だけではない。また、無くすのが難しい、厄介な感情は怨みだけではない。「憤り・怨み・嫉妬・憎悪」といった、人間の複雑な負の感情を「ルサンチマン(フランス語 ressentiment)」といい、概して弱者、敗者が、敵わない強者に対して内面に鬱積させる場合が多い。ルサンチマンは、人間心理の根底にかかわり、克服が難しい。

 ルサンチマンはしばしば他者に対する復讐心を伴い、社会を攻撃する言動の温床となる。モンスタークレーマー、ネットに誹謗中傷のコメントを投稿し続ける、認知度の高い芸能人やスポーツ選手に対するSNSでの誹謗中傷、政治家に対する過度な非難や中傷、官僚バッシングなど、現代社会の様々な問題がルサンチマンから発生している。

 福澤諭吉が『学問のすすめ』で、「怨望の人間に害あるを論ず」と、今で言うルサンチマンの一つ、「怨望」を論じている。凡そ人間の不徳は多いが怨望ほど害あるものはない。徳不徳は一概に決められない。「節倹」は徳であるが、「節倹」も行き過ぎると「貪吝」という不徳となる。同様に驕傲と勇敢、粗野と率直、固陋と実着、浮薄と鋭敏など、すべて、働きの場所と強弱の度で徳になったり不徳になったりする。しかし、「怨望」だけは一方的に不徳である。怨望は人と自分のあり様に不平を抱き、他人を損じ、他人を不幸にして満足しようとする、不善の最たるもの。怨望は衆悪の母で、詐欺虚言、猜疑、嫉妬、恐怖、卑怯の類は怨望より生じ、私語、密談、内縁、秘計となって見(あら)われ、徒党、暗殺、一揆、内乱などに発展する、と。

 ルサンチマンと同じように、精神の客観性を欠くものに人の被害者意識がある。怨みや嫉妬、憎悪といったルサンチマンが攻撃性を生むように、強い被害者意識の持主が攻撃的行動に出て、加害者となることがある。人に被害者意識が生じるように、国家にも被害者意識がみられる。ロシアは大国であるが、被害者意識が強く、ロシアの侵略戦争と攻撃的防衛戦略にこの意識が横たわっている。ウクライナ戦争を正当化するのも、ロシアは加害者ではなく、被害者だとの国家感情がある。

 中国にも被害者意識がある。中国は近代を欧米や日本に奪われた屈辱の歴史と感じている。力をつけた今、「偉大なる中華民族の復興」といったスローガンを唱え、膨張主義を取る背景に、強い被害者意識と伝統的な中華思想とミックスした複雑な感情がある。

 イスラエルとハマスとの戦争は、イスラエルが加害者の様相を呈している。しかし、イスラエルの攻撃性の根底に強い被害者意識がある。ヨーロッパで迫害され、近年ホロコーストを経験したユダヤ人の恐怖心と被害者意識は根深い。恐怖心と被害者意識がハマスやイランとの戦争を正当化する。

 被害者意識やルサンチマンといった負の感情を根にもった問題の解決は難しい。負の感情が意識の下(潜在意識)に沈潜し、自覚されることなく、攻撃的で自己中心的な言動となって顕れることもあるだろう。負の感情の存在をよく認識し、理性の精神でこれを克服するしかない。            令和6年10月15日

第158回  国家の徳、尊厳、及び平和

 自民党総裁選に9人が立候補し、論戦が行われた。この随筆が掲載される10月1日には、新総裁が誕生しているだろう。自民党総裁は日本の総理大臣になるので、総裁選の論戦で、日本をこのような国にしていきたいといった国家像に関する論戦があればよいと思ったが、論戦は政治とカネの問題、党の信頼回復、経済・財政政策、少子高齢化などが主で、国家像に関しては、外交・安全保障のテーマで断片的な意見の開陳にとどまった。

 大きく変化していく世界の中で生きる今の日本に、目指す国家像、すなわち国家ビジョンが必要だと思う。「有徳の尊厳ある平和国家」。これが私の掲げたい国家ビジョンである。日本は言論自由の民主主義の国なので、一国民がかくありたいと思う国家像を表明することが全く無意味ではないと思いたい。

 国家ビジョン「有徳の尊厳ある平和国家」の、まず「有徳の国家」であるが、これは松下幸之助が昭和の時代に説いた国家論である。松下は「人間として一番尊いものは徳である」と言い、国家にも徳がなければならないと説いた。人に徳望や人徳があるように国家にも国望、国徳がある。国望、国徳のある国家は世界の国々から信頼され、頼られ、国望、国徳は国の力となる。松下は、1.国民の道義道徳心が高く、マナーが良いこと、2.文化の薫りが高く国土整備が行き届いていること、3.日本の伝統や歴史が国民の間で大切にされ誇りとされていること、4.経済力が充実していること、を国徳として挙げたが、こうした国徳も、国民の良識の程度、民度の高さに帰着すると考えていた。松下の説いた有徳国家論を改めて令和日本の国家ビジョンとして掲げたい。

 次に「尊厳ある国家」であるが、尊厳とは人間の生命や人格のように、尊くて侵しがたいこと(もの)をいう。人が尊厳をもつのと同様、国家も尊厳をもつと考えられており、国際法でも国家の尊厳は尊重されるべきものとされる。国家がなぜ尊厳をもつとみなされるのか。まず、国家は法と秩序を維持することで国民の自由、尊厳、権利を守るゆえ尊厳をもつ。次に、国家は自ら主権をもち、他国に従属せず独立して存在するゆえ尊厳をもつ。そして、国は独自の歴史と文化をもち、それが国民のアイデンティティや誇りの源泉となるゆえ尊厳をもつ。人間の尊厳は生まれつき備わっているが、国家の尊厳は人がつくるものである。独立しておらず他国に隷属する国家や、自国民の自由や権利を守らないような国家に人は尊厳を認めないだろう。尊厳ある国家は国民が努力してつくり維持するものであるゆえ、改めて国家ビジョンとして掲げたい。

 最後に「平和国家」であるが、世界がまた戦争の時代になるのかとの懸念もある今こそ、平和国家のビジョンを掲げたい。この時、平和は血のにじむような努力をしてつくりあげるものだという徹底した認識が必要である。その意味で、消極的平和主義でなく、積極的平和主義を掲げたい。考えられるあらゆる国際戦略を取り、戦争を未然に防ぐ。それでも自衛のために戦わなければならない時が来るかもしれない。その時も平和主義を堅持して戦う。しかし戦争はあくまで避けたい。日本の徳望、尊厳、国力、防衛力、国際的な連携が総合的な抑止力となって、日本と戦争する気が起きなくなるようにしたい。

 「有徳な尊厳ある平和国家」像が、令和日本のビジョンとなると思うのだがどうだろうか。

令和6年10月1日

第157回  岸田首相の退陣と世界情勢

 岸田首相が次期総裁選に出馬せず退陣することを表明した。新総裁の選出は9月12日に告示され、27日に国会議員による投票が行われる。岸田内閣は支持率が20%台まで低下し、自民党派閥の政治資金問題での批判も強く、再選は難しいと判断したのだろう。岸田首相を良い首相だと評価する私は、退陣を惜しんでいる。

 岸田首相は「日本も世界も歴史的に大きな転換期にある」と認識し、大きく変化する世界情勢の中で、日本の国の舵取りを過らなかった。ウクライナ戦争の勃発に際し、「国際秩序の根幹を揺るがす行為として、断じて許容できず、厳しく非難します」と表明し、価値と国際秩序を共有する西側の国として日本の立ち位置を明確に示したのは適切。ブレることなくロシアへの経済制裁にも加わり、グローバルサウス諸国との連携強化を進めたのも正しい外交判断だった。

 中国の経済・軍事大国化、台湾統一の意思、海洋進出等現状を変更しようとする意思、北朝鮮の核保有、及びウクライナ戦争で見られたロシアの変わらぬ侵略体質は、日本の安全に対する脅威であり、近年脅威は増している。岸田首相はバイデン大統領と良好な関係を構築、日米同盟の深化と、日本の防衛力の強化に積極的に取り組んだが、日本に必要な安全保障政策である。岸田内閣は国家安全保障戦略等、安全保障3文書を定め、防衛予算の増額に道筋をつけた。

 岸田内閣が昨年8月から福島原発処理水の海洋放出を迷わず始めたことも私は評価したい。原発からトリチウムを含む処理水が排出される。トリチウムは普通の水で適度に希釈すれば環境に放出しても、安全上全く問題ないが、海洋放出には国内にも国際的にも根強い反対があった。岸田内閣は、海洋放出計画が安全基準を十分満たしているとのIAEAの報告書と、安全上問題ないという科学の知見をもって海洋放出を実行した。放出の国際的理解を得、放出を始めて1年になるが、問題は何も発生していない。中国は処理水を核汚染水と呼んで非難し、日本の水産物の輸入を禁止し続けているが、これには科学的根拠はない。余談だが、トリチウムは通常運転中の原発からも発生し、世界の原発からトリチウムを海洋や河川に放出しているが、安全上全く問題ない。中国からも、例えば秦山第三原発は福島原発からの放出量の6倍のトリチウムを海洋放出している。

 ところで世界が歴史的な転換点にあるとの認識は良いが、どの方向に変化するのか、見通すのが難しい。中国が経済的・軍事的に大国化し、覇権国化して、国際レジーム、さらに世界秩序を変えようとしており、自由主義世界の覇権国アメリカと対立。そのアメリカは政治と社会の分断化が進み、自由と民主主義に価値をおくリーダーシップが減退している。これはトランプに特有な現象であって、アメリカの伝統的な自由と民主主義による統治能力とリーダーシップはなお健在と思いたいが、そうでないアメリカに変わりつつあるのかもしれない。

 ウクライナ戦争と、イスラエル・パレスチナ戦争も終息していない。世界はまた戦争の時代になりつつあるのだろうか。世界は分断と対立が進んでいるように見える。第三次世界大戦は事実上始まっていると言う歴史家もいる(そう思いたくないが)。

 首相となる人は、先の見通せない世界で、日本の安全と独立を維持する、過たない国の舵取りをしなければならない。私たちはこれができるリーダーを選ばなければならない。

令和6年9月15日

第156回  パリオリンピックに思う

 8月11日パリオリンピックが閉幕した。東京オリンピックが4年前でなく3年前だったので、オリンピックがもう来るのかという思いがしたが、終わってみればパリ五輪も良い五輪だった。

 日本選手は金20、銀12、銅13、総数45個のメダルを獲得した。金、総数とも海外の五輪で過去最高。国、地域別の金メダル数は、米国、中国に次ぐ第3位だった。海外の大会で金メダル数第3位は、1968年のメキシコ大会以来。

 日本選手の活躍は皆すばらしかった。体操男子団体の優勝には感動した。団体戦はフランスに負けたが、日本の柔道も良かった。日本人の柔道には美しさがあると私は思うのだがどうだろうか。レスリングでの日本の強さには驚いた。日本選手が次々と勝ち、金8個を獲得した。国内での真摯な研鑚と努力の賜物であろう。フェンシングでの日本の強さも驚きだったが、スケートボードで優勝した若い選手の精神力も特筆したい。陸上競技は五輪の花だが、競走は黒人が圧倒的に強い。人類(ホモサピエンス)は他の哺乳類に比べて極めて均一な種族であって、遺伝子は99.99%以上共有されており、いわゆる「人種」の概念には科学的な意味はないという。しかし、そのわずかな違いの中に、競走における黒人の筋力と骨格に遺伝的な優位性があるのだろう。北口さんの槍投げの金はすばらしかった。この人は、ハンマー投げの室伏さんのようなスポーツ界の指導者になっていく人のように思われた。競泳も競走と同様、遺伝子のわずかな違いによる人種的な体力差があるように思っていたが、中国が競泳で欧米や豪州に負けない実績を挙げているのを見ると、そういうことはないのかもしれない。中国といえば卓球における強さは驚異的である。国技のような卓球の位置付けと、すぐれた練習システムが言われるが、この競技はよほど中国人に合っているのではないかと思ってしまう。

 国別メダル獲得数を見ると、人口の多い大国がメダル数が多いのは当然だが、それだけではなく、国力と人々の活力がメダル数に現れると思える。人々がある程度豊かで、自己実現でき、活力ある生活ができている国はメダル数が多くなる。韓国と北朝鮮は全く同じ民族で、人口は韓国が北朝鮮の2倍程度に過ぎないが、メダル獲得数は全く違う(韓国が金13、北朝鮮0)。両国の国力の差が出ている。日本はどうか。日本のメダル数は、過去、だいたい英、仏、独、伊、韓国などと同じくらいで、世界的に見てある程度豊かで活力のある国の一つである。パリ五輪で日本がこうした国と同程度以上のメダルを獲得したのを見て、日本は平成以来経済力/国力が凋落し続けているが、人々の活力は維持され、本当に力のある若い人々が生まれてきているのではないかと思ったりする。若い日本人選手のインタビューを聞くと、皆立派だと思う。楽しんで、集中したこと、そして感謝の言葉を口にする。成熟した、真に力のある若い日本人が増えてきていると思ったりする。

 オリンピックに参加し、多くの活躍する人を生む国が概して良い国だと思う。ロシアは国家ぐるみのドーピングが発覚し、オリンピック参加資格を失っていたが、ウクライナ戦争を起こしたため、改めて無期限の参加資格停止となった。

 オリンピックは、世界平和と人間の尊厳の理想を掲げて始められた祭典であるが、常に政治の影響を受け、政治に利用されてきた歴史がある。しかし、オリンピックは世界に貢献してきた意義あるイベントだと思う。今後もオリンピックを継続するのがよい。

令和6年9月1日

第155回  知魚楽

 湯川秀樹博士のエッセイに面白いものがある。湯川さんは色紙に何か書いてくれと頼んでくる人に、時々「知魚楽」と書いて渡したという。「知魚楽」とは、古代中国の古典『荘子』からとった文句。 

 ある時、荘子が恵子といっしょに川のほとりを散歩していた。恵子は議論が好きな人だった。二人が橋の上に来かかった時に、荘子が言った。「魚が水面に出て、ゆうゆうと泳いでいる。あれが魚の楽しみというものだ。」すると恵子は、たちまち反論した。「君は魚じゃない。魚の楽しみがわかるはずがないじゃないか。」荘子が言った、「君は僕じゃない。僕に魚の楽しみがわからないということが、どうしてわかるのか。」恵子はここぞと言った、「僕は君ではない。だからもちろん君のことはわからない。君は魚ではない。だから君には魚の楽しみがわからない。僕の論法は完全無欠だろう。」荘子は答えた、「議論の根源にたちもどろう。君が僕に『君にどうして魚の楽しみがわかるか』と聞いた時、すでに君は僕に魚の楽しみがわかるかどうか知っていた。僕は橋の上で魚の楽しみがわかったのだ。」

 湯川さんは言う。恵子と荘子の議論は、科学の合理性と実証性にかかわる問答である。魚の楽しみというような、はっきり定義もできず、実証も不可能なものを認めないという恵子の方が、科学の伝統的な立場に近いように思われる。しかし私(湯川)自身は科学者の一人であるにもかかわらず、荘子の言わんとするところの方に、より同感したくなる。大ざっぱに言って、科学者のものの考え方は、「実証されていない物事は一切、信じない。」という考え方と、「存在しないことが実証されていないもの、起こりえないことが証明されていないことは、どれも排除しない。」という両極端の考え方の間にある、と。

 養老孟司さんは、ベストセラーとなった『バカの壁』シリーズで、ものがわかるということについて深い考察を展開している。人は話せばわかるというが、それはうそである。人は自分が知りたくないことは、情報を遮断して壁が生まれる(バカの壁)。そんなことはわかっていると言うが、実はわかっていると思い込んでいるだけ。説明したからってわかることばかりではない。「ビデオを見たからわかる」、「一生懸命サッカーをみたからサッカーがどういうものかがわかる」など、わかるというのはそういうものではない、ということがわかっていない。

 「理解する」とか「わかる」というと、みんな「意味」と結びつけて考える。ところが脳の大部分は無意識という「意味のない部分」が占めていて、意識は氷山の一角。意識は意味を求めたがる。わかるとかわからないとか言っても、それは意識の一番上澄みの部分だけの話をしているに過ぎない。その下には膨大な無意識や無意味が隠れている。無意識や無意味なんて、お互いにわかるはずがない。上澄みだけを見て意味を求めるから「通じるはずだ」と思ってしまう。だから私(養老)は「人間はもっと謙虚になれ」といつも言っている。

 湯川さんや養老さんの考察は、「人は何を知ることができるか」を問う古来の哲学上の難問、認識論である。養老さんもそうだったようだが、私も若いころは勉強すれば何でもわかるようになると思っていた。また、人は理解し合えるものだと思っていた。しかし、この年になって、人が自分を理解しないのは当たり前のことであって、自分も人のことをわかっていないことがよくわかった。養老さんの本を読み、年を取って少し謙虚になった。

令和6年8月15日

第154回 アメリカの政治暴力と民主主義

 7月13日トランプ前大統領が、ペンシルベニア州で開かれていた共和党の選挙集会で狙撃された。弾丸は右耳の上部を突き破り、右耳から出血。もし数センチずれていたら頭部に命中して落命していた。複数回発砲があり、集会参加者の1人が死亡し、2人が負傷した。狙撃犯は同州に住む若者で、その場で警護官に射殺されたため、動機は不明であるが、次期大統領になる可能性の高いトランプの暗殺未遂事件であった。

 近年のアメリカは、政治的暴力を容認する傾向が増していると見られる。カルフォルニア大学デービス校の調査によると、回答者の80%が「政治的暴力は一般的に良くない」と答えているが、20%の回答者は「時々、あるいは常に正当化される」と答えている。また、アメリカの公共ネットワークによる最近の調査でも、20%の回答者が「国を正常な軌道に戻すためなら暴力に訴えても良い」と答えている。

 カルフォルニア大学サンディエゴ校のバーバラ・ウォルター教授は、過去の政治的暴力や内戦について調べた結果、近年のアメリカが政治的暴力の生じるリスクの高い国になっているという。教授は、内戦や政治的暴力に見舞われた国の状況を分析し、2つの重要要因を挙げた。一つは、「アノクラシー」。世界には民主主義国家と独裁的専制国家の中間に、「アノクラシー」と呼ばれる政体の国がある。内乱の起きるのは民主国家でも専制国家でもない、部分的民主主義のアノクラシーの国である。専制国家から民主国家への移行過程、民主国家における民主主義の退行過程を含むアノクラシーの国家は、政情不安や内戦に至る危険性が専制国家の2倍、民主主義国家の3倍あるという。

 重要要因の二つ目は、「民族、宗教、人種的アイデンティティによる政治的分断の激化」である。内戦に至る国には「民族、宗教、人種的なアイデンティティ」に基礎づけられた政党が存在する。アイデンティティに訴える政党は政治信条に基づく政党よりも柔軟性を欠き、妥協を一切拒否する。過去世界において、内戦は二つの特徴---アノクラシーとアイデンティティによる政治的分断---を持つ国において発生している。アメリカでも二つの特徴が顕著になりつつあり、政治的暴力の生じるリスクの高い国になっているという。

 アメリカの歴史を振り返ると、政治的暴力と政治テロが多発していることがわかる。暗殺された現職の大統領に、リンカーン大統領、ガーフィールド大統領、マッキンリー大統領、ケネディ大統領の4人がいる。暗殺未遂に遭った大統領にセオドア・ルーズベルト大統領とレーガン大統領がいる。ロバート・ケネディ上院議員は大統領選遊説中に暗殺された。最近ではスカリス下院議員が親善野球中にテロに合い、重症を負った。また、カバノー最高裁判事の暗殺未遂事件があり、ペロシ元下院議長の自宅が暴徒に襲われ、夫が負傷した。

 スウェーデンの民主主義・選挙支援国際研究所(IDEA)は、世界の民主主義の現状を分析した報告書の中で、2021年初めてアメリカを「民主主義が後退している国」に分類した。アメリカは日本にとって最も重要な国であるが、はたして実際、アメリカは政治暴力の頻発する、民主主義の劣化した国になっていくのだろうか。

 私はアメリカをなお、信頼している。国としてロシアや中国よりずっと良い。日本はアメリカの同盟国である。日本はよほどしっかりしなければならないと思う。

令和6年8月1日

第153回 津田梅子---高尚な独立自尊の生涯と良きアメリカ

 7月3日新札が発行されて、一万円札の肖像画が渋沢栄一に、五千円札は津田梅子に、千円札は北里柴三郎に変わった。三人とも、卓越した知力と独立自尊の精神で近代日本に大きな貢献をなした、すばらしい人たちである。渋沢栄一と北里柴三郎については、一度当エッセイで論じた。以下、女子英学塾(現:津田塾大学)を創設して、日本の女子教育に尽力し、近代日本の女性の地位向上の道を切り開いた人として評価される津田梅子(1864-1929)について論じる。

 津田梅子は1871年(明治4)、7歳のとき明治政府の派遣する初めての官費女子留学生の一人としてアメリカに留学し、10年間アメリカで過ごした。帰国後、華族女学校の英語教師などを務めたが、1889年(明治22)再び米国に留学、ブリンマー大学で生物学を修めて帰国。日本の良妻賢母型の女子教育に飽き足らなさを痛感する梅子は、「男性と協同して対等に力を発揮できる女性を育成」する高等教育の場として、1900年(明治33)女子英学塾を設立した。女子英学塾は、その厳しさとレベルの高い自由な教育が評判を呼び、学生数も次第に増加。戦後は津田塾大学となり、日本を代表する女子大学として発展し現在に至っている。

 梅子の父・津田仙は実直な幕府の通訳官だった。梅子は妥協を許さない潔癖な性格で、頑固さと実直さは父親ゆずり、人柄は地味だが、心に熱く一徹なものを秘め、正義感と責任感が強かった。梅子が1回目の留学を終えて帰国後、日本での女性の仕事のあり方に失望した手紙を、留学中にお世話になったランマン夫人に送ったが、アメリカに戻って来なさい、という夫人の手紙に梅子は、官費留学生として派遣された以上、日本に留まって恩返しする「道義的責任(Moral Obligation)」があります、と返信している。

 梅子の英学塾における教育は極めて厳格で、並大抵の勉強ではついていけなかった。学生たちに完璧な予習を求め、英語の発音指導は特に厳しく、“No, no! Once more! Once more!”と正しい発音ができるまで何十回でも繰り返させた。

 私は、津田梅子とかかわりのあった当時のアメリカ人の立派さに深い感銘を受ける。7歳の梅子を預かったランマン夫妻は、10年間、実の娘同様に梅子を慈しんだ。「もし梅子の留学が打ち切られるようなことがあれば、私どもは梅子の養育費や教育費を負担して預かり続ける覚悟です」という夫妻の書簡が残っている。

 梅子は1回目の留学時にフィラデルフィアの資産家・慈善家メアリー・モリス夫人の知遇を得た。2回目の留学中、梅子は日本女性をアメリカ留学させるための奨学金の創設活動を始めたが、モリス夫人は募金委員長を引き受けて8千ドルの基金を集め、日本婦人米国奨学金を発足させた。帰国後梅子が女子英学塾の設立に取り組んでいるのを知ったモリス夫人、ブリンマー大学学長M・トマスなどは、モリス夫人を委員長とするフィラデルフィア委員会を組織し、女子英学塾を支える寄付金を継続的に集めて日本に送り続けた。

 1923年(大正12)関東大震災に見舞われた英学塾は校舎を全焼し、塾の存続も危ぶまれる窮境となった。来日して塾の教育に協力していたアナ・ハーツホンは、すでに63歳となっていたが、急遽アメリカに帰国して募金活動を開始。3年間で50万ドルを超える寄付金を得て、塾の復興と小平キャンパスの建設を果たした。このような献身的な助力は、私心の全くない梅子の高尚な志に感じて実現したことだろうが、それだけとは思えない。こうした行動をとるアメリカ人と、アメリカの寄付文化に懐の深さを感じている。

令和6年7月15日

第152回 「政治は最高の道徳」について

 「政治は最高の道徳である」。戦前の浜口雄幸元首相が残した言葉で、戦後では福田赳夫元首相の口癖だった。現在の自民党にも、「政治は最高道徳」を政治信条とする政治家がいる。

 しかし今の日本は、政治資金の裏金問題とか、政治家の不倫問題などがスキャンダラスに報道され、政治家に道徳など期待できない、政治家が道徳を口にするのがおこがましい、といった風潮がある。こうした、日本に見られる、ただ政治の悪さを嘆き、政治を軽蔑する風潮はよくないと私はいつも思う。

 一方、「政治は最高道徳である」はすばらしいものの、この政治信条の実践は、真面目な意味で本当に難しいと思う。実際の政治的活動において、具体的にどう決断していくのが最高道徳になるのか容易にわからないからである。政治学者マイケル・サンデルは正義とは何かを追求し、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の涵養の三つのカテゴリーから正義を論じた。現実の具体的案件に直面する人間が、どのように判断し、決断し、行為するのが正義といえるか、多くの具体的事例に即して検討し、幸福、自由、美徳という申し分のない正義のカテゴリーも、一律にそれだけを金科玉条とする判断では正義にならない場合もあることを示した。同様に、人々の幸福、自由、美徳の実現が最高道徳であると考えても、政治家が現実的具体的問題に直面してどう判断すれば最高道徳に適うのか、容易にわからない。

 また、近代政治学は政治に関する実証的、経験的、科学的な研究を主たる研究領域とし、政治に関する哲学的、倫理的な考察、あるいは政治や国家の本質や目的、実現すべき理念や価値などは、政治学の重点的な研究対象から除外される傾向にあるように見える。近代の学問の専門化傾向、分析的、要素還元的傾向と軌を一にする傾向だろうか。しかし、共同体の中で生きる人間のあり方を問う政治学は、必然的に倫理、道徳を広く含む研究となるのであって、その観点から近代よりも古代のアリストテレスに、より普遍的な政治学の考察が見られるかもしれない。アリストテレスは政治学と倫理学を一体的に考察した。アリストテレスは道徳の根底にある「善」を考察し、「善こそが政治の究極目的である」、「最高善は政治的である」と言い、政治的共同体の至高目的は国民の美徳の涵養にあると説いた。

 日本の政治家が「政治は最高道徳」と言うとき、「最高道徳」は単に道徳の一徳目ではなく、個々の道徳を含みつつ、これを超えた高度の総合的な道徳的判断力、善の実行力をイメージしていると思う。狭量な道徳的判断でもなく、教条的な判断でもない、おそらく愛と勇気に満ちた理性的な道徳的判断力、実行力であろうが、これを常に誤らず現実の政治に実現するのは至難のことで、これができる政治家は多くないだろう。

 しかし、「政治は最高道徳」という政治信条をもつ政治家は、そうでない政治家よりすぐれた実績をあげてきたのではないか。完全に実践できなくても、こうした政治信条は政治家に良き政治的判断をもたらすと信じる。浜口雄幸元首相、福田赳夫元首相はすぐれた、良き政治家だったと思う。政治家の不徳をいたずらにあげつらうのではなく、「政治は最高道徳」を信条とするような良き政治家を我々は支援していきたい。

令和6年7月1日

第151回  神道の世界的普遍性

 神道は日本の固有の民俗信仰で、キリスト教、イスラム教、仏教のような世界宗教(普遍宗教とも呼ばれる)ではない。しかし、神道はこうした世界宗教と違った人類的普遍性をもつ信仰・精神・教えだと私は思うので、今までこのコラムで二、三度神道について書いてきたが、今回また論じる。

 そもそも神道はいかなる信仰か。そのエッセンスはまず、(1)清浄信仰。清浄に至高の価値を置き、汚れ(=穢れ)をはらい、心身を清浄にして生命力を回復する信仰。(2)自然信仰。自然の中に神の存在を感じ、自然を畏敬し、自然を神とする。自然の理法に帰依する。(3)祖霊信仰。祖先を崇め、祖霊を祭る。祖先は祭られてと神なり、子孫を加護する。(4)産霊(むすひ)信仰。万物を生成し、生命を生む神の霊力を産霊(むすひ)と言い、畏敬し、信仰する。 (5)言霊(ことだま)信仰。言葉には霊が宿り(言霊という)、発せられた言葉は現実化することを信じる。 (6)感謝。神道は感謝教(有難教)。神、自然、祖先、周囲に感謝し、おかげさまでとの思いで生きる。(7)中今。来世ではなく、今を精一杯生きること(=中今)を最も重視する。(8)多神教、全肯定。神道は八百万(やおよろず)の神が存在する。多くの神、存在するもの、生成するものをすべて肯定する。(9)世のため人のために尽くす。神道を倫理としてみるとき、神道の教えは、祝詞で唱えるこの教えに尽きる。

 こうした神道の教えのもつ人類的普遍性について、特に神道が多神教であることに視点をおき、二、三考えてみる。

 現在キリスト教、イスラム教のような一神教は世界人口の半数を超える信者数をもつが、キリスト教やイスラム教が広まる以前の世界はすべて多神教だった。ローマ時代にキリスト教一色となる以前の古代地中海世界は多神教の世界で、自然崇拝と祖先崇拝が行われていた。人は死して神となり、家族は先祖の墓を大事に守るなど、信仰生活が驚くほど日本の神道に似ている。また、キリスト教が広まる以前のヨーロッパのケルトおよびゲルマン社会も多神教で、自然崇拝と祖先崇拝の社会だった。ケルトでは森羅万象に神が宿ることが信仰され、太陽や大地に宿る神々を崇めた。またゲルマンの自然崇拝は、例えば森の大きな木を神木として崇めるなど、全く神道と同じである。

 多神教世界における自然崇拝はアニミズムである。アニミズムは自然界のあらゆるものに(人間、動植物だけでなく、山、川、岩石などにも)霊魂や意識が宿るという信仰・世界観で、一神教以前の地中海世界、ケルト、ゲルマン世界だけでなく、アジア、アフリカ、ヨーロッパ人入植以前の南北アメリカなどに広くみられた、全人類的な世界観である。神道もアニミズムである。英国の人類学者タイラーはアニミズムを原始的な宗教意識と見なしたが、私はアニミズムの方が近代の機械論的自然観よりも、良き世界観だと思う。地球環境が意識され、人間が自然を尊重し、自然とよく共存することが求められる現代人にふさわしい世界観である。

 多神教は多くの神(=多くの価値)を受け入れ、肯定し、寛容である。多神教である神道も、自然に存在するもの生成するものすべてを肯定し、多様であることが自然の姿なので、人類諸民族も多様な価値観をもちながら、そのまま共存共栄していけばよいと考える。こうした神道の世界観は現代人にふさわしい。

令和6年6月15日

第150回  和魂洋才について

 「和魂洋才」は、我が国固有の精神をもって西洋の学問、知識を学ぶことをいう。もともと我が国固有の精神をもって中国伝来の学問を吸収することを意味する「和魂漢才」という語があったが、明治になって西洋文明に先進性を認めた日本人は、「和魂洋才」の精神で西洋に学び始めた。

 明治以来、日本近代化のモットーとなった「和魂洋才」の精神は現在まだ死んでいないと思われるが、ここで今後の日本を考え、「和魂洋才」について、歴史的な反省を含めて今一度改めて考えてみたい。

 「和魂洋才」という語は、西洋に学ぶにあたって日本人の本来の精神や心持を忘れてはならないとの意を含み、日本本来の精神をより根本的な「魂(コン)」と見て、学ぶべき西洋の文化、文物を「才」と見ている。幕末の先覚者佐久間象山は、和魂洋才のあり方を「東洋道徳、西洋芸術」と説いた。ここで芸術とは今でいう芸術ではなく、技芸、学術のことで、主として技術や科学を意味する。学ぶべき西洋のすぐれた文化は技術や科学であり、それは「才」であって、より根本的な「魂」である道徳は東洋の伝統的道徳を良しとした。

 しかし、学ぶべき西洋の文化、文物を「洋才」ととらえるとらえ方は、不十分だと私は思う。「洋魂」を理解する必要がある。明治の日本人は西洋で発達した科学を「洋才」ととらえたが、科学は実は「洋魂」と言えないか。あくまで事実に立脚し、徹底して合理的に思考し、実験で確認し、物理(モノの理)を数学的に表現する。こういった近代科学精神は「洋魂」ととらえるべきではなかろうか。また、西洋で発達した自由、民主主義、人間の尊厳、法の支配といった精神も「洋才」ではなく、「洋魂」である。

 「和魂洋才」の含意する、西洋に学んでも和魂を失わないとの精神は非常に良いが、日本の歴史の中で和魂(=大和魂)が強調されて、日本精神の独善的な優位性の主張になることがあった。日本が対外戦争をしていた頃、軍隊で「防御する鉄板の薄さは大和魂で補う」などといった主張がなされたりした。敗戦後大和魂という言葉はあまり使われなくなったが、近年スポーツ界などでまた聞かれるようになった。

 「和魂洋才」は異文化理解と受け入れに関する、条件付きの良きスローガンと見なしたい。日本文化は独自であり、西洋人は理解できない、日本人も西洋文化を理解できない、という思い込みは弊害を生む。同じ人間であり、理解が可能で、その上で自国の文化を失わない、といった精神が大切だと思う。ドナルド・キーンは日本文学を日本人以上に深く理解し、日本文学が世界の人々の理解できない特殊なものではなく、世界の普遍的な文学の一つであると主張した。そして、外国人は日本文化を理解できないと思っている日本人は多いが、それは偏見に過ぎないと言っていた。また、今年三月死去した世界的指揮者小澤征爾は、「中国に生まれ、日本に育った僕がどこまで西洋音楽を理解できるか、一生をかけて実験を続けるつもりだ」、「東洋人と西洋人は違う。だけどどっかでつながっているんだと思う」と言っていた。小澤征爾は西洋音楽を完全に理解し、世界の音楽をリードし、世界の音楽文化に貢献したのである。

 異文化理解と交流は新たな創造をもたらすという主張があるが、これを私は信奉したい。異文化との接触は軋轢となるが、それは新たな創造の源となる。異質な文化と接触し、自国文化を失わず、より高度の文化を生み出す。こうして日本と世界は新たな文化を生み出していくと信じたい。           令和6年6月1日

第149回  日本の国家理想

 国家に至上の価値があり、個人より国家に絶対的優位性があって、国家的な秩序や自分の属する国家が軍事的に強いことなどを他の価値に優先させる政治的な主張を国家主義という。現代日本は国家主義ではないが、戦前、大日本帝国は国家主義傾向の国だったと言えよう。現代世界ではロシア、中国が国家主義傾向の強い国のように見える。

 戦後、日本人は本格的な国家論をしてこなかった。国家を挙げて戦った大東亜戦争に敗北した日本人は、戦後国家を冷めた目で見るようになった。アメリカの科学技術と物量に負けた意識から、戦後は科学技術の重視と経済開発が自然な国是となった。それは成功し、日本は経済大国となった。平和な経済大国日本は、一つの意義ある国家のあり方だった。しかし現在日本は経済大国ではない。安全保障にも不安を抱え、その不安は増大している。

 国家に至上の価値を置き、すべてに優先させる国家主義は弊害が多く、否定されるべきだが、逆に国家を無価値なものとして否定したり、国家に無関心だったりしてはならないと思う。我々国民の生命、財産、安全、幸福、自由、人権、文化、他国に支配されないことなど、最高に価値あるものが国家に左右されるからである。日本は民主主義の国なので、日本をどのような国家にしていくか、そのあり方を我々国民が議論し、つくっていかなければならないと思う。

 歴史を振り返ると、明治政府が標榜した「富国強兵」は当時の世界で妥当な国家目標だった。明治国家はこれで相当程度成功したが、昭和になって国家が軍部に支配されて躓いた。国家目標「強兵」の運用に失敗したのだが、統帥権の独立などという常識を欠く主張が国家の運営を誤らせた。戦後はアメリカが世界で圧倒的な力をもつ中、憲法に定めた平和国家としての日本のあり方は、これでよかったと思う。しかしアメリカの力が減退した現在、今の国家のあり方で平和が守れるか問われている。

 日本をどのような国にしていくべきだろうか。人々が自由で幸福に暮らせる国、平和で住みやすい国、高い文化を持ち、高い科学技術力を持ち、経済大国ではないが確かな経済力を持つ豊かな国、国を守るしっかりした防衛力を持った国、国民の道義意識が高い国、そして、世界から良い国として敬意を持たれる国を目指したいと思う。

 そして最後に日本の国のあり方の根本に正直、事実主義を掲げたい。正直は今、世界的に重視されるべき価値だと思う。世界にフェークが増え、世界はフェークに苦しむようになった。正直や事実を軽視、あるいは無視しているとしか思えないような国もある。日本は国家のあり方として正直、事実主義を堅持するのが良いと信じる。日本の正直、事実主義は世界に貢献する。日本は嘘を言わない、信頼できるとの世界的評価は、どれほど日本の国益を高めることになるか知れない。

 日本の国のあり方は日本人の生き方そのものにかかわるが、正直で嘘を言わないことは日本社会で最も重んじられる価値になっていると私は思う。しかし、日本人が世界で正直と事実主義を貫くのは意識的努力を必要とするだろう。国際社会は自国益のため、騙したり、事実を曲げたり無視したりする戦略やプロパガンダが横行する。正直では国益を守れないように見えることもあるかもしれない。しかし最終的、長期的には正直、事実主義の方が強く、世界のためになり、国益をもたらすと信じる。

令和6年5月15日

第148回  文明の盛衰とエネルギー史観およびエネルギー政策

 太古から人類は文明を発展させて現代に至っているが、文明発展の根底にエネルギーがある。新しいエネルギーの獲得により新しい文明が生まれる。人々が豊富なエネルギーをもつとき文明は栄え、エネルギーが枯渇するとき文明は衰退する。これを「文明のエネルギー史観」というが、こうした史観をもつ識者は多い。「類人猿の水準から現在に至る文化の発展は、新しいパワー源が開発されることによって、一人当たりの年間エネルギー利用量が繰り返し増加した結果なのである(人類学者レスリー・ホワイト)」、「人間の精神とエネルギーが一つになるとき、人類の進歩に限界をもたらすのは、最終的には人間の着想ではなくエネルギー源である。歴史上のどんな社会にとってもいちばん肝心なのは余剰エネルギーの有無である(社会学者ハワード・オダム)」等々。

 現代社会は工業文明であり、工業文明は産業革命によって勃興したが、産業革命は近代のエネルギー革命に他ならなかった。エネルギーの変革によって新しい文明が生まれたのである。中世農業社会の木材等バイオマスを主体とするエネルギーから、石炭等化石燃料への転換が起きた。イギリスでガラス製造、石鹸製造等の燃料として石炭が使われ始めた。18世紀には石炭から得られるコークスを使った製鉄業が可能となった。ワットが蒸気機関を発明し、石炭等の燃焼による熱エネルギーを動力に変える技術を得、産業用、輸送用動力として広く使われ始めた。世界に先駆けて産業革命を達成したイギリスは19世紀、世界最富強の大英帝国となった。これを支えたのは石炭だった。

 20世紀、最富強国はアメリカに移った。アメリカの富強をもたらしたのは石油である。覇権国のイギリスからアメリカへの移動は、主エネルギーが石炭から石油に移ったのと期を一にしている。石油の連続掘削に成功したアメリカで、豊富な石油が急成長する自動車産業等の産業を支え、自動車等輸送用のエネルギーを支配した。また石油を原料とする石油化学工業が成立し、20世紀、アメリカは圧倒的な石油王国となった。1913年時点でアメリカは世界の石油の65%を生産していた。

 現在、世界は一次エネルギーの82%を石油、石炭、天然ガス等の化石燃料に依存し、現代文明はまさに化石燃料文明であるが、二次エネルギーを含めた最終エネルギーで見ると、電気が非常に重要なエネルギーとなっていることがわかる。電気は動力にも、照明にも、また熱源としても利用でき、瞬時に移動する非常に優れたエネルギーである。電気は通信・情報としても利用され、電気なくして現代社会は成り立たなくなっている。現代文明は電気文明ともいえる。

 文明はエネルギーによって興隆し、その枯渇により衰退する。エネルギーが文明を成り立たせる経済の根底にあるからである。文化もあるレベルの豊かさがなければ生まれない。一国の国力の根本も経済力であると私は思うが、その経済力の根底にエネルギーがある。エネルギーの安定供給が失われると、国の経済は衰えていく。

 地球温暖化問題が世界的課題となり、この問題に人間のエネルギー利用が直結するため、現在の日本のエネルギー政策は、CO2削減を至高目的とする環境政策的なエネルギー政策となっている。今年国のエネルギー基本計画が改訂される。新しい基本計画では、エネルギーの本来の役割と目的を重視する政策、すなわち、国の経済を成り立たせる根本としての性格を堅持するエネルギー政策とし、併せて経済安全保障の観点を強化した計画にする必要があると思う。

令和6年5月1日

第147回 石橋湛山--信念の言論人・政治家・思想家(2)

 第55代内閣総理大臣石橋湛山は、日本の歴代首相の中で(おそらく最高の)卓越した知性と哲学思想の持ち主だった。しかし、同時代の日本人はほとんどそれに気付いていなかった。激動する昭和の時代、政治経済のあり方を発信し続けた石橋湛山は、どのような思想家だったのか。

 湛山は徹底した自由主義者だった。湛山は「断固として自由主義の政策を執るべし」と言い、「自由主義の政策とは何ぞや。政治上、経済上、社会上、乃至思想道徳上における個人の行動に機会の均等を与え、その自由を保障する政策これなり」と説いた(1914年東洋経済新報社説)。湛山は軍部や世論の圧力に屈することなく自由な論陣を張り、ジャーナリストとしても政治家としても、自由主義者の信念を貫いた。

 湛山は民主主義者だった。議会制民主主義をブルジョワ独裁の手段などとは見ず、絶対主義ないし全体主義的専制政治を排して国民全体の欲望を広く反映し、漸進的に人間的自由を実現していく方法と考えた。湛山は大正デモクラシーを高く評価し、鼓吹した。元老政治、藩閥・軍閥政治を批判し、普通選挙法の早期実現を主張した。選挙権拡大による国民的利害の議会への浸透と、大衆の監視による活きた議会制民主主義の実現を目指した。英国の自由党や労働党のような野党が成立して、チェック・アンド・バランスの政党政治が 実現することを目標とした。

 湛山はプラグマティストだった。湛山は早稲田大学哲学科を首席で卒業したが、在学中、田中王堂に私淑した。王堂はデューイに師事して日本にプラグマティズムを伝えた哲学者である。湛山はJ・S・ミルからJ・デューイと展開していった英米の功利主義哲学の良き伝統を受容し、ドイツ流の哲学的観念論に惑溺することはなかった。湛山の思想、活動には強靭な理性的良識(コモンセンス)がみられる。非常に合理的に考え、ラジカルな自由主義者、民主主義者であるが、活動は粘り強く、現実的だった。

 湛山は福沢諭吉と二宮尊徳を深く尊敬していた。湛山は言う、「私が福沢翁に傾倒する理由は、その門下に向かい、自ら実行できる確信のある主張でなければ、それを唱えてはならないと戒めていたことである。福沢翁も二宮翁も進歩的思想家でありながら、きわめて実践的だった」、「二宮翁は勤勉で倹約家として知られるが、私が翁を偉いと思うのは、徳川時代の日本で驚くべき自由主義に立脚していたことである。翁は、いかなる聖人の教えでも自己の判断で納得できないものは用いない、という大胆な自由思想家であった」

 石橋湛山は根底に宗教心をもった人だった。湛山は日蓮宗の高僧杉田湛誓の子であり、少年期を同じく日蓮宗の高僧望月日謙のもとで過ごした。湛山は言う、「有髪の僧のつもりであって、宗教家たるの志は、いまだこれを捨てたことがない」と。日蓮宗の在家または平信徒としての信仰が、湛山の生き方の根底をなしていた。湛山は晩年基督教も受け入れた。日蓮宗権僧正に叙されていた湛山は、晩年聖路加病院入院中、基督教の礼拝を欠かすことがなかったという。

 世界主義者で平和主義者だった湛山は、77歳のとき「日中米ソ平和同盟」構想を提唱した。世界が冷戦から平和共存に向かうと予見した上での湛山の提唱であるが、現実性を欠く夢想論とされ、実際に冷戦の終わった1989年以後も構想は実現していない。昨今はナショナリズムと、価値観の違いによる国家の対立感情は、むしろ強くなっている。昭和の時代あれほどの先見性を示した思想家湛山の提唱である。真剣に検討する余地はないだろうか。

令和6年4月15日

第146回 石橋湛山---信念の言論人・政治家・思想家

 石橋湛山(1884-1973)は第55代内閣総理大臣。1956年自由民主党総裁選で岸信介を破って総理に就任し、独立回復(1952年)後の日本再建の舵取りに邁進したが、2か月後気管支炎肺炎に倒れた。病気は容易に快復せず、医師団は向こう2か月の静養加療が必要と診断。ここにおいて湛山は退陣を決意した。「---私は新内閣の首相としてもっとも重要なる予算審議に一日も出席できないことがあきらかになりました以上は首相としての進退を決すべきだと考えました。私の政治的良心に従います---」。湛山の潔い身の引き方を知った国民は粛然とし、彼の退陣を惜しんだ。

 石橋湛山は戦後政治家に転身し、総理大臣にもなったが、戦前は東洋経済新報社記者、後に社長として言論界で活躍した著名なジャーナリストだった。湛山は自由主義者であり、戦前の、自由が失われていく時代にあって一貫して自由の論陣を張った。湛山は帝国主義、植民地主義に反対し、小日本主義を説いた。満州事変では大新聞がこぞって関東軍の行動を支持したとき、満蒙は日本のものにあらずとして、満州領有の不可を明言した。湛山は軍部の独走とその政治干渉を批判し、あくまで政党主体の議会政治を擁護した。軍部による言論統制が強化され、良からぬ自由主義者、反軍的であると圧迫を受けたが湛山は屈しなかった。

 言論人石橋湛山は確固とした哲学と歴史観をもち、結果としてその主張には未来を先取りしたような見識が見られる。湛山は大国日本主義を棄て、植民地の朝鮮、台湾、樺太を放棄し、満州に持つ日本の権益もすべて放棄せよと説いた。あの時代の日本人には到底受け入れられない主張である。しかしその後の歴史を見ると、大国日本主義の日本は満州権益に端を発する日中戦争につまずき、米英との戦争に突入し、敗戦で植民地をすべて失い、戦後小国日本となって復活した。日本は結果として湛山の見通した道を歩んだことになる。湛山は過去の欧米列強の帝国主義による植民地経営が、国民全般にとっては採算がとれるようなものでないことを、具体的に論証した。これからの世界は植民地の全廃に進むであろうし、すべての植民地が独立して新しい国家をつくるのが世界史の流れであると、あの時代に断言した。

 また歴史を振り返ると、戦前日独伊三国同盟の締結が日本の進路を決定的に誤らせたとの歴史評価はほぼ定着しているが、湛山は当時国内で高まる自由主義排撃の動きや独伊両国への礼賛気運を戒める言論を展開した。自由主義・個人主義・デモクラシーが「わが国体に適わない悪思想」であり、独伊両国で起こった全体主義は「日本古来の精神と一致する」などという見解は軽薄である。平和が回復し産業が進めば、独伊の今日の全体主義は段々変化し、「中正の思想」に戻るだろう。両国があくまで個人的傾向を取り入れず、極端な全体主義を固守するならば、その全体主義は必然的に崩壊すると湛山は断言した。湛山は真の自由主義の理念を示し、自由主義に対する世間の誤謬を正そうとした。日本は対独伊接近策ではなく、親英米主義、特に対英関係改善により現状を打開すべきであると湛山は主張した。

 石橋湛山は戦前言論人の信念を貫き、しばしば時代を超える識見を示した。現在の日本は新しい戦前の時代などと言われる。湛山が生きていれば現在の日本と将来をどう洞察するだろうか。

令和6年4月1日

第145回 普遍的価値について

 ロシアの起こしたウクライナ戦争は、政治体制と価値観をめぐる戦争でもある。EUは価値の共同体と言われ、自由、民主主義、基本的人権、法の支配などの「普遍的価値」を自ら実現すべき理念として掲げてきた。ウクライナ戦争で、西欧の普遍的価値の強靭さが問われている。

 世界に先駆けて近代市民社会を成立させた欧米は、自由、平等、民主主義、基本的人権、法の支配を人類の普遍的価値とみなし、世界の他の国々も、社会の発展とともにこうした価値観を自然に受け入れるようになると思われていた。しかし、近年これが疑問視されている。

 まず、普遍的価値を主導する国とみなされてきたアメリカが変化している。トランプ大統領の就任演説(2017年)には歴代大統領の常套句だった自由、平等、民主主義などの言葉は一切なかった。アメリカには普遍的価値のもとに自国の利益と世界の利益とを調和させようと苦闘した歴史があるが、トランプはその苦闘の歴史を否定した。価値認識が希薄で、アメリカファーストを唱えるトランプが再び大統領になるかもしれない。

 普遍的価値を共有する最先進国とみなされるG7のサミットは一致してロシアのウクライナ侵略を非難し、ウクライナを支援する声明を出しているが、世界でのG7の影響力は急速に低下している。G7に中国、インド、ブラジル、ロシア、メキシコ、インドネシアなどを加えたG20の影響力が大きくなっているが、G20には自由、民主主義、人権などを人類普遍の価値とは見なさない国も多い。

 そして中国。中国は習近平の時代になって普遍的価値を西側世界の価値であると否定し、富強、民主、和諧、自由、平等、公平、法治、愛国などの「社会主義の革新的価値」や平和、発展、公平、正義、民主、自由などの「全人類共通の価値」を唱えるようになった。自由や民主が含まれているが、中国には政府を批判する言論の自由はなく、民主は一党独裁の人民民主なので、西欧の普遍的価値と同じとは言えない。

 鄧小平による改革開放以来驚異的な経済成長を達成し、自信を深めた中国が欧米の普遍的価値に対抗する価値として、中国独自の価値を主張するようになった。中国が欧米の普遍的価値を拒否するもう一つの理由として、欧米による自由、民主、人権といった価値の主張を内政干渉ととらえる意識がある。

 そして日本。日本が普遍的価値を口にし始めたのは安倍内閣からである。安倍首相が唱えた「自由で開かれたインド太平洋」構想は、価値観を共有する米国、英国、EU、オーストラリア、インドから基本的に支持されたが、中国はこれを対中国包囲網の構築とみなし、警戒している。現岸田内閣は安倍内閣の価値観外交を踏襲している。

 「普遍的価値」に対して日本はどのような態度でいくべきだろうか。自由、民主主義、法の支配、基本的人権などを日本も普遍的価値と認め、国の運営、外交の方針として堅持するのがよいと私は思う。こうした価値は欧米で発展したが、日本の伝統になかったものでもなく、開国後170年の経験を経て日本に定着した。特に敗戦を経験して、日本は文明的に成熟したと考えてよいのではなかろうか。中国をはじめとする普遍的価値を共有しない国との交際は、相手国の価値批判は控えながらも、自国の奉じる価値は謙虚な自信をもって堅持し、戦略的に付き合う。

 価値には良し悪しが伴う。自由、民主主義などを普遍的価値とする国の方が、そうでない国よりも良い国だと私は思う。

令和6年3月15日

第144回  地球温暖化問題について思う(2)

 温暖化による地球環境への深刻な影響を防ぐために、今世紀半ばにCO2排出実質ゼロ(カーボンニュートラル)とすることが国際的に合意されている。しかし、その達成は容易でない。

 すべての人間の活動にはエネルギーが必要である。食料もエネルギーである。エネルギーなくして人間は生存できず、社会、文明、文化も維持できない。現在、世界のエネルギー使用量は毎年604エクサジュール(石油換算144億トン)という膨大な量に達し、その82%が化石燃料である。この化石燃料が年314億トンのCO2を排出し、温暖化をもたらしている。CO2排出を実質ゼロにすることは、現代社会の基盤のエネルギーを根本的に変えることで、短期間で容易にできることではない。

 産業革命によって工業社会となり、現代に至っているが、産業革命の本質はエネルギー革命である。木材が枯渇し、化石燃料が使われ始めた。石炭からコークスをつくり、製鉄にコークスを使う技術が開発された。ワットが蒸気機関を発明し、熱エネルギーを動力に変える技術を得た。紡織に蒸気機関が導入され、織物の大量生産が可能となった。ファラデーによる電磁誘導原理の発見は、発電機とモーターの発明をもたらし、電気の利用の道を開いた。電気は動力として、照明として、また熱としても使える非常に優れたエネルギーで、現代社会のエネルギー基盤となっている。しかし電気は二次エネルギーで自然界には存在せず、一次エネルギーからつくらなければならない。現在、世界の発電量の60%が化石燃料を燃やす火力発電によっている。

 現代社会のエネルギー基盤は、化石燃料利用の多くの技術的イノベーションを経てできたものである。今後さらに活発な技術的イノベーションによって、CO2排出実質ゼロのエネルギー基盤を構築することができるだろうか。

 発電部門、産業部門、運輸部門、民生部門別にみると、まず発電部門ではCO2無排出の技術は存在する。原子力と再エネである。再エネは出力不安定のため、大量導入するには調整電力のイノベーションが必要である。調整電力として水素利用技術と蓄電池は存在する。再エネ、水素利用、蓄電池に一層のコストダウンを得て、原子力、再エネ、揚水発電、水素、蓄電池の組み合わせでCO2無排出の電力供給基盤を実現できるかもしれない。

 産業部門では、製鉄にコークスを使う鉄鋼業からのCO2排出が大きい。水素還元の原理を導入し、高炉に水素を吹き込んで20%ほどCO2を削減する技術は実証されたが、全面的な水素製鉄はできていない。

 運輸部門は、搭載電池のコストダウンによってEVが普及し始めている。EVはCO2無排出であるが、EVに充電する電気を火力発電に依存するかぎり、乗用車のEV化は脱炭素を意味しない。運輸部門の脱炭素は多くが発電部門の脱炭素に依存する。

 民生部門はオール電化によってCO2無排出となる。民生部門の脱炭素も発電部門の脱炭素に帰着する。

 CO2排出実質ゼロの実現性を概観すると、発電部門における脱炭素が最も重要であることがわかる。発電における脱炭素は原子力利用をベースとし、再エネと各種調整電力の技術的イノベーションを得て達成できるように思われる。多くの技術がすでに存在している。実用技術となるには、大きなコストダウンを含むイノベーションが必要である。カーボンニュートラルが今世紀末までには達成できると思いたい。

 令和6年3月1日

第143回  地球温暖化問題について思う

 地球温暖化が進んでいる。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)第6次評価報告書によると、地球の平均表面温度は工業化以前の水準(1850-1900年の平均)から1.1℃上昇した。温暖化は今後も進み、このまま行くと今世紀末には最大3.3~5.7℃上昇すると予測されている。温暖化が進むと、海面上昇による低地の海没、浸水の他、熱波、干ばつ、豪雨、洪水などの異常気象の頻発、砂漠化の進行、さらに種の絶滅を伴う生態系の変化など、深刻な地球環境の変化が起きる。温暖化は、人間の活動によって大気中に排出されたCO2をはじめとする温室効果ガスによって起きていることが、疑う余地がなく明白である、とIPCCは断定した。

 IPCCは、温暖化が工業化以前の水準から2℃以上進むと極めて深刻な地球環境の変化が起きるとし、2℃未満に抑えることを目標にしたが、その後、1.5℃に抑えるのが環境変化のリスクがずっと少なく、望ましいとした。これを受けてCOP21(第21回気候変動枠組条約締約国会議、2015年パリ)で、2℃未満を目標に定め、1.5℃に抑える努力を追求することとし、各国が削減目標を提出することになった。COP26(2021年グラスゴー)では、1.5℃に抑えることの重要性が強調されて1.5℃が事実上の目標となり、これに沿って2030年までに世界のCO2排出量を45%削減、今世紀半ばに排出量実質ゼロ(カーボンニュートラル)とすることの合意がなされた。そして直近のCOP28(2023年12月ドバイ)では、1.5℃に抑制するため、温室効果ガス排出量を2030年までに43%削減(CO2は45%削減)、2035年までに60%削減(CO2は65%削減)し、2050年までにカーボンニュートラルを達成する必要があることを認識する、と合意された。

 地球温暖化が問題となり、温室効果ガス排出量の国別削減目標値が初めて決められたのはCOP3(1997年京都)に於いてであるが、温暖化問題の認識の深化とともに削減目標は次第に厳しくなり、現在とても実現できそうもない目標となっている。今から5、6年後の2030年までにCO2排出45%の削減、10年後の2035年までに65%の削減など、実現不可能である。必要な広範囲の実用レベルの技術が得られていない。原子力、再生可能エネルギーなど、CO2排出ゼロの技術は存在する。しかし太陽光や風力などの再エネは出力不安定で、一定量以上は電力系統に導入できない。原子力はCO2無排出の優れたエネルギーであるが、非常に長期の建設期間を要する。他にCO2排出ゼロの技術は数多く存在するが、実用レベルに達していない。削減目標が達成できないもう一つの理由に、世界の国はすべて、先進国、途上国を問わず、自国の経済発展を妨げるようなCO2削減策は現実的に取らない(取れない)ということがある。

 COP28では、各国が現実的に取れる対策がいくつか合意された。化石燃料についてはフェーズアウト、フェーズダウンではなく、化石燃料からの移行という表現になり、エネルギー安全保障と円滑な移行燃料(おそらく天然ガスを含む)の役割が明記された。また原子力とCCUSが推進すべき技術として再エネと並んでポジティブに明記された。COPのこうした現実的アプローチは必要なことだと私は思う。

 1.5℃目標はまだ死んでいないが、2035年CO2の65%排出削減は実現できず、2050年頃には気温上昇も1.5℃に達するだろう。しかしこの頃までには、広範囲の革新的な実用レベルの脱炭素技術がつくりだされていると信じたい。今世紀後半から末までにはカーボンニュートラルを達成して、温暖化の進行が止むことを期待したい。

令和6年2月15日

第142回  「我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚に非ず、共にこれ凡夫のみ」---十七条憲法第十条

 十七条憲法は古代の飛鳥時代に聖徳太子が制定した国の基本法であるが、第十条に以下のような定めがある。「十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。彼れ是とすれば、我れは非とす。我れ是とすれば、彼れは非とす。我れ必ずしも聖にあらず。彼れ必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理、詎(た)れかよく定むべけんや。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端なきがごとし。ここをもって彼の人は瞋(いか)ると雖(いえど)も還(かえ)って我が失(あやまち)を恐れよ。我れ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え」。

 この第十条は十七条憲法の白眉だと私は思う。十七条憲法はあの古い時代に、和をもって議論を尽くし、独裁でなく、衆議によって決めていく政府のあり方を根本に定めた驚くべき憲法であるが、第十条は、なぜ衆議によらなければならないか、人間というものの根本認識に立って述べている。すなわち、人は皆それぞれの心があり、心は自分を中心にものを考えるから、自分がいつも正しいと思い勝ちである。そして、それは人間の根本的な性向である。しかし実際は自分は聖者でもなく、違う考えをもつ彼も愚者ではない。共に同じ凡夫である。自分が絶対的に正しいと考えて、彼を否定することはできない。何が絶対的に正しいか(何が誤っているか)人は定めることはできない。従って、自分一人正しいことをつかんだと思っても、衆議に従って行動しなさい、と説いている。

 私は五十歳を過ぎてあらためて十七条憲法を読み、感動した思い出がある。聖徳太子は千四百年もの昔、人は皆凡夫であるとの仏教の深い人間認識に立って、現代にも通じる衆議という民主主義の基本を説いていた、と。「我れ必ずしも聖にあらず。彼れ必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理、詎(た)れかよく定むべけんや。相共に賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきがごとし」と言う。人は皆凡夫であるとの、これほどの達意の主張が他にあるだろうか。そして、太子は自分も凡夫であるとの深い自覚をもっていたに違いない。

 凡夫とは普通の人のことであるが、仏教では「煩悩具足の凡夫」と言い、凡夫は皆煩悩に満ちていると見る。煩悩とはあらゆる苦しみを生み出す原因となる心の動きで、怒り腹立ち、欲、妬みなど、百八つあると言われたりするが、基本的な煩悩は、貪欲(欲するものに執着する心)、瞋恚(怒りの心)そして愚痴(真理に暗いこと=無明)の三つであるとされる。そして仏教は、自分の考えに執着するのも煩悩であり、人がこの煩悩から解放されるのは極めて難しいと見るのである。自分が絶対的に正しく、人が誤っている、との思いは執着であり、凡夫の煩悩である。自己を絶対視しないことが、人を苦しみから解放するのである。

 今まで言われてきたことであるが、自己の正しさの絶対化を否定する仏教の思想は、人が争わず平和に共存する思想だと思う。人は争い、戦争を繰り返してきた。そして今も戦争の終わるときがない。自分は絶対的に正しいとの思いは戦争の原因となる。戦争という人類の宿痾をすべて解決できるとは思わないが、自己の正しさの絶対化を否定する思想は、思想、信条の違いと正義を原因として起きる戦争の解決をもたらす考え方として有効だと思う。

令和6年2月1日

第141回  必ず起きる南海トラフの大地震

 元日、能登半島が最大震度7、マグニチュード7.6の大地震に見舞われた。多くの家屋が倒壊し、津波も発生した。石川県での死者数は206人に上った(他に安否不明者が52人、11日現在)。道路が寸断され、多くの集落が孤立した。被災地で断水、停電が続き、避難した人々は2万6千人を超え、避難生活の長期化が予想される。

 あらためて日本は地震国だと思う。物理学者寺田寅彦は、「自然ほど伝統に忠実なものはない」と言う。地震と津波は、文化的伝統以上に強固な自然の伝統のように日本列島に出現する。その中で、歴史的に南海トラフを震源とする巨大地震(南海地震)が名高い。

 遠州灘の沖合から四国の沖合に延びる水深4千メートルの深い溝(南海トラフ)で、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下にゆっくり沈み込んでいる。そのため境界面の岩盤にひずみが蓄積されるが、蓄積されたひずみは、100年から200年に一度、境界面の断層の滑り破壊となって解放される。これが巨大地震の震源となり、大津波を発生させる。

 歴史資料の最初に現れた時から現在まで、南海トラフを震源とする大地震(南海地震)は9回発生している。一般に南海トラフの東半分で起きた地震を東南海地震、さらにその東(駿河トラフともいう)で起きた地震を東海地震と呼ぶが、過去南海地震のほとんどすべてが東南海地震、東海地震と同時に、または連動して発生している。

 684年の天武地震:マグニチュード(M)8と1/4。東海、東南海地震と同時発生。伊豆諸島が噴火。 887年の仁和地震:M8~8.5。東海、東南海地震と同時発生。富士山、伊豆諸島が噴火。 1096年の永長地震(M8.0~8.5)・1099年の康和地震(M8.0~8.3):二つ併せて永長・康和地震と呼ぶ。東海、東南海地震と連動して発生。 1361年の正平(康安)地震:M8と1/4~8.5。東海、東南海と同時または2日間隔で発生。1498年の明応地震:M8.2~8.4。東海、東南海と同時発生。太平洋岸の広範囲に巨大津波。津波による死者多数。波高は静岡県で10~15メートル。この地震で浜名湖が海とつながる。 1605年の慶長地震:M7.9~8.0。 1707年の宝永地震:M8.4~8.6。東海、東南海と同時発生。広範囲で家屋倒壊(倒壊家屋数6万余)、太平洋岸に大津波。地震と津波による死者2万人。富士山が噴火。 1854年の安政地震:12月23日に安政東海地震・安政東南海地震(M8.4)、翌日12月24日に安政南海地震(M8.4)が連動して発生。前者では、家屋の倒壊・消失3万件、死者2~3千人。太平洋岸に大津波。三重県で10メートルに達す。後者も太平洋岸に大津波。和歌山県串本で15メートル、高知県久礼で16メートル。死者・数千人。 1944年の昭和東南海地震:M7.9。紀伊半島から伊豆半島に津浪被害。死者行方不明1,223人。1946年の昭和南海地震:M8.0。2年前の昭和東南海地震に連動して発生。太平洋岸に津波被害。死者1,330人。

 南海トラフの最後の地震(昭和南海地震)後、78年経った。南海トラフ地震は約100年の周期で繰り返される。政府の地震調査研究推進本部は、マグニチュード8~9クラスの南海トラフ大地震が2013年から30年以内に70パーセントの発生確率で起きるとしている。また地震学者尾池和夫(元京大総長)は、発生確率の高い年を2038年としている。

 大地震は必ず来る。日本の宿命である。人は地震を止めることはできない。強い精神をもって、地震防災に力を尽くして生きる他ない。

令和6年1月15日

第140回  凋落し続ける日本の国力

 「凋落し続ける日本の国力」など元日のテーマとしてふさわしくないが、新年を迎えあらためて日本について考えるとき、これが最大の問題と思われるので、以下に論ずる。

 国力を構成するものに、経済力、軍事力、科学技術力、そして文化力があると思うが、根底をなすのは経済力だと私は思う。すぐれた文化も、あるレベルの豊かさがなければ生まれない。

 その豊かさが平成以降凋落し続けている。日本の一人当たりGDPは、2023年35千ドルで、アメリカ80千ドルの半分以下、イタリア37千ドルより少なく、G7の中で最下位である。2000年から2023年にかけてアメリカの一人当たりGDPは2.2倍となり、ドイツは2.1倍、フランス1.9倍、イギリス1.6倍と増加しているが、日本だけが0.9倍と減少している。

 OECD加盟国における日本の一人当たりGDPは22位(購買力平価、2022年)で、加盟国38カ国中の下位グループに属し、韓国(18位)よりも下位にある。賃金でみても、日本人の平均賃金は39千ドルで、OECD諸国の中で低い方に属する。すでに韓国や東欧のリトアニア、スロベニアなどよりも低い。日本は1990年代末から全く賃金が上昇せず、貧困化が進んでいる。

 さらに衝撃的な国際評価がある。IMD(国際経営開発研究所)が毎年公表している報告によると、日本の国の競争力ランキングは2023年、世界64カ国中35位である。アジア太平洋地域での日本の順位は14カ国中11位で、第1位はシンガポール(世界第4位)、第2位台湾(世界第6位)、第3位香港(世界第7位)、中国第5位(世界第21位)、韓国第7位(世界第28位)である。マレーシア、タイ、インドネシアも日本より上位にあり、日本より下位はインド、フィリピン、モンゴルのみである。1989年IMDが世界競争力ランキングを発表し始めた頃、日本の競争力は世界第1位だった。ここ三十年の日本の凋落は衝撃的である。

 近い将来日本の経済力が劇的に回復するようにも見えない。日本の財政は危機的状況にある。社会保障費の増大をはじめとする歳出の増加に税収が不足し、国債の増発による財政運営が恒常化して、国債の残高が1,042兆円(2022年度末)の巨額に達している。予算額の約10倍、GDPの約2倍である。日本政府は財政健全化を放棄したように見える。こうした財政運営のつけは必ずどこかで払わなければならないのではないか。78年前日本は太平洋戦争に敗れ、経済も破綻した。戦後ハイパーインフレが起き、国民は塗炭の苦しみを味わったが、これは戦時の膨大な戦費を国債でまかなってきたつけの解消ではないか。戦争末期1944年当時の政府債務(国債と借入金の合計)はGDPの267%に達していた。現在(2022年)264%に達している。不気味な一致である。

 日本の経済力を長期で通観すると、世界のGDPに占める日本のGDPの割合は、1700年4.1%、1820年3.0%、1913年2.6%、1950年3.0%、1973年5.7%、1985年10.2%、1995年17.5%、2005年10.0%、2017年6.0%、2022年5.3%となっている。ここに、日本の経済力は1980年代から二、三十年、例外的に大きかったのであって、今普通に戻っているのだという歴史的な見方が存在する。  

 しかし、私はそう思わない。今後国力が経済よりも文化力で評価されるウエイトが高まると思われるが、日本はなお一定の豊かさを失うことなく、国力が保たれなければならないと思う。

令和6年1月1日

第139回 江戸時代の文化的成熟(2)

 日本ではカメラや携帯電話をレストランやカフェに置き忘れても盗まれずに保管されている、日本では夜道を女性が一人でも安心して歩ける、といった訪日外国人の驚きの体験談をネットで散見する。警視庁によると、ある年の携帯電話の落とし物26万件中の61%が、財布の落とし物40万件中の93%が落とし主に戻っている。海外ではこんなことは考えられないようだ。米ミシガン州立大学教授の行った社会実験によると、東京では携帯と財布を合わせて落とし物の約90%が拾得物として届けられたが、ニューヨークでは6%ほどに留まるという。

 落とし物が高い確率で戻ってくる理由として、文化的規範、仏教、神道の影響、日本では近所にお巡りさんのいる交番があることなどが挙げられる他、日本人は人々の視線が届く限りはモラルを守る、といった分析を散見する。

 落とし物が戻ってくるような社会の伝統は江戸時代に培われたと私は思うのだがどうだろうか。ここで、熊沢蕃山の逸話を思い出す。江戸時代のはじめ、蕃山が良師を求めて旅していたとき、旅先で出逢ったある飛脚から正直な馬子の話を聞いた。その話のなかに出る中江藤樹こそ探し求めていた師だと確信し、入門して藤樹に学んだ。藤樹は後世、近江聖人と呼ばれるようになる陽明学者である。

 加賀の飛脚が金子二百両を預かって京に上る途中、馬子を雇った。飛脚は宿に着いて金子二百両が失われているのに気づき、色を失った。馬子の名は知らず、探し出すこともかなわず、悶々として死を覚悟した。ところがその夜、宿の戸をたたく者があり、出てみると日中雇った馬子が金子を持って立っていた。馬子はその日自宅に帰り、馬のすそを洗おうとして鞍を解いたところ、鞍の下から二百両の金子が出てきてびっくりし、返しにきたという。飛脚は思いもかけないことに狂喜。お礼にと、十五両を渡そうとしたが、馬子は受け取らない。飛脚は自分の気がすまないのでどうか受け取ってくれと懇願。馬子はそれでは手間賃だけいただきますといって二百文だけ受け取ると、その金で酒を買い、宿の人たちと一緒に飲み、よい機嫌になって帰ろうとした。飛脚はつくづく感心して、あなたはいかなる人ですかと問うたところ、馬子は「名を名乗るほどの者ではありません。だだ、近所の小川村で中江藤樹先生の教えを聴いている者です」と答えたという。

 この逸話は勿論当時の人々が皆馬子のように正直だったわけではなく、珍しかったので逸話として残ったのだろう。しかし、この頃戦国時代が終わり、平和な江戸時代になって社会が安定し、正直の倫理規範が広がりつつあったのではないかと思う。

 また、「三方一両損」という江戸時代の有名な古典落語がある。左官の金太郎が三両の入った財布を拾い、持ち主は大工の吉五郎だとわかったので、吉五郎に届けたが、吉五郎は受け取らない。互いに金を受け取らない喧嘩となり、奉行所で大岡越前の裁きとなる。大岡は自分のポケットから一両出して合わせて四両とし、二人に二両ずつ与え、これで三人とも一両ずつ損をして平等だとまるくおさめた。この話はあくまで作り話であるが、庶民の心に触れるものがあった。金は受け取れないと言って喧嘩までする倫理感覚を江戸市民は肯定した。

 江戸時代、あらゆる職業で最も重視された道徳は正直だった。子どもを嘘つきにしないのが教育の最重点となっていた。これも現代日本につながる江戸の文化的成熟の一つだと私は思っている。

令和5年12月15日

第138回 江戸時代の文化的成熟

「明治維新は江戸の否定か、それとも江戸の達成か」、という日本史の論点がある。近年の歴史学は、明治維新を江戸の否定ではなく、江戸の達成とみる見方が主流になっている。この見方は私が学校で日本史を学んだ昭和30年代頃の見方と真逆である。その頃、江戸時代は古い封建時代であり、身分制度の固定した自由のない貧しい時代であって、明治維新によって江戸が否定され、日本は近代社会になったという見方が主流であった。

 歴史学は総じて江戸時代を肯定的に見直す方向に進んだ。江戸時代は近代の始め、250年という世界史上希有な長期にわたる平和な社会を実現していた。これを比較文学者芳賀徹は「パックス・トクガワナ(徳川の平和)」と呼び、江戸時代の文明的、文化的豊穣さを説いている。江戸時代、北から南まで列島全体が均質化、平衡してナショナリズムと同胞意識が育っていた。社会は成熟し、一押しすれば近代社会となる状況だった。徳川幕府は倒されたが、榎本武揚を始めとする優秀な幕臣が維新政府で活躍した。後に総理大臣となった大隈重信は、「明治の近代化はほとんど幕臣小栗上野介の構想の模倣にすぎない」との言葉を残している。江戸と明治は連続している。

 江戸時代、民衆は豊かに暮らしていたという観察記録がある一方、貧困な時代だったとする見解も根強い。実際はどうだったのだろうか。アンガス・マディソン『世界経済概観』によると、各国(各地域)の一人当たりGDPは、1700年(江戸前期)で日本570ドル、中国600ドル、韓国600ドル、インド550ドル、西ヨーロッパ997ドル、1820年(江戸後期)で日本669ドル、中国600ドル、韓国600ドル、インド533ドル、西ヨーロッパ1,202ドル、1950年(戦後間もない昭和期)で日本1,921ドル、中国448ドル、韓国600ドル、インド619ドル、西ヨーロッパ4,578ドルとなっている。日本はずっと西ヨーロッパより貧しいが、近代になっても中国、韓国、インドが貧しいままなのに対して、日本は江戸時代から少しずつ豊かになっていることがわかる。

 近年の江戸時代の見直しと評価は、近代文明に対する現代人の疑念と無関係でない。それは平和と持続可能性の観点からの疑念である。近現代文明は明らかに平和と持続可能性の達成に失敗している。一方江戸文明はこれを実現していた。平和で持続可能な文明をつくりあげた江戸時代の日本人の智慧は、現代学ぶべきものがあるかもしれない。

 江戸文明はどのような文明だったのか。江戸時代は平和で、世界との交流がほとんど閉ざされていたため、日本人の特質、能力が純粋に発達し、成熟した。経済的にそれほど豊かではないが、文化的に豊穣な文明社会だったのではないだろうか。絵画に俵屋宗達、葛飾北斎や浮世絵など、世界レベルのものを生み出した。また、俳句という独特の文学を生み出した。芭蕉は現在、日本の代表的な詩人との世界的評価が得られている。

 日本文化の世界的評価は、明治以降より圧倒的に江戸時代の方が高い。江戸時代の文化は高度に成熟し、洗練された精神がみられるゆえである。「風流」を表わす英語はないと漱石がどこかで言っていた。「いき(粋)」や「すい(粋)」なども江戸時代に発達した非常に洗練された精神である。

 江戸時代、倫理や道徳にかかわる精神も、繊細な恥と美の倫理など、現代なお日本に生きているすぐれたものがあったのではなかろうか。

令和5年12月1日

第137回 パレスチナ・イスラエル戦争に思う

 10月7日、パレスチナのガザ地区を支配するイスラム主義組織ハマスがイスラエルを奇襲攻撃し、イスラエル領内に2千発を超えるミサイル弾を打ち込んだ。イスラエルはただちに報復の軍事行動を開始、戦争状態となった。一ヶ月たった今、戦死者は1万1千人(ガザ地区1万人強、イスラエル側1,400人)を超えたが、イスラエル軍はガザ市での市街戦を本格化させ、戦争はまだ続いているので(11月8日時点)、犠牲者数はさらに増えることが懸念されている。

 昨年2月ロシアの侵略によるウクライナ戦争が始まって1年8ヶ月。戦争の終わる見通しは立っていない。ウクライナの戦争も終わらないところにもう一つ戦争が発生し、世界は戦争の拡大する悪い時代に入っているのではないかとの不安が広がっている。

 人類史は戦争に満ちている。自らの生存のため(生存圏を守るため、拡張するため)に、共同体、民族、国家は戦争し、また平和に共存してきた。世界の歴史は、異なる一神教を信じる共同体や民族間の平和共存は極めて難しいことを示している。パレスチナ(イスラム教)とイスラエル(ユダヤ教)は、異なる一神教のもと、両者の複雑な歴史が積み重なって平和共存が絶望的になっている。

 2千年間ディアスポラ(民族離散)で生きてきたユダヤ人は、第二次世界大戦後パレスチナの地に悲願の自国イスラエルをつくることができた。1947年国連が主導し、パレスチナの地をユダヤ人とパレスチナに住むアラブ人(=パレスチナ人)の2国に分け、国際管理のもとに置いた。パレスチナの土地でユダヤ人が占める割合は全人口の3分の1だったが、56%の土地が与えられた。

 翌1948年ユダヤ人がイスラエル建国を宣言。パレスチナの土地を取られ、勝手に国をつくられたと思う周辺のアラブ諸国は建国の翌日イスラエルに攻め込み、第一次中東戦争となった。戦争はイスラエルが勝ち、国連で認められた土地を死守した。1967年第三次中東戦争に圧勝したイスラエルは、パレスチナの土地のすべてを事実上支配下に置いた(国連は認めていない)。イスラエルの支配下にあるパレスチナ人の解放を目的に設立されたPLOの第3代議長アラファートは、武装闘争路線を放棄し、1993年イスラエルとの間に暫定自治協定を結んだ。こうしてヨルダン川西岸地区とガザ地区はパレスチナ暫定自治政府の統治する自治区となった。その後ガザ地区ではイスラム主義組織ハマスが政治力を強め、ガザ地区を実効支配するようになって今日に至っている。

 イスラエルとパレスチナ人との争いはイスラエルが勝ち続けてきた。私はどうしても敗者のパレスチナ人の歴史に同情する気持ちが沸く。そして、過去中東地域を支配した欧州帝国主義国のエゴを強く感じている。

 ところで、イスラム教徒の人々は日本人をどう思っているのだろうか。意外に思うかもしれないが、イスラム諸国は概して日本人に親近感をもち、近代日本のやってきたことを肯定的に評価し、敬意さえ懐いている。イスラムで最も大切な善は誠実であり、日本人は誠実と評価されている。

 イスラムの人々の肯定的な日本人観は貴重だと思う。悲惨なパレスチナ・イスラエル戦争を見て、日本が何かできることはないものかと思う。

令和5年11月15日

第136回 戦前の日本を否定することに関し

 昭和の時代、評論家・劇作家福田恆存(1912-1994)は戦後次のことばを残している。「真の日本の崩壊は、敗ける戦争を起こしたことにあったのではなく、また敗けた事にあったのではなく、その後で間違った過去を自ら否定することによって今や新しい曙が来ると思った事に始まったといへます」と。福田恆存は戦後の左傾化した進歩派全盛の論壇にあって、保守反動の論客と言われていたが、恆存のこの言葉には、戦前戦後を生きた知識人の貴重な認識が含まれていると私は思う。

 戦前の日本をすべて悪かったと否定する意識は、戦後の日本人を特に覚醒させず、むしろ独立自尊の精神を劣化させる方向に働いた。以下、二、三の事例を挙げる。1982年大手新聞各紙は、「文部省が教科書検定において、高校の日本史教科書の記述を、中国華北に対する“侵略”から“進出”に改めさせた」と一斉に報じた。この報に接した中国、韓国が日本を激しく非難し、外交問題となった。宮澤喜一官房長官は外交的決着をはかるため、検定基準を改めるとの談話を発表した。これが教科書検定の「近隣諸国条項」となり、近隣アジア諸国との間の近現代史の扱いに国際協調の見地から必要な配慮をすることとなった。日本の教科書に中韓の内政干渉を認めるような条項で、独立国日本の学校教育に禍根を残したと私は考えている。

 あとで判明したが、1982年の一斉報道はマスコミの虚報だった。中国華北地域への“侵略”が検定によって“進出”と 書き換えさせられた教科書の事例は無かったのである。なぜ各社全紙の虚報が起きたか。この年文部省記者クラブで、実教出版の「世界史」を担当した記者が、「『日本軍が華北を侵略すると』という記述が、検定で『日本軍が華北に進出すると』に変った」と報告した。実際には検定前から「進出」と書かれていたが、各社は自社で確認もせずに報道してしまった。

 事実を確認もせずに各社がそのまま大きく報道する背景に、戦前の日本を強く否定する歴史認識が横たわっていたと思わざるをえない。否定されるべき戦前の日本を正当化するような「右傾化」する政府は厳しく非難されるべしとのマスコミの思い込みがあった。

 戦前を否定する戦後の日本は、中国に位負けする日本人を多数生み出した。台湾の李登輝は、戦後の日本が戦前の日本人の立派さを忘れ、霞ヶ関のエリートが卑屈に中国の言うことを何でも聞くようになったと嘆いていた。中国の周恩来も、戦後の日本人が卑屈になったと言っていた。1972年日中国交回復がなされた後、多くの日本の経済人が中国を訪れた。周恩来首相を表敬した経済人のほとんどすべてが戦前の日本の行為を謝罪した。度重なる謝罪に周恩来は「謝罪しないでほしい」と言った。周恩来は日本人の(安易な)謝罪に軽薄さと卑屈をみたのではないだろうか。

 極めつきは2009年の小沢訪中団である。当時政権の座にあった民主党の小沢一郎幹事長が、民主党議員143名を含む438名を連れて訪中。随行した民主党議員の一人ひとりが胡錦濤主席の前に列をなして握手し写真撮影を行った。まさに宗主国中国に恭順する日本の朝貢外交であった。

 戦前の日本を否定するのはやはり偏向した歴史認識だと私は思う。先祖の営為に対する深い理解をもって、是は是とし、非は非とする虚心坦懐の精神で歴史の事実を考察すれば、もっと肯定的な歴史認識となるだろう。

令和5年11月1日

第135回 マッカーサーがわかったこと

 太平洋戦争敗戦後(1945~)の日本を占領統治したGHQのマッカーサー元帥は、帰国して1951年5月アメリカ上院軍事外交委員会で重要な証言を行った。「---日本には蚕を除いては、産品がほとんどありません。日本には綿がない、羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他多くの物がない、が、そのすべてがアジア地域にはあった。日本は恐れていました。もし、それらの供給が断ちきられたら、日本では1千万から1千2百万人の失業者が生じる。それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(Security)の必要に迫られてのことでした---」と。

 故渡部昇一教授を始めとする保守派の識者は、この証言を以て、マッカーサーが太平洋戦争は日本の侵略戦争ではなく、安全保障のための戦争、つまり防衛戦争だったことを認めたと主張する。東京裁判で被告東条英機は、「---重要物資の大部分を、わが国は米英よりの輸入に拠っています。もし一朝この輸入が途絶すればわが国の自存に重大な影響があります。然るに日本に対する米英蘭の圧迫はますます加重せられ、日米交渉において局面打開不可能となり、日本はやむを得ず自存自衛のために武力を以て包囲陣を脱出するに至りました---」と主張した。マッカーサーの証言はこの東条の主張を認めたものである、と。

 上記証言だけでマッカーサーが日本の戦争は全面的に自衛戦争だったと主張しているとは結論できないように思われる。しかし、故渡部教授らが指摘するように、マッカーサーは在任期間中に体験した朝鮮戦争を通じて日本の安全保障環境をよく理解し、日本の戦争は自衛戦争だったとの見方を強めるに至ったとみてよいのではなかろうか。

 1950年6月ソ連の支援を得て北朝鮮は突如韓国に侵攻し、南の釜山まで占領。アメリカはマッカーサーを総司令官とする国連軍を組織。韓国軍とともに反撃し、中朝国境近くまで押し戻したが、中共軍が北朝鮮の友軍として参戦し、一進一退となった。マッカーサーはトルーマン大統領に、「かつての満州を空襲して、敵の本拠地を完全に粉砕する、また東シナ海の港湾を封鎖する、」と強く進言。ソ連との核戦争になることを恐れたトルーマンはこの進言を退け、マッカーサーを解任した(1951年4月)。国連/アメリカ軍は共産軍に押し戻され、もとの38度線で休戦となった。

 マッカーサーは朝鮮戦争を通じて北朝鮮の背後にいるソ連、中共の脅威を痛感した。そして日本が明治以来ずっとロシア/ソ連の侵略的膨張に脅威を感じてきたことと、日本の戦争がこれに応対する戦争だったことを理解した。北から強大な勢力が朝鮮半島に下りてきたとき、日本を守るために朝鮮半島を守らねばならない。そして朝鮮半島から脅威を払拭するために満州に出なければならないという、戦前の日本がやってきたことをマッカーサーは期せずして追体験することになった。

 歴史家鈴木荘一は、戦前の満州国が共産ソ連の軍事的脅威に対する防波堤としてつくられたことをよく認識すべきであると言う。そして日本は国際社会に説明して、「満州建国はソ連の軍事膨張に対する防共国防活動なのだ。国際連盟加盟国もソ連の軍事膨張に対する防共活動を怠ると痛い目に遭うよ」と警告し、理解を求めるべきだったと言う。その後ソ連に支配されて苦しんだ東欧諸国の歴史を見れば、鈴木氏の主張には貴重な真実が含まれているように思われる。

令和5年10月15日

第134回 「姿色端麗 進止軌制」---推古天皇

 第33代推古天皇(554-628)は、日本史上初の女性天皇である。飛鳥時代を代表する天皇の一人であった。推古天皇が即位した593年から、奈良時代の始まる710年までの約百年間を飛鳥時代と呼ぶ。

 飛鳥時代は古代国家日本の文明開化が進み、興隆した時代だった。仏教伝来に伴う新文化が成立し、豪族の連合体だった国家(大和政権)の中央政権化が進んだ。大陸に出現した強大な統一国家、隋・唐の律令制度に学び、律令制国家の建設が進んだ。朝鮮半島との関係も深く、国際色豊かな文化が成立した。

 推古天皇の時代(推古朝593-628年)の人物として聖徳太子が名高い。聖徳太子は推古朝の摂政として多くのことを成した。まず「冠位十二階」を定め、氏族でなく個人の能力による官吏登用の道を開いた。604年、和を尊重する国の基本法として「十七条憲法」を定めた。607年遣隋使を派遣し、大国隋(後に唐)との対等な国交を開いた。太子はまた仏教を深く理解し、国家として仏教を振興した。

 推古朝で政権の中枢にあったのは、推古天皇、摂政の聖徳太子、そして大臣(おおおみ)蘇我馬子の三人であるが、国政は主として蘇我馬子と聖徳太子に依ったという見方が根強い。中でも大臣蘇我馬子は実質最高権力者であり、自分の姪を天皇に立て、思うままの政治を行った、と。しかし、近年歴史学では推古朝の政治に推古天皇の行ったことをもっと重視し、評価する見方が強まっているように思われる。

 歴史書を読むと、推古天皇がこの時代非常に存在感のある女性だったことがわかる。推古は漢風の諡号で、和風諡号を豊御食炊屋姫(とよみけのかしきやひめ)という(以降、炊屋姫(かしきやひめ)と記す)。炊屋姫は第29代欽明天皇を父とし、蘇我氏の堅塩媛(きたしひめ、蘇我馬子の姉)を母として生まれた。18歳で第30代敏達天皇の妃となり、2男5女を儲けた。585年敏達天皇が没し、用明天皇、続いて崇峻天皇が即位したが、政権は安定しなかった。用明天皇は病弱で在位2年で死去、崇峻天皇は蘇我馬子と決定的に対立し、馬子に殺されてしまった。こうした皇室の危機にあって、群臣はこぞって炊屋姫が天皇として立つことを望んだ。即位した推古天皇は75歳で没するまでの36年間安定した長期政権を実現し、飛鳥時代の政治・文化の隆盛をもたらした。

 女性であっても群臣が炊屋姫を天皇として推戴しようとした大きな理由は、炊屋姫が聡明であり、非常に優れた政治的判断力をもつ女性であることを皆よく知っていたからである。

 聖徳太子の文化、外交における成果も、推古天皇の治世の良さに帰せられるものが多いのではなかろうか。宗教戦争のない社会も、推古天皇の治世で実現している。推古天皇は594年「仏法興隆の詔」を出し、国家の方針として仏教を受容することを宣言した。一方、推古天皇は607年「敬神の詔」を出し、先祖の信仰を継承し、伝統の神々を祀り続けることを誓い、神道を維持することを示した。以後日本は今日まで神道と仏教が平和に共存し、神仏習合する社会となっている。

 『日本書紀』に、推古天皇は「姿色端麗 進止軌制」と記されている。容姿端麗で、振舞が端正であった、という意味である。美しく聡明で、指導者にふさわしい人間力をもった女性の姿が浮かぶ。

令和5年10月1日

第133回  あらためて知る十七条憲法のすばらしさ

 聖徳太子が昔「十七条憲法」を定め、それは第一条「和を以て貴しとし、」で始まることは日本人なら誰でも知っているだろう。しかし、十七条憲法はいわゆる近代憲法ではないため、憲法(=国の基本法)とは見なせないと考えるのが一般的で、学校でもそのように教えているだろう。しかし、十七条憲法は立派な憲法だと私は思う。

 そもそも憲法とは何か。7世紀(飛鳥時代)に聖徳太子が国の基本的なあり方として十七条憲法を定めた。19世紀になって明治の日本人が欧米先進国にはConstitutionがあることを知ったとき、昔聖徳太子が定めた十七条憲法がこれに当たると考え、Constitutionを憲法と呼んだのである。Constitutionはもともと構造、体質などを意味し、国の体質すなわち国のあり方を定める基本法の意味となる。

 近代、世界をリードしてきたイギリスには、いわゆる近代的な「成文憲法」はない。それでイギリスには憲法がないかというとそんなとはない。13世紀に成立した『マグナ・カルタ』、17世紀に成立した『権利の章典』など歴史的に成立した国のあり方にかかわる重要な法典類をもってConstitutionとしている(これを「不成文憲法」という)。

 憲法は近代的に成文化されているかどうかではなく、国のあり方に関する重要事項が定められ、それが生きていることを本質と考えるとき、十七条憲法は立派な日本の憲法だと思う。十七条憲法にも、立国の基本原理、為政の基本精神、独裁でなく衆議によって決めること、行政、裁判、徴税、官吏のあり方など、国家の基本に関することが明確に定められている。そして当時の人々も国家の制法がこれより始まったという認識だった。

 十七条憲法には国のあり方として最初に「和」を置いている。和を貴しとするのが日本の国のありかただと定めた憲法の精神は、時代を超えて生きてきたのではなかろうか。和は和風、和歌、和服、和魂、和漢、和洋など、日本そのものを意味する言葉になっている。日本は和の国であり、和を日本のアイデンティティと考える日本人は多いのではなかろうか。

 聖徳太子が十七条憲法で実現しようと思い描いたのは仏国浄土の国であった。国家の人的組織の君、臣、民は仏国浄土の仏、菩薩、衆生に対応する。君(天皇)は仏であり、臣(官吏、群卿百寮)は菩薩であり、民(国民)は衆生である。天皇は仏として民の平安を願い、官吏は菩薩として民の安寧と幸福の実現に努める国家。そのため、十七条憲法は官吏が菩薩行(民に奉仕し、民を慈しみ、利他行を行う)に励むことを求め、官吏に対する訓誡を多く定めている。

 十七条憲法がそのまま現代日本の憲法とはならないことは確かである。しかし十七条憲法はなお現代に生きる、また生かすべき国家のあり方を含んでいると思う。その重要なものは、和の国家理念と、独裁を禁じ、衆議によって決めていくあり方と、そして官吏が民に奉仕し、利他行を行い、菩薩行に励むあり方である。

 イギリスがマグナ・カルタを尊重するように、日本は十七条憲法を尊重したらよい。十七条憲法は達意の漢文で書かれたすばらしい古典である。孔子の『論語』を日本でも教えるように、聖徳太子の『十七条憲法』を日本の古典として中学高校の国語漢文で教えたらよいと常々思っている。

令和5年9月15日

第132回  なお生きる武士道の道徳感覚

 日本は平安時代末期(12世紀中頃)から明治の始め(19世紀後半)までの約7百年間、武士の支配する国だった。その間生まれた武士の道徳規範が武士道である。武士道は平安時代「弓矢取る身の習い」として発生した。勇敢に戦う強い武士のあり方を基本とし、命よりも名を惜しむ武士の生き方が生まれた。強さと同時に情けを知る武士が理想とされた。

武士道は江戸時代に武士階級の道徳規範として完成した。その要点は、義に生きる(利益は軽んじる)、恥を知り名誉を重んじる、戦場で勇敢に戦う、主君に忠義を尽くす、嘘を言わない、約諾は命にかけて守る、卑怯なことをしない、惻隠の情をもつ、切腹して責任をとる、などである。

 明治維新(1868年)後武士階級は消滅したが、武士道の精神は残ってむしろ国民全体に広がった。昭和の敗戦(1945年)後武士道の精神はほとんどなくなったが、完全に失われることなく、なお日本人の心に残っていると私は思っている。新渡戸稲造は1899年(明治32)著わした名著『武士道』に武士道の将来について述べる。武士道は一つの独立した道徳の掟として消滅するかもしれない。その武勇と文徳の教訓は解体されるかもしれない。しかしその力はこの地上から消え去ることはなく、その光と栄光はその廃墟を超えて蘇生するに違いない、と。

 新渡戸が武士道の道徳項目の最初に「義」を挙げるように、義に生きるのが武士道の基本である。義は不正をしないこと、不正な手段で利益を得ないこと、卑怯なやりかたをしないこと、義理を重んじ道理に従うこと、約諾は死守すること、人の苦境を見捨てないこと、などである。そして武士道の義の顕著な特色に利(利益)を軽く見ることがある。特に私利を否定するのが武士道の義であった。武士は義と利に葛藤するとき、自分が利益を得ないことの方に義があると考えた。この武士道の感覚は、現代日本から完全には消えていないように私には思われる。損得勘定に重きを置かず、金持ちをあまり尊敬せず、利益を得た側よりも利益を得なかった側に義があると思う感覚が、現代日本にまだ残っているのではなかろうか。

 次に、日本人は現代なお一生懸命に生きるのをよしとし、組織内で自分の使命を懸命に果たそうとする。これも武士道の生き方である。一生懸命はもともと一所懸命であり、一所懸命は所領を命懸けで守った武士の生き方に他ならない。

 また武士道は、世間的にも、内面的にも恥ずかしくない生き方を旨とする。これも現代日本人に生きているように思われる。また、卑怯を嫌い、正直で嘘をつかず、約諾は守らなければならないと考える武士道の道徳規範も生きているのではないだろうか。嘘やうろんなことを嫌い、事実本位で実際的、現実的に処するのが武士道の特色であるが、これも、現実的で、観念論・抽象論をあまり好まない日本人の傾向としてなお生きているように思われる。

 武士道は封建時代に武士階級が培った道徳規範であり、民主的な現代社会において通用しない道徳を多く含むことは確かである。しかし武士道は時代と社会体制を越えた、人間の大切な道徳を含んでいるように思われる。戦いの世界に生き、戦いに勝つために何でもありの環境を生きた武士のつくり上げてきた武士道が、一見平凡な、嘘をつかないこと、正直であること、約諾を守ることなどを最重要視する道徳になっていることに、私は深い意味を見いだしたい。

令和5年9月1日

第131回  日独伊三国同盟について思う

 今年も太平洋戦争の終戦日8月15日がやってくる。1945年8月15日、昭和天皇はラジオを通じ国民に戦争に負けたことを告げた(玉音放送)。

 日本はどうして負ける戦争をしたのか。勝てる見込みのないアメリカと戦い、敗れ、大日本帝国を滅ぼすに至ったのはなぜか。戦争に至る歴史を振り返ると、1940年9月に日本の結んだ日独伊三国同盟が国策を致命的に誤った、とのほぼ確定した歴史評価に行き着く。

 1939年9月すでにヨーロッパで第二次世界大戦が始まっていた。日独伊三国同盟を締結すると、日本は英仏等連合国と戦う独伊等の枢軸国側に立つことになる。同盟はヨーロッパ戦争、日中戦争に参戦していない国(アメリカを想定)から攻撃を受けた場合相互援助するものだった。日本に英米との戦争をもたらすおそれのある三国同盟を、日本はなぜ締結したのか。

 1937年に始まった日中戦争が泥沼化し、日本は中国を支援する英米と対立するようになっていた。アメリカは日本が中国で勝手なことをしているとして1939年7月日米通商航海条約を破棄し、日本への敵対意志を表明した。日本に反英米感情が高まる中、ドイツはヨーロッパ戦線で連合国を圧倒する勢いを見せた。1940年5月に始まったドイツの進撃は英仏連合軍を打ち破り、イギリス軍はドーバー海峡から撤退して、6月パリが陥落、フランスはドイツに降伏した。ドイツの快進撃は、イギリスの降伏も間もないとの観測をもたらした。

 1940年7月近衛内閣(第2次)が成立し、外務大臣に就任した松岡洋右は、アメリカをけん制するために日独伊三国同盟が有効であると考えた。陸軍はドイツと積極的に接触し、同盟成立に向けて動いていた。アメリカとの戦争になる、と同盟に強く反対していた英米派の海軍大臣米内光政、次官山本五十六が近衛内閣の成立後海軍省を離れると海軍も賛成に転じ、1940年9月日独伊三国同盟が締結された。その後の日本は想定通りというべきか、1941年12月アメリカと戦争を始め、徹底的に敗れて1945年8月降伏する。

 以上が日独伊三国同盟の締結に至る歴史であるが、同盟が締結された土壌に、日本が親独国になっていたことがあげられる。日本は明治以来欧米をモデルとする近代国家建設を進め、西欧文明に学び、その文物を導入してきた。ドイツに学んだものも非常に多かった。日本の陸軍はドイツをモデルとしてつくられた(海軍はイギリス)。憲法も君主権の強いドイツ式とした。医学は圧倒的にドイツ医学であった。レシピ-はドイツ語で書かれ、カルテというドイツ語は今なお使われている。旧制高校における第二外国語は、フランス語よりもドイツ語の履修者が圧倒的に多かった。また、哲学は経験論のイギリスよりも、カントやヘーゲルなどのドイツ哲学を評価した。こうしたドイツ文化の学びは自然に日本人を親独にした。さらに日本人は、勤勉、几帳面で形式と規律を重んずるドイツ人が自分たちに似ていると思い、親近感をもった。

 しかしドイツ人は親日でも何でもない。我々はドイツを批判できる力をもたなければならないと思う。ドイツ人は壮大な理論をつくるが、現実よりも理論を信奉するようなところがある。日本の知識人にもそういう人がいるが、ドイツの影響だと思う。また、ドイツの哲学者も理性を強調するが、私はドイツ人が歴史的に成してきたことを見て、ドイツ人は観念的、主観的傾向が強く、啓蒙的理性は英仏ほど強くなく、それは西欧におけるドイツの後進性だと思っている。                 

令和5年8月15日

第130回  福島原発処理水の海洋放出の安全性について

 政府は昨年福島第一原発の処理水を海洋放出する方針を決定し、IAEAに放出計画の安全性に関する調査を要請した。IAEAは11カ国の専門家でつくる調査団を日本に派遣し、現地調査などを進めてきた。調査を終えたIAEAは、処理水の海洋放出が国際的な安全基準に合致しており、放出による人間や環境への放射性物質の影響は無視できるレベルと結論する包括報告書を公表した。来日したグロッシIAEA事務局長が7月4日岸田首相に報告書を手交した。

 人間や環境への影響を無視できるほどの微量な放射能レベルになるとはいえ、処理水が放射能汚染水であることに変わりはないので、これを海洋放出することに対して根強い反対がある。以下、処理水の海洋放出計画を知り、安全上問題なく実行できることを確認したい。

 廃炉作業中の福島第一原発の核燃料デブリを冷やすために水を注入しているが、これが放射能汚染水となる。また、地下水が原子炉建屋に流れ込み、汚染水に加わる。汚染水には多くの放射性核種が含まれるが、トリチウム以外の放射性核種はほぼ完全に(少なくとも安全基準を下回るレベルまで)多核種除去設備(ALPS)で除去することができる。トリチウムだけは原理的に除去することができないので、海水で希釈して海洋放出することになる。

 現在福島第一原発の敷地内には、ALPSで浄化した汚染水を貯蔵した数多くのタンクが満杯になりつつあるが、ALPSで浄化したとはいえ、放射性物質が完全に除去しきれていない汚染水もタンク中に存在している。海洋放出にあたってはまず、こうした汚染水を二次処理施設で再浄化し、トリチウム以外の放射性物質を完全に安全基準以下のレベルになるまで除去する。このレベルまで再浄化処理した汚染水を処理水と呼んでいる。処理水にはなおALPSで除去されないトリチウムが存在しているが、これは放出基準を十分下回るまで希釈して海洋放出する。

 ALPSで除去できない放射性核種トリチウムの安全性について理解が必要となるが、トリチウムは三重水素のことである。普通の水素のように安定的でなく、放射線(β線)を出しながら壊変し(半減期12.3年)、安定したヘリウムになる。トリチウムは自然界には普通の水素と同じように、酸素と結合した水として存在する。地球に降り注ぐ宇宙線が大気とぶつかってトリチウムが生成され、大気中の水蒸気、雨水、海水、河川水、水道水の一部として存在する。人間の体内にも数十ベクレルのトリチウムが存在している。トリチウムから人体は放射線被ばくを受けているが、あまりにも微量であるため健康影響など全くない。

 放射能の影響を考えるとき、生物の体内に取り込まれた放射性物質が体内に蓄積する、いわゆる生物濃縮が問題となるが、トリチウムはトリチウム水として存在し、トリチウム水の化学的性質は普通の水と同じであるから、生物濃縮は起きない。

 IAEAは包括報告書で、処理水放出を制御するシステムとプロセスは堅固であり、放出で見込まれる線量とリスクに対し十分適切であると評価した。そして、人に対する年間被ばく線量は0.05ミリシーベルトをさらに千分の1下回り、人間や環境への影響は無視できるレベルと結論した。

 廃炉を進める福島第一原発の処理水の海洋放出は、環境・安全上問題ない。地元漁業者と国際社会の理解も得て、これが実行されることを念願してやまない。          

令和5年8月1日

第129回  インドネシアについて

 天皇皇后両陛下は、国賓として6月17日より1週間インドネシアを訪問された。ご即位後初めて国際親善のために公式訪問する国として、インドネシアを選んだ何らかの政府判断があったと思われる。

 インドネシアは親日国で知られている。伝統的な日本文化の他、ドラえもんなどの漫画、アニメ、ビデオゲームなどのサブカルチャーもインドネシアで人気がある。国際世論調査によると、好意的な対日・対日本人感情をもつ人々がインドネシアでは非常に多いことがわかっている。

 インドネシアは第二次世界大戦後オランダの植民地から独立したが、独立に対する日本の協力姿勢がインドネシア人の親日感情に影響しているという意見がある。一方、それを全く否定する意見もある。実際はどうだったのだろうか。

 太平洋戦争で日本は1942年2月蘭領東インド(現インドネシア)に侵攻した。植民地支配からの解放を期待するインドネシアの人々は日本軍の侵攻を歓迎した。スカルノ、ハッタら独立運動のリーダーは日本軍に協力した。しかし、日本の侵攻はインドネシアの資源確保を主目的としており、占領地に軍政を布いて独立を認めなかった。人々の期待は深い失望に変った。

 1944年9月戦局が悪化する中、小磯内閣はインドネシアの独立を認める声明を出し、1945年8月7日、スカルノを委員長、ハッタを副委員長とする独立準備委員会が設置された。しかし独立計画が実施される前の8月15日、日本は連合国に降伏しインドネシアは空白状態になった。8月16日スカルノ、ハッタの他、独立準備委員会メンバーは海軍武官前田精(まえだただし)少将の公邸に集まり、独立を決議し、独立宣言文を起草した。翌8月17日スカルノは、自宅に集まった約千人の立ち会いのもとで独立宣言文を読み上げ、スカルノを首班とするインドネシア共和国が成立した。

 スカルノ、ハッタはオランダ政府から主権委譲を受けようとしたが、オランダはインドネシア共和国の独立を認めず、再占領と再植民地化を進めたので、共和国軍はこれを阻止しようとオランダ軍と戦い、インドネシア独立戦争となった。軍事力に劣る共和国軍もゲリラ戦を展開し、よく戦った。国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難した。1949年11月、オランダよりインドネシア連邦共和国に主権を譲渡するハーグ協定が成立し、1950年8月には統一された独立国インドネシア共和国が成立した。

 インドネシアの日本軍政期、日本は軍政を補強するために現地青年からなる郷土防衛義勇軍(PETA)を組織し、教育訓練を施していたが、PETAの将兵が独立戦争を戦う共和国軍の主戦力となった。また、日本の敗戦後帰国せずインドネシアに残留した日本兵千人ほどが、独立戦争に参加したといわれる。戦後訪日したインドネシアの指導者は、独立戦争を共に戦った旧日本軍将兵に感謝する旨の発言をしている。

 「ロームシャ(労務者)」という言葉が、強制的に徴用されて重労働させられる者の意味で現代インドネシア語に定着している。これが日本の軍政期の圧政を象徴すると言われる。日本の軍政はよかったというインドネシアの指導者もいるが、国民は日本の軍政期に否定的である。しかし、その後のインドネシアの独立に理解を示す日本と日本人の行動は人々に評価されており、これが対日感情に影響を残しているように思われる。

令和5年7月15日

第128回  ロシアの世界認識について

 ロシア下院は6月20日の本会議で、9月3日を「軍国主義日本に対する勝利と第二次世界大戦終結の日」とする法案を可決した。プーチン大統領の署名で成立する。ソ連時代はこの日を「対日戦勝記念日」としていた。ソ連を継いだロシアはこの日を「第二次大戦終結の日」としており、「軍国主義日本に対する勝利と」という文言は入っていなかった。下院での可決は、ウクライナ戦争における日本のウクライナ支援に対する報復措置とみられている。

 ロシアは第二次世界大戦の勝利を強調し、誇る。ロシアはナチス・ドイツとの戦争を「大祖国戦争」と呼ぶ(19世紀初めナポレオンのロシア侵攻に打ち勝った戦争を「祖国戦争」と呼んでいる)。一般には第二次世界大戦の「独ソ戦」または「東部戦線」と呼ばれるナチス・ドイツとの死闘で、ソ連は2千7百万人という膨大な犠牲者を出しながら、勝利することができた。

 第二次世界大戦で連合国の勝利に大きく貢献したソ連は、アメリカと並ぶ世界の強国となり、大戦後東側世界を支配した。米ソは冷戦状態となったが、1989年ソ連の支配下にあった東欧の共産党政権が次々に倒れ(東欧革命)、冷戦が終わった。また1991年にはソ連も崩壊してしまった。

 ソ連の消滅後、大統領エリツィンによるロシアの急激な市場経済への移行はうまくいかなかった。社会は混乱し、失業者は増え、インフレで収入・資産は減り、貧富の格差は広がった。エリツィンを継いで2000年大統領となったプーチンは「強力なロシア」の再建を目標に掲げ、中央政府の統治権限を強化し、財政健全化、インフレ抑制などを進め、原油価格高騰の追い風もあって、ロシア経済は好転した。

 ロシアは強国でなければならないと固く信じるプーチンは、18世紀、領土を拡張しロシアを強国にしたピョートル大帝とエカテリーナ2世を深く尊敬する。プーチンはウクライナ侵攻を、領土は奪い返す責務があるなどと言ってピョートル大帝の北欧侵攻になぞらえた。エストニア外務省は、プーチンが3百年前のピョートル大帝によるエストニアの首都ナバルへの侵攻を「ロシアによる領土の奪還」などと述べたことに抗議した。「ロシアの安全を確保するためには領土拡張こそが最重要である」との考えがロシアのDNAのようになっており、プーチンも歴代のロシア皇帝のようにこれを堅持している。

 プーチンはソ連崩壊とその後のロシアの混乱、東欧諸国のソ連勢力圏からの離脱、及びNATOの拡大も西側にやられたと思っている。彼は西側を全く信用していない。国の指導者がナショナリストで、世界を自国本意に認識するのは普通のことであるが、プーチンは極端である。東欧革命は、西のような自由主義国になりたいと思う人々の欲求がもたらした自然な流れであり、NATOの拡大も、東欧諸国が自国の安全のために加盟を欲した自然な動きだと私は思うが、プーチンはこれもロシアを弱体化させる西側の意図と見る。

 ロシアの歴史を知ると、ロシアは相当無理をしてつくられたてきた大国であることがわかる。弱者意識をもつロシアのDNAともなっている防衛的領土拡張主義が、他国との共存を難しくしてきた。日本はロシアよりも良識的な世界認識をもつ。日露関係の歴史はロシアより日本の方に名誉がある。日本は決して侵略されることのない防衛力を堅持し、堂々とロシアとつきあえばよい。

令和5年7月1日

第127回  勝海舟の知

 勝海舟は幕臣ながら幕府を超えた新しい日本の国のあり方を追求し、流血の非常に少ない革命(明治維新)を経て、近代日本を生む歴史を切り開いた。困難を極める幕末の日本で、卓抜した知力をもって急激に変動する社会を誤ることなく生き抜いた勝海舟の知は、どのような知だったのだろうか。

 海舟は、非常に開明的な知者であった。海舟は20代に蘭学を修め、30代で数年間長崎の海軍伝習所でオランダ人と交流し、38歳のとき咸臨丸で渡米してアメリカを知った。海舟は当時の日本で最高レベルに西洋の知に通じた一人だった。

 海舟の知は非常に合理性に富み、公明正大を好んだ。これは彼の西洋の知に由来するものでもなく、海舟という人間の生来の傾向のように思われる。海舟は日本人的なウェットさはあまりなく、考え方や行動は西洋人に近いところがある。「おれはいったい日本の名勝や絶景は嫌いだ。みな規模が小さくてよくない。支那の揚子河口は実に大海のように思われる。米国の金門に入ると気分が清々する」などと言う海舟の感覚は、開かれた合理性を好む海舟の知と深いところでつながっている。

 海舟は硬直的なイデオロギーや主義とは無縁で、現実を直視し、合理的で柔軟な知を求めるリアリストであった。海舟は言う。「主義といい、道といって、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といっても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、おれの取らないところだ」、「世の中のことは、時々刻々変遷極まりないもので、機来たり、機去り、その間に髪(ハツ)を容れない。こういう世界に処して、万事小理屈をもってこれに応ぜようとしても、及ばない。世間は活きている。理屈は死んでいる」と。ここに海舟の知の特徴がよく表れている。

 そしてこの変転する現実に正しく処する海舟の胆識は、坐禅と剣術によって養われたという。「こうしてほとんど4年間真面目に修行した。この坐禅と剣術とがおれの土台となって、後年大層ためになった。瓦解の時分、万死の堺を出入して、ついに一生を全うしたのは全くこの二つの功であった。この勇気と胆力は畢竟この二つに養われたのだ」と。

 海舟は晩年、「きせん院の戒め」という体験を語る。昔本所にきせん院という行者がいて、富くじの祈祷がよく当たるので、大いに流行して羽振りがよかったが、あるときから祈祷が当たらなくなり、落ちぶれてしまった。自分の祈祷が当たらなくなった理由をきせん院が若い海舟に語った。一つは、あるとき富くじの祈祷を頼みにきた美人の婦人に煩悩を起こし、口説き落として、その後祈祷をしてやった。祈祷の効験があって富くじは当たり、後日婦人がお礼に来た。再度口説こうとしたら婦人に拒否され、「亭主ある身で不義をしたのは、ただ亭主に富みくじを取らせたかったからだ、また不義をしかけるとは不届き千万な坊主」とにらみつけた。もう一つは、ある日スッポンを殺して食べたが、スッポンの首を打ち落としたとき、スッポンが首をもちあげて大きな目玉で自分をにらんだ。この二つのことが始終気にかかって、祈祷も次第に当たらなくなったという。自分の心に咎めるところがあれば、いつとなく気が萎え、鬼神とともに働く至誠が乏しくなる。人間は平生踏むところの筋道が大切です、と。

 海舟はこの話を聞いて豁然と悟るところがあり、爾来この心得を失わず、今日までいささかたりとも人間の踏む筋道を違えることがなかったという。この話は勝海舟の知の力を知る上で非常に興味深い。

令和5年6月15日

第126回 行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に関せず---勝海舟

 勝海舟(1827-1899)は幕末の偉人である。日本の近代史上最大の内戦戊辰戦争において、幕府の軍事総裁として官軍参謀西郷隆盛と会見、江戸城無血開城を実現させた。海舟は日本近代化の体制変革(明治維新)を平和裏に進めた人として史上高く評価されている。

 しかし、海舟を批判する人も多かった。一人は福澤諭吉である。福澤は自己の主催する時事新報に「痩せ我慢の説」を公表して海舟を批判した。曰く、戊辰戦争に際し、徳川幕府が戦わず薩長に降伏したことは立国の士風を大いに損なった。勝ち目がなくても戦い抜くのは武士の痩せ我慢であるが、痩せ我慢の士風こそ立国(国の独立)の根本である。その後海舟が新政府の高官になったこともいかがなものか、と。福澤は公表前に海舟に原稿を送り、意見を求めた。これに対し海舟は、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候(やったことは自分の責任。それをけなしたりほめたりすることは他人の主張で、自分には関係ない。どなたにお示しいただいても結構です)」と返信し、何の言い訳もしなかった。

 独立自尊を説き、日本人の精神と文明を高めようとした福澤諭吉は、明治のおそらく最高の啓蒙思想家である。痩せ我慢の説に共感する人も多い。しかし、私はこの件に関しては福澤よりも海舟を評価する。海舟の判断と行動は、現実の難局に直面した幕府の責任者としての重い決断であった。その任になく、やや評論家的な福澤とは異なる。海舟は別のところで、「福澤は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ」と言っている。私は日本のために海舟の判断と行動が正しかったと思う。実際、あのとき幕府が薩長と戦っていたら、内乱が長期化し、近代国家の建設が大きく遅れた可能性がある。

 日本の近現代史のなかで勝海舟の評価は確立している。半藤一利さんのように海舟に心酔する人もいる。私の父は普通の市井の人であったが、歴史に関心があり、生前、幕末明治の歴史人物のなかで勝海舟が一番偉いようだと言っていた。

 江戸城無血開城を達成した両雄の勝海舟は知者、西郷隆盛は仁者と一般に評される。では勝海舟はいかなる知者だったのか。困難を極めた幕末明治の動乱期を誤ることなく生き抜いた勝海舟の知力は、困難に直面する現代日本の未来を開く知の鍵となるかもしれない。

 勝海舟は非常に開明的な知者であり、常に「私理」でない「公理」を追及した。そして公明正大な知と行動を好んだ。

 海舟は徳川幕府に「私理」があるのを見た。日本を統治する政府は「公理」で動くものでなければならない。海舟の知は幕府を超えた日本を見ていた。そして、恭順する幕府を武力で倒そうとする官軍・薩長に、今度は「私理」をみた。この「公理」意識が西郷との会談に望む海舟の気迫となった。

 ペリーが来航し、日本は和親条約を結び、開国する。その後ハリスが来日して貿易のための通商条約締結を迫り、幕府は勅許の得られぬまま条約に調印した。幕府はハリスの恫喝に屈したという非難が国内に起きた。これに対し海舟は、ハリスの主張には天下(世界)の「公理」があり、日本(幕府)は国内の「私理」で対応した。だから負けたのだ、恫喝に屈したのではない、と言った。

 勝海舟の知についてやや深く次回考えてみたい。

令和5年6月1日

第125回 暗殺を否定する

 戦前の日本は暗殺が多かった。大正の終わりから昭和の初めにかけて頻発した暗殺が、戦前の日本を悪くした。大東亜戦争に敗れて再出発した戦後の日本には、戦前日本のすべてを否定的に見る歴史認識が生まれている。こうした認識は偏向した史観で、正さなければならないと私は思っているが、暗殺が多かったことだけは、戦前日本の悪いところとして否定したい。

 1921年(大正10)11月4日東京駅で原敬首相が中岡艮一(こんいち、18歳)という愚かな若者に刺殺された。中岡は政治に不満をもち、同年9月28日朝日平吾という右翼の活動家が安田善次郎(安田財閥の総帥)を暗殺したことに刺激されたという。原首相の暗殺は日本に決定的な喪失をもたらした。原は日本で初めて本格的な政党内閣を組織し、平民宰相として国民に歓迎された。原は卓抜した能力と見識をもつ大政治家で、明治から現在に至る歴代の日本の首相の中で、一、二を争うほどすぐれた政治家だったと思う。原が生きていれば、日本はその後昭和になって転落していく歴史とは異なる道を歩んでいた可能性がある。

 1930年(昭和5)11月14日、浜口雄幸首相が東京駅で右翼の青年に銃撃された。そのとき一命をとりとめたが、その後容体は快復せず、翌年8月16日死亡した。銃撃犯は佐郷屋留雄という青年(24歳)で、浜口は社会を不安におとしめ、天皇の統帥権を干犯したからやった、などと供述した。浜口首相は協調外交を貫き、国民に信頼された謹厳実直な政治家だった。愚かなテロとしか言いようがない。

 1932年(昭和7)2月9日、前大蔵大臣井上準之助が東京本郷で小沼正(20歳)に暗殺された。また同年3月5日、三井財閥の総帥団琢磨が日本橋の三井本館入り口で菱沼五郎(19歳)に銃撃され、落命した。小沼正と菱沼五郎は血盟団というテロ組織のメンバーで、血盟団は政界や財界の大物をテロの標的としていた。愚かなテロで日本は井上準之助、団琢磨という世界レベルの第一級の人材を失った。

 そして同年(1932、昭和7)5月15日、五・一五事件が起きる。海軍青年将校らが犬養毅首相を官邸に襲い暗殺した。この事件の影響は大きく、これにより日本の政党政治が途絶えた。青年将校らは政党政治家や財閥を批判し、国家改革のためにやったと主張。驚くべきことに、殺された犬養首相よりも暗殺の実行犯の方に同情が集まった。戦前の日本社会の病理である。

 極めつきは1936年(昭和11)の二・二六事件である。陸軍皇道派の青年将校らが昭和維新を叫び、千余名の兵士を率いて政府要人を襲い、殺害した。斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監は即死、鈴木貫太郎侍従長は瀕死の重傷を負ったが奇跡的に助かった。事件後、政治家は陸軍を恐れるようになった。陸軍に支配された日本は急速に転落の道を歩むことになる。

 戦後の日本社会はテロとは無縁と思っていたが、安倍晋三元首相が昨年7月9日奈良市で暗殺される驚愕の事件が起きた。さらに驚愕すべきは、暗殺を肯定する意見の存在である。島田雅彦なる大学教授が今年4月14日のネット番組で、「こんなことを言うと、また顰蹙を買うかもしれないけど、今まで何ら一矢報いることができなかったリベラル市民として言えばね、せめて『暗殺して良かったな』と。まあそれしか言えない」と語った。信じられないくらい愚かな教授である。

令和5年5月15日

第124回 柴五郎と会津武士道

 柴五郎(1859-1945)は幕末会津藩の上級武士の家に生まれ、9歳のとき戊辰戦争(会津戦争)を経験した。1873年陸軍幼年学校に入学、士官学校を卒業し、陸軍軍人の道を歩む。日清、日露戦争に従軍し、陸軍大将、軍事参議官となり、1930年退役した。

 中佐になった柴五郎は1900年北京駐在武官として着任し、この年義和団の乱(北清事変)に遭遇する。この事変で柴は、戦乱を逃れて北京の公使館区域(東交民巷)に籠城した約千人の外国居留民(日本人を含む)の保護に貢献した。各国公使館(日本を含む)の護衛兵と義勇兵が義和団と戦ってその攻撃から居留民を守ったが、この籠城戦を実質的に指揮したのは柴中佐であった。2ヶ月後、8カ国連合軍が北京を占領し、居留民は無事解放されたが、籠城戦における柴中佐の見事な働きは世界から賞賛された。

 柴五郎を生んだ柴家は典型的な会津藩の上士で、のちに人が会津士魂、会津武士道と呼ぶ武士の精神で生きてきた家だった。会津武士道は会津藩祖保科正之(1611-1672)に始まる。正之は家訓15条を定め、会津藩の根本精神とした。一、大君(=将軍)の儀、一心大切に忠勤を存すべく---。一、武備は怠るべからず。---上下分を乱すべからず。一、兄を敬い弟を愛すべし。一、婦女子の言、一切聞くべからず。一、主を重んじ法を畏るべし。一、家中風義を励むべし。一、賄を行い媚を求むべからず。一、依怙贔屓すべからず。一、士を選ぶに便辟便侫の者を取るべからず。一、政事は利害を以て道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべからず。一、法を犯す者は宥すべからず、等々。以下省略。

 また、会津藩士の子弟は「什の掟」といわれる厳しい教育を受けて育った。一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ、一、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ、一、虚言を言うことはなりませぬ、一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ、一、弱い者をいぢめてはなりませぬ、一、戸外で物を食べてはなりませぬ、一、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ、 ならぬことはならぬものです。

 柴五郎は会津戦争で祖母、母、姉、妹が全員自害するという悲惨な経験をしている。柴家の男子(五郎の父と三人の兄)は皆出陣し、五郎は幼少のゆえ、親戚にあずけられた。官軍が城下に侵入したとき、柴家の女性全員---祖母つね(81歳)、母ふじ(50)、兄嫁とく(20)、姉そい(19)、妹さつ(7)が自害した。叔父よりこれを聞き、あまりのことに五郎は茫然自失、泣くに涙流れず、目眩を起こして倒れた。柴五郎は晩年書いた遺書に述べる。「---父母兄弟姉妹ことごとく地下にありて、余ひとりこの世に残され、語れども答えず、--悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり」

 戦争でなぜ柴家の女性は自害したか。男子は一人なりとも生きながらえ、藩の汚名を天下に雪ぐべし。戦闘に役立たない婦女子はいたずらに兵糧を浪費せぬため籠城せず、敵侵入とともに自害して辱めを受けないようにすると、女性は話し合って決めていたという。

 会津武士道の鏡のような柴家でこの悲劇が起きた。武士道は完全に消滅してはおらず、今なお日本人の道徳の中に生きており、私はそれをよいことと考えている。しかし、武士道は生命尊重の思想が弱かったのではないか、男女の生命に軽重があり、その点に問題があったのではないか。柴五郎の家族の悲劇を知ってそのような思いがした。

令和5年5月1日

第123回 どうして民主主義が根付かなかったか(3)


 戦前日本における民主化がなぜ挫折したか。その根本原因の考察は、今後の日本の政治の教訓となるだろう。

 昭和になって軍部が台頭し、議会に基礎をもつ政党内閣が軍部を抑えられなくなったことが一番大きい。軍部はどうして台頭したか。まず、当時の日本の安全環境の悪化がある。当時の中国は政情不安定で、内乱状態にあった。満州における日本の権益が侵される問題を一挙に解決しようと、関東軍が軍事行動を起こしたとき、国民は内閣よりも軍部を支持した。

 国の安全が危機にあるとき軍が大きな力をもつのは一般的な現象であるが、戦前の日本は憲法に問題があった。大日本帝国憲法には内閣が軍部をコントロールする仕組みがなかった。行政は内閣の国務大臣が天皇を補弼して行い、陸軍大臣、海軍大臣も内閣で軍政に責任をもったが、憲法は別途「天皇は陸海軍を統帥す」と定めており、軍の統帥は内閣の管轄外にあった。本来軍事の一部に過ぎない「統帥権」が強調され、憲法を根拠に「統帥権の独立」が主張されて、これをてこに軍の統帥部が勝手に行動するのを内閣が抑えられなくなった。

 次に政党が国民の信頼を失ったことが大きい。各政党は政権の獲得を激しく争い、政治スキャンダルを暴き合い、泥仕合を行った。議員は国策に関する議論に集中せず、議場内でしばしば乱闘を起こした。こうした政党の体たらくが信頼失墜の原因であるが、深いところで国民に、国の統治は自分たち民の任務ではなく、官の仕事であるとの意識があったことがあげられよう。デモクラシーとは人民(デモス)による支配(クラトス)に他ならないが、日本人には支配(統治)は民ではなく武士の仕事であるとの意識が残っていた。そのため、ひとたび国の安全が危機に瀕すると、民選議員よりも容易に官僚、軍への依存に傾いた。ちなみに、大正2年生まれの私の父は、議員よりも官僚の方を信頼していた。この意識は江戸時代に広まった儒教の影響もあるだろう。儒教では良き政治は皇帝と役人(=君子)の仁政によって実現するもので、民が実現するものではない。

 民主主義が根付かなかった理由として、日本人の「公」に関する感覚もあるだろう。日本人は伝統的に、「私」よりも「公」に高い価値を置く倫理を培ってきた。あの時期「滅私奉公」と言われた。私を無くし、公に尽くす。国家が公であり、個人より全体が公であり、私企業でも会社は公的性格をもつ。民主主義とは「私」の意見を「公」までもっていくシステムだと私は思うが、個人を基本に置く民主主義は日本人の公感覚と違うように思われた。

 古代ギリシアに直接民主主義があったが、近代の代議制民主主義は基本的に、個人の自由、独立、尊厳といった個人主義的傾向の強いアングロサクソン(英米)の社会で発達した政治制度である。アングロサクソンが近代世界で成功し、民主主義が最も良き政治制度だと見なされるようになったが、個人主義的傾向のない国で容易に根付かないことは、世界の現代史が証明している。その中で、戦前の早い時期に日本に民主主義が相当程度根付いた歴史は、評価されてよい。

 自由な民主主義の国の方が良い国で、先進国だと私は思う。民主主義は難しいが、日本は改良を重ねつつ今後も意識的に民主主義を維持していくのがよい。

令和5年4月15日

第122回 どうして民主主義が根付かなかったか(2)

 大正デモクラシーと呼ばれた戦前日本の民主主義的傾向は、昭和になって失われた。民主主義が失われた時代の歴史を今一度振り返る。

 1930年(昭和5)、政府(浜口雄幸内閣、立憲民生党)は金解禁(金輸出禁止の解除)を断行したが、前年アメリカで始まった恐慌は世界恐慌へと拡大し、金解禁は嵐の中で雨戸を開けるような結果となった。輸出は激減、株価・物価が下がって企業倒産があいつぎ、失業者がふえて深刻な昭和恐慌となった。農村はさらに深刻で、農産物の価格が暴落し、養蚕農家は壊滅的打撃を受けた。都市の失業者が農村に帰ったが、兼業する仕事もなく、農家の困窮はいちじるしかった。人々は、金輸出再禁止を予期して円売り・ドル買いを進める財閥を非難した。それは財閥と強い結びつきをもつ政党政治への批判となった。

 深刻な経済悪化に対応できない、しようとしない政党内閣に人々は失望した。政党同士が相変わらず権力の獲得のみを目的とする争いを続けるのを見て、人々は民主主義による政党政治を否定的に見るようになった。この時期政党がかかわった数多くの政治スキャンダルが、政党政治に対する国民の信頼を失墜させた。『大阪毎日新聞』は言う。「この現状はいわゆる既成政党の醜状を白日の下にさらけ出したものであり、政党政治の病根は国民等しく目を覆い、政、民の泥仕合に愛想をつかし議会を前にして政界の将来に一層の不安を感ぜしめつつある」

 そして1931年(昭和5)起きた満州事変が、政党と軍部との力関係を急速に軍部に傾けさせる契機となった。軍部には中国の排日運動にさらされる満州在住の日本人の窮状と、満州権益への脅威に対処できない政党政治に対する強い不満が生まれていた。満州に駐留する関東軍は参謀の石原莞爾を中心として1931年軍事行動を起こした。政府(若槻内閣、立憲民生党)は閣議で事変不拡大の方針を決め、軍部に伝えたが、関東軍はこれを無視し、満州占領を進めた。また朝鮮に駐在する日本軍も独断で越境し、関東軍の行動に合流した。世論、多くの有力新聞は軍の行動を支持した。若槻内閣は軍を抑制することができず、やがて当初の方針を撤回し、次々と軍のつくった既成事実を追認して総辞職した。

 この頃軍部の青年将校や国家主義者を中心とする急進的な国家改造運動が活発になり、彼らは財閥・政党などが日本のゆきづまりをもたらしたとして責任を問い、直接行動によってこれを倒し、軍部中心の内閣をつくり、内政・外交の大転換をはかろうとした。1932年(昭和7)5月15日、海軍青年将校らが犬養毅首相を官邸に襲い、暗殺した(五・一五事件)。この事件の影響は大きく、もはや政党内閣の継続はむつかしいと見た元老西園寺公望は後継首相に政党関係者を推薦しなかった。ここに民主的な政治体制としての政党政治が断絶するに至った。

 この頃より国内の思想・言論は急速に国家主義に傾き、社会主義ばかりでなく、自由主義・民主主義的な思想・学問への抑圧も強まった。1935年(昭和10)天皇機関説問題が起きた。この、天皇を国家の一機関とみなす広く認められてきた美濃部達吉による民主的な学説を、軍部や国家主義者が天皇中心の国家体制に反すると攻撃し、岡田内閣は譲歩して天皇機関説を否定する国体明徴声明を出した。

 日本の民主主義的傾向が復活するのは1945年(昭和20)太平洋戦争に敗れた後である。

令和5年4月1日

第121回 どうして民主主義が根付かなかったのでしょう-平成の天皇陛下

 2023年の文藝春秋新年特大号に、「平成の天皇皇后両陛下大いに語る」と題した昭和史研究家保阪正康さんの注目すべき寄稿が載せられている。保阪さんは2013年(平成25年)2月から2016年5月にかけて6回にわたり、半藤一利さんと共に御所に招かれ、天皇・皇后(現在の上皇・上皇后)両陛下と対談した。第1回目の対談のとき、保阪さんは自著『仮説の昭和史』を持参したが、その本の内容の簡単な説明を聞いて、天皇陛下は「仮説は大事ですよね。日本はどうして民主主義が根付かなかったのでしょうね」とおっしゃった。保阪さんはいきなり思いもよらぬ質問を受けて驚き、まごついてしまったという。

 (戦前の)日本になぜ民主主義が根付かなかったのか。これは戦前の日本に関する本質的に重要な問いである。この問いに対する答えが、明治維新に始まる日本現代史の正しい認識と評価をもたらすだろう。以下、民主主義の定着を基本視点にして戦前の歴史を振り返ってみる。

 明治維新は王政復古の形をとったが、「広く会議を興し万機公論に決すべし」を国家運営の基本方針とし、四民平等とするなど、民主革命ともいえる根本的な体制変革だった。1889年(明治22)憲法(大日本帝国憲法)を定め、1890年衆議院総選挙を実施、帝国議会を開会した。国民に衆議院を通じて国政に参加する道が開かれた。

 初期議会ではなお藩閥内閣が超然としていたが、次第に衆議院で多数を占める政党に基礎をおく内閣が生まれた。1902年(明治35)から1913年(大正2)まで、藩閥に基盤をもつ桂太郎と立憲政友会総裁の西園寺公望とが交代で内閣を組織した(桂園時代)。

 大正時代は民主主義の風潮が高まった(大正デモクラシー)。1916年(大正5)、吉野作造は民本主義をとなえ、政治の民主化のため普通選挙制度にもとづく政党政治の実現を求めた。1918年(大正7)立憲政友会総裁原敬は、陸海軍大臣と外務大臣を除くすべての閣僚を立憲政友会の党員から選ぶ本格的な政党内閣を組織した。原は平民宰相と呼ばれ、国民から歓迎された。

 1924年(大正13)総選挙では護憲三派が圧勝し、第一党の憲政会総裁加藤高明が連立内閣を組織した。加藤内閣は1925年普通選挙法を成立させた。1924年(大正13)から1932年(昭和7)犬養毅内閣が倒れるまでの8年間、衆議院に基礎をもつ二大政党(憲政会と立憲政友会)が交代で内閣を組織する「憲政の常道」が実現していた。

 1929年(昭和4)始まった世界恐慌から日本も深刻な恐慌となった。人々は、経済に無策で党利党略にかまけ、汚職で腐敗している(と見えた)政党政治を見離すようになった。1931年(昭和6)満州事変が勃発。世論は満州を占領する軍の行動を支持した。人々は政党よりも軍部を信頼するようになった。

 1936年(昭和11)の二・二六事件以降、軍部は実質的に政治を支配するようになった。1940年(昭和15)近衛首相を総裁として、政府に協力する組織として大政翼賛会が結成され、議会は政府提案に承認を与えるだけの機関となった。形式的に憲法や議会の活動が停止することはなかったが、日本が1941年に始まる大東亜戦争に敗れて1945年GHQの占領政策として民主化が進められるまで、議会制民主主義は窒息させられた。

 民主主義がなぜ根付かなかったのかについて、少し詳しく次回考えてみたい。     令和5年3月15日

第120回 伊藤博文の卓越したリーダーシップ

 昨年9月27日に執り行われた安倍晋三元首相の国葬で、岸田文雄首相、菅義偉前首相、麻生太郎元首相が弔辞を述べ、野田佳彦元首相が一月後の国会で追悼演説を行ったが、その中で、菅義偉元首相の弔辞が深く心を打つ。菅義偉元首相は弔辞の最後に、明治42年ハルビンで暗殺された伊藤博文を偲んで盟友山県有朋が詠んだ歌を取り上げ、今この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ歌はありませんと述べた。

 「かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」。

 伊藤博文と山県有朋は長州藩の最下級の武士として維新革命に身を投じ、明治の近代国家建設に苦闘した永年の盟友であった。後年、総理大臣などの要職を退任した後も元老として国家の運営に腐心した。二人の力は元老の中で突出していたが、両者の関係は伊藤の方が上位にあり、明治天皇の信任も伊藤に厚かった。上記の歌には、伊藤と共につくりあげた国家の運営を今後どうしていこうかと、伊藤を失った山県の心細さがよく出ている。

 伊藤博文は卓越した明治のリーダーだった。明治39年元老の伊藤は、首相官邸に元老(山県有朋、大山巌、松方正義、井上馨)と重要閣僚(西園寺公望首相、寺内正毅陸軍大臣、齊籐実海軍大臣、阪谷芳郎大蔵大臣、林董外務大臣)、及び児玉源太郎参謀総長、桂太郎前首相、山本権兵衛前海軍大臣らを招集し、日露戦争後の満州問題について協議、国策の方向付けを行った。当時伊藤は韓国統監であり、こうした国家の指導者を招集して国策を決定するような権限があったわけではない。しかし、元老伊藤にはそれだけの力があり、周囲も伊藤のリーダーシップは当然と考えていた。

 伊藤は日露戦争に勝利した後の日本軍が満州経営といって軍政をやめようしないことを憂慮し、国策をきちんと、明確に定めようとした。伊藤は言う。日本は英米両国と提携して満州の門戸開放を提唱し、ロシアとの戦争に入ったのであるから、今満州を独占しようとしてはいけない。ロシアに対しても旧怨を忘れさせるようにしないと、ポーツマス条約は一時の休戦条約と同じことになってしまう。また清国に日本を信頼させ、清国で指導的地位に立つためにも、満州はちゃんと清国に返すべきだ。余の見る所では児玉参謀総長等は満州における日本の地位を根本的に誤解しておられる。満州は純然たる清国の領土の一部である。わが属地でないところにわが主権が行われる道理はない、と。

 国際社会の動向と日本の実力を熟知する伊藤は実に正しく、的確な判断を下している。日露戦争に勝ったとはいえ、日本はまだ弱く、国際社会の容認する考えに従わなければ日本は危なくなるという現実的、常識的判断である。こうした認識は、実は伊藤の他の元老たちにも共有されていた。  

 日露戦争後元老たちが退き、維新の第二世代がリーダーとなるにつれて日本は国策を誤るようになる。伊藤はこの会議の3年後世を去るが、彼の死は明治国家を建設した優れたリーダーたちの国家指導層からの退場を象徴する。

 日露戦争後日本はなぜ国策を誤ったか。一口で断定することなど不可能であるが、一つには国家指導層の凡庸化と共に、国家の制度化に伴って国家がセクショナリズムに支配され、統一した国家意思の決定能力に欠くようになったことを挙げたい。国家のセクションとしての軍部の意見がそのまま国策のようになった。伊藤はなお軍部を抑える力をもっていたが、その後同様の力をもつ指導者は出なかった。

令和5年3月1日

第119回 低線量放射線の健康影響について

 エネルギーの安定供給は国民生活と経済の基本であるが、特にウクライナ戦争勃発後エネルギー価格は高騰し、日本のエネルギーの安定供給が危うくなっている。原子力エネルギーの積極的利用が安定供給をもたらすが、福島原発事故後日本は原発の積極的利用政策を打ち出せていない。エネルギーの安定供給なくしては、日本の国力の低下と貧困化が進むのみである。

 原子力は非常に優れたエネルギーであるが、その利用に否定的な人たちには多く、原子力の安全、特に放射能に対する不安があるだろう。放射線医学の専門家より学んだ放射線の健康影響に関する正しい知見を以下にまとめ、啓蒙活動の一つとしたい。

 地上のすべての人は、放射線を浴びながら日常生活を送っている。年間被ばく線量(1年間に浴びる量)は世界平均で2.8ミリシーベルト、日本人の平均3.8ミリシーベルトで、主として自然放射線からの被ばくと医療放射線からの被ばくによる。日本人の医療放射線による被ばくは世界平均よりやや多い。この程度の少量の被ばく(低線量被ばく)は、人の健康に全く無害である。  

 放射線被ばくが有害となるのは、大量に被ばくした場合である。7,000ミリシーベルト以上被ばくすると人は死亡する。4,000 ミリシーベルトでは50%の人が、2,000ミリシーベルトで5%の人が死亡する。また一定以上の放射線量を被ばくすると、将来がんを発生するリスク(危険度)が被ばく線量にほぼ比例して増える。100~200ミリシーベルト被ばくすると発がんリスクは1.08倍、200~500ミリシーベルトでは1.16倍、1,000~2,000ミリシーベルトでは1.4倍、2,000ミリシーベルト以上では1.6倍となる。ちなみに良くない生活習慣もがん発生のリスクを高める。喫煙による発がんリスクの増加1.6倍、毎日3合以上の飲酒による増加1.6倍、運動不足による増加1.15~1.19倍、塩分の摂りすぎ1.11~1.15倍、野菜不足1.06倍となっている。喫煙や飲酒の習慣は、2,000ミリシーベルト以上の放射線被ばくと同等のがん発生リスクを高めることがわかる。

 それでは、100ミリシーベルト未満の低線量被ばくの場合のがん発生のリスクはどうか。リスクの増加は無い(見られない、確認できない)というのが結論である。低線量被ばくでもリスクはわずか増えているのかもしれないが、それはあまりにも小さく、他のリスクに埋没して疫学的に確認できない。それで、放射線医学では健康に悪影響のない線量として100ミリシーベルト未満を目安とする。

 ちなみに、福島原発事故での福島県一般住民の被ばく線量の最高値は23ミリシーベルトであった。住民の0.7%が10ミリシーベルト以上被ばくし、41.4%が1~10ミリシーベルト被ばく、57.8%が1ミリシーベルト未満だった。こうした低線量の被ばくであったため、福島で放射線被ばくによる健康障害は起きていない。

 過去放射線被ばくの遺伝的影響が恐れられたことがあったが、広島・長崎の8万人にのぼる被ばく者を対象とした長期にわたる綿密な追跡調査によって、遺伝的影響はないことが判明している。また、被ばくによる健康影響の子どもと大人の違いについても、500ミリシーベルト未満の被ばくでは子どもと大人に差はないことがわかっている。

 放射線が有害となるのは、一定量以上を被ばくした場合である。低線量放射線を恐れる必要はない。

令和5年2月15日

第118回 日本の国家戦略-アングロ・サクソンとの協調

 日本の近現代史をふり返ると、日本はアングロ・サクソン(英米)と協調しているときはうまく行き、そうでないときは失敗していると、外交史家/戦略思想家・岡崎久彦氏(1930-2014、元外務省情報調査局長、元駐タイ大使)は言う。

 明治時代の日本は日英同盟を結び、これを後ろ盾として南下するロシアと戦い(日露戦争)、勝つことができた。米国との関係も良好だった。奉天会戦でロシア軍は退却したものの陸軍の戦闘力は完全に尽き、日露戦争は長引けば負ける戦争だったが、ルーズベルト大統領の好意的な斡旋を得て、勝っている状態で戦争を終結させることができた。日本は国際連盟の常任理事国となり、五大国の一つとして国際的地位を得た。

 日露戦争後米英との関係が次第に悪化していく。米国の力が非常に強くなり、英国は米国の力と意見を尊重せずには世界政策を遂行できなくなった。1921年日英同盟が廃棄された。大陸へ積極的に進出する日本は、中国のナショナリズムに同情を寄せる米国に敵視されるようになった。1940年日本は日独伊三国同盟を結び、米英との決定的な対立関係に入った。米英と戦い(太平洋戦争)、徹底的な敗北を喫した。

 戦後の日本は民主主義の試行錯誤も多く、強力な指導者に恵まれたわけでもなかったが、何とかうまくやってこれたのは、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約という国家戦略が基本的に良かったからである、と岡崎氏は言う。

 また、氏は言う。力の関係だけを考えてもアングロ・サクソンは過去四百年の大きな戦争には全部勝っている。英米は同根であり、我々が現在信奉しているデモクラシーも、英米仏いかに違っているように見えても、結局はアングロ・サクソン的制度である。日本の国家の安全な存立のために、アングロ・サクソンとの協調が決定的に重要である。日英同盟の期間中とか、戦後の日米安保体制の日本とか、アングロ・サクソンと同盟しているあいだの日本はあまり素頓狂な間違いをおかさない。いったんこれが切れると1930年代のように、もう世界の情勢がどうなっているか常識的な判断を失い、八紘一宇だとかを口走るようになった、と。

 戦前日本の米国との協調関係のつまずきは、日露戦争後の満州問題の処理から始まった。戦争の結果、東清鉄道の南半が日本のものとなるが、米国の鉄道王ハリマンが来日し、米国資本を参加させる日米共同経営を申し入れた。元老井上馨はこれにとびつき、桂首相の同意も得た。今後予想されるロシアの復仇と中国の国権回復運動を考慮するとき、満州に米国と中国の両方の資本を入れておくのがよいとする井上の考えは、極東の力関係の将来を見通した卓見であった。ポーツマス条約を締結して帰国した小村寿太郎外相は、この話を聞いて憤然とし、政府内を工作して桂首相がハリマンに与えていた仮了解を取り消させてしまった。大いに失望したハリマンは後日、「日本は十年後に後悔することがあるだろう」と語った。その後の歴史はハリマンや井上が正しかったことを示している。

 岡崎久彦氏は日本の存立と安全を考え抜き、国家戦略としてアングロ・サクソンとの協調を主張した。2014年死去した氏は、習近平時代の最近の中国の変化を見ていない。ご存命であれば、中国が強大化して一方の力の極になろうとも、日本はぶれることなく米英と協調するのがベストであり、国家戦略として日米安保条約の強化を主張すると思う。             

 令和5年2月1日

第117回 大乗の菩薩道


 日本は世界の中で、特定の宗教を明確なかたちで信じない、宗教に無関心な人の多い国といわれる。それで日本人に宗教心がないかというと、そんなことはない。日本の倫理/道徳的慣習(エートス)の中に、明確に意識されない、半意識的な宗教心が健在である。日本人は心身の清浄を好み、清潔を好む。また、人のあり方として「清明正直(清く、明るく、正しく、直き)」をよしとする。これは自覚がないかもしれないが、日本伝統の神道の倫理であり、宗教心である。

 日本人の宗教信仰に関するNHK放送文化研究所の調査によると、宗教を信仰していない人49%、仏教を信仰する人34%、神道を信仰する人2.7%、プロテスタント0.7%、カトリック0.2%となっている。以下、日本の主たる宗教である仏教に由来する日本人の宗教心について、特に菩薩道について考える。

 日本に伝来した仏教は、釈尊の死後数百年経って一大発展を遂げた大乗仏教である。大乗仏教は菩薩乗といわれるくらい、人が菩薩となって菩薩道を実践することを重んじる。菩薩とは、菩提心(悟りを目指す心)を発し、自利即利他(他者を幸せにすることが自己の幸せである)の修行に励み、仏になろうと努力する人のことをいう。

 菩薩の修行は、大乗仏教の歴史を経て以下の6点に集約されている。これを六波羅密多(六つの完成行)という。1.布施:ものを施すこと、与えること。ものだけでなく、親切にすること、奉仕すること、教育することなど、すべて布施である。2.持戒:戒律を守ること。仏教の戒律の基本は、①生き物を殺さない、②嘘をつかない、③盗みをしない、④よこしまな男女の交わりをしない、⑤酒を飲まない、の五戒である。3.忍辱:忍耐することであるが、特に恥・屈辱に耐えること。4.精進:怠らず努力すること。 5.禅定:集中して瞑想すること。6.智慧:真理を知る能力を得ること。菩薩は以上の六波羅密多の修行を続けることによって、悟りを得て仏になるとされる。

 菩薩はまた、以下の誓願を立てて修行する。これを四弘誓願という。1.衆生無辺誓願度(衆生は無限に存在するが、願わくはすべてを救済したい)、2.煩悩無量誓願断(煩悩は無量だが、願わくはすべて断絶させたい)、3.法門無尽誓願学(仏教の学問は尽きないが、願わくはすべてを学びたい)、4.仏道無上誓願成(この上もない仏の悟りを成し遂げたい)。最初の誓願は利他の誓願であり、衆生の救済を目的とした菩薩の究極の誓願である。残りの三つは自利の誓願で、三つとも最初の利他の誓願を実現するための誓願と考えるのが大乗仏教の精神である。

 大乗仏教の菩薩道(菩薩思想)は、仏教を信仰する人々を超えて広く、日本人に深い影響をもたらしてきた宗教心だと私は思う。

 日本では神仏が習合しているが、菩薩道の利他行は神道の「世のため人のために尽くす」ことと重なっている。神前で「世のため人のために尽くさせたまえと恐(かしこ)み恐(かしこ)み曰(もう)す」と祝詞を唱えることからわかるように、神道の倫理は「世のため人のために尽くす」に帰着する。また、菩薩は儒教の君子とも重なっている。日本天台宗を開いた最澄は、「国の宝、国の利とは菩薩以外のなにものでもない。仏教で菩薩と称しているものを世俗では君子とよぶ」と言い、菩薩と君子を同一視している。

 菩薩道は、非常に普遍性の高い宗教心ではなかろうか。

令和5年1月15日

第116回 日本文明を考える

 新年を迎え、日本文明について改めて考えてみた。

 最初に、日本文明というものが独立文明として存在するというのが、世界の文明史家の主流の見方であると知っておきたい。サミュエル・ハンチントン(1927-2008)は著書『文明の衝突』で、世界の主要文明を、西欧キリスト教文明、ロシア正教文明、イスラム文明、ヒンズー文明、中華文明、日本文明、中南米ラテン・アメリカ文明の7つであるとした。20世紀最大の文明史家と言われたトインビー(1889-1975)は、日本文明を中国(中華)文明の衛星文明と位置づけていたが、後年独立した一つの文明だと訂正した。また、『源氏物語』の英訳者として名高いアーサー・ウェイリー(1889-1966)は、中国古典にも精通する天才だったが、日本文明は中国文明の派生文明ではないと言っていた。

 上記の世界の7つの主要文明の中で、西欧キリスト教文明が最大である。この文明は北アメリカと豪州も含む。西欧キリスト教文明は世界に先がけて近代化し、強力な文明となって世界に大きな影響を与えてきた。他文明に属する人々が西欧キリスト教文明に接し、自国文明の近代化を図ったが、それは西欧化ともみなされた。また、西欧キリスト教文明の優越性を信じる人たちは、この文明に人類文明の普遍性を見、近代化=西欧化=文明の普遍化といった主張もあったが、現代ではこうした考えは否定されている。

 改めて文明とは何か。文明(civilization)とは、長期間継続する高度に発達した社会組織、文化及び生活のあり方を共有する人間社会のことであり、その社会に住む人々の変らない精神構造----すなわち、どんな考え方をし、どんな感じ方をし、何を大切に思うかといった人々の心のありよう----が文明を形づくる。ゆえに宗教やエートス(社会における道徳的慣習)が文明のコアとなる。

 では日本文明はどういう文明だろうか。日本文明は重層文明とよく言われる。太古から存続する神道の基層の上に外来の仏教、儒教が加わって習合し、近年には西欧の近代文明が加わって重層化している。そして文明の中核にある精神は、神道の清明正直(清く、明るく、正しく、直きこと)であり、正直と誠実をよしとし、多神教であり、自然と調和し、和を重んじる心のあり方である。

 日本文明の特色として、言語(日本語)が穏やかであり、人々が論争を好まないこと、人を信頼し、性善説に立つことがあげられる。これは日本人が島国に生き、大陸の民族のような異民族との生死をかけた熾烈な闘争をほとんど経験せずにきたことから成熟した特質であろう。日本文明は人類が本来もっている精神が失われずに成長、発展した特色をもつ現代文明だと思う。

 『文明の衝突』でハンチントンは2000年の時点で、中国の将来の台頭と覇権化を予見している。そして、そのとき日本はおそらく中国に順応する道を選ぶだろうと述べ、その理由として、例外的時期はあるが、日本は概ね歴史的に自国が最適と考える世界の強国と同盟して安全を護ってきたことを挙げている。私は中国に順応ということではなく、アメリカと共にあって中国に対抗しながら必要な協調を行うという姿勢で臨むべきだと思う。そう思う背景に中国文明よりもアメリカを含む西欧文明に親近感を抱く意識がある。皇帝(国家主席)と共産党が独裁的に人民を統治する中国文明よりも、自由、民主、法の支配といった西欧文明をよしとする。重層文明の日本文明は思った以上西欧文明に近いのかもしれない。

令和5年1月1日

第115回 日本の成立―縄文時代

 日本列島に住み着いた現生人類は1万6千年前から土器をつくり始めた(縄文土器)。縄文土器が用いられた紀元前4世紀までの1万数千年間を縄文時代と呼ぶ。その後稲作が広がり、金属器が使用され、土器も弥生土器に変わって弥生時代となった。古墳時代、飛鳥時代がこれに続いて日本の国が成立していく。

 近年の歴史研究によって、日本文明の基礎は縄文時代に育まれたとの見方が強まっているように思われる。

 縄文時代、人々は原始的な貧しい狩猟採集生活をしていたと考えられていたが、青森県で見つかった縄文時代の定住集落の跡(山内丸山遺跡)は縄文人のイメージを変えた。この遺跡は5,500年前から1,500年間存続し、最盛期には500人もの人が定住していた。人々は、栗を常食とするため栗林を大量に管理し、イモ、豆、エゴマ、ヒエ、ヒョウタンを栽培していた。日本の豊かな自然は野、山、海、川にイノシシ、シカ、マガモ、キジといった山の幸、カツオ、マダイ、スズキ、サケ、貝類といった海の幸を豊富にもたらした。

 田中英道は、縄文文化は世界の四大文明に匹敵するという。縄文時代、土器が出現し定住生活が始まったが、土器の出現も定住化も世界的に最も早い時期だった。日本列島における縄文の豊かな土器文化は世界の文明史に特筆されてよい。

 日本では3万8千年前から磨製石器が使われたことがわかっているが、縄文時代は磨製の石斧や鏃(やじり)が使われるようになった。鏃やナイフに使われた黒曜石の産地は限られているが、これが全国で利用されていることから、縄文時代非常に広い範囲で交易が行われていたことがわかる。人々は骨や角から精巧な釣り針やモリをつくり、魚介類をとっていた。翡翠でつくられた精巧な装飾品(ペンダント、イヤリング)も発見されている。また、漆の技術も1万年前から使われていたことがわかっている。

 縄文時代の遺跡は全国で9万531カ所発見されており、発掘される土器、石器、土偶、木製品、衣類(編み物)、装飾品などから縄文人の生活が想像できるが、大きな特徴として、縄文遺跡からは戦争のための武器は全く出土しないことがあげられる。武器や敵を防ぐための柵や堀が発見されるのは弥生時代になってからである。縄文時代の1万数千年間、特に中期は温暖化が進み、自然は豊かで、人々は共生し、戦争のない穏やかな社会を営んでいたと考えられる。この時代に日本人の穏やかな性格が育まれ、和の文化の基礎がつくられたという文明認識が進んでいる。

 日本の伝統文化である神道も、縄文時代に生まれて今に及んでいると考えられる。神道は、自然崇拝、アニミズム、祖先崇拝及び清浄崇拝の信仰であり、生活感覚、宗教感覚である。縄文の遺跡から神道の精神が伺える。秋田県の縄文遺跡「大湯ストーンサークル」は人々に太陽信仰があったことを示す。神道は太陽神である天照大神を最高神とする。神道は自然道である。縄文人は自然の中で現代日本人よりもずっと自然とかかわり深い暮らしをしていた。自然を畏敬し、自然に神を見、自然崇拝を基本とする神道が縄文時代に生まれたのは間違いないだろう。我々現代日本人にその自覚はないが、改めて神道を知ると、現在なお我々の生活感覚に神道が横たわっていることがわかる。カミ(神)をアイヌ語でカムイという。アイヌは縄文人の一分派である。「カミ」もそのまま日本語になった縄文人のことばであろう。

 日本の精神文化の基層は縄文時代にできたと思われる。

令和4年12月15日





第114回 自由の自覚

 平川祐弘(東大名誉教授、比較文化史)は、「東アジアの諸国の中で日本のように言論の自由が認められている国に生を享けたことは、例外的な幸福である」と言い、東大を去るときも、「学問や言論の自由がある日本に生きてよかった」と教授会で挨拶した。数カ国語に通じ、北米、中国、台湾などで教壇に立って、外国と日本を見てきた氏の心からの実感であろう。

 我々は、日本が言論、思想・良心、学問、および信教の自由のある国であることの意義をかみしめたいと思う。

 自由が人間の生存にとって重要であるという考えは古代からあったが、自由の意義が強く自覚され、主張されて自由権が重要な人権として確立したのは、絶対王政から革命を経て市民社会に脱皮した近代西欧においてであった。特にアメリカ独立革命においては自由が力強く宣揚され、アメリカは自由の国となった。近代における西欧(アメリカを含む)の顕著な発展と成長は、人々に自由な市民から成る民主主義社会が最も良いとの思いをもたらした。

 日本は古代から中世を経て江戸時代まで、まずまず自由のある社会だった。また明治以降も、法律の範囲内という条件はついているが、言論、著作、集会、結社の自由が憲法で認められた基本的に自由のある社会だった。信教の自由も、安寧秩序を妨げないといった条件のもとに認められていた。しかし、自由が一段と進んだのは日米戦争に敗れた戦後においてだった。憲法が改正され、基本的人権として、法律の範囲内といった条件なしで、信教、言論、集会、出版、結社の自由が保障され、新たに思想・良心の自由と学問の自由も明記された。現在の日本国憲法は、国防/安全保障条項に欠陥があり(第9条)、改正しなければならないと強く思うが、基本的人権に関する規定は変更することなく維持すればよい。日本は大きな戦争を経験して、自由と民主主義の方向に文明的に成熟したという歴史認識でよいのではなかろうか。

 ところで、あらためて「自由」の意味であるが、「自由」は英語freedom(あるいはliberty)の翻訳語である。明治の先覚者がfreedom、liberty を知ったとき、適当な日本語がなく、「自主任意」や「自由」を当てたが、「自由」で定着した。freedom(あるいはliberty)は「束縛されずに行動したり、思ったり、言ったりすることのできる」ことであり、日本語の「自由」は「自(みずか)らに由(よ)る」という意味である。西洋と日本で「自由」の意味に違いがあった。そして日本人は、人が基本的に自由であることは自然なことで、あえて自由を言挙げすることはなかったが、自由はわがまま勝手、やりたい放題、放縦となって道理から外れるおそれのあるものとして、自由を否定的にみる傾向があった。西洋の自由も勿論、他者を危害するような自由は明確に否定されているが、総じて西洋では個人の自由を最も重要な基本的人権としてこれに積極的な意義と価値を見いだしてきた。

 開国後160年、自由の意義と価値はその普遍性のゆえ(そう信じる)、日本に次第に定着した。現代日本は、言論、思想信条の自由などが十分確立した国となっている。

 我々は日本がこうした自由のある国であることの意義とありがたみをよく自覚し、誇りをもって世界で生きていく必要があると思う。世界にはなお言論の自由、思想信条の自由の確立されていない国が多い。

令和4年12月1日

第113回 日本への思い

 前回、経済をベースとする日本の国力の深刻な低下について述べた。以下は、国力の衰退を防ぎ、日本が豊かな、力をもった国でありたいと願う私の、どうすべきかという思いの断片である。

 まず、日本をダメだと言わないようにしたいと思う。自国をダメだと言うような国民が多数を占めれば、日本は国民の思いどおりのダメな国になるだろう。これについて、日本人としての自信と精神の強さが根本であるが、自信を弱めているものに、自国の歴史を否定的にみる歴史認識がある(いわゆる自虐史観など)。事実本位で自国の歴史を基本的に肯定する正当な歴史認識をもちたい。

 次に当たり前の国家意識をもちたい。国家主義ではない普通の国家意識である。国家は組織であるが、共同体であって人と同様の尊厳性をもち、国民の生存と幸福を左右する力をもつ。そして国家は空気のように存在しているわけではなく、我々がつくっているものである。そのような国家に何の貢献もせず、ただ国に要求し、国に依存する精神は改めたいと思う。「国を支えて国に頼らず」の気概をもちたい。

 政治に対する姿勢も同じである。我々は政治をもっと重視すべきである。そして選挙で選ばれた政治家は国民から委任された責任の重みを自覚し、国の直面する課題に先送りせず取り組み、決定していく。政策を決定するとき、反対意見があるのは当り前で、議会で議論を尽くした後は民主主義のルールに従って採決するのみである。日本に「強行採決」という言葉があるが、こうした感情的な言葉は世界の成熟した民主主義の国にはないことを知っておきたい。

 次に、教育はいかにあるべきか。初等教育で重視すべきはまず国語である。次に算数(数学)。中等教育では国語、英語、数学、物理等の科学。そしてAIリテラシーを中等教育から教える。高等教育ではAI・データサイエンス/テクノロジー教育を強化する。自然科学、工学教育は蛸壺にならないようにする。従来の人文科学、社会科学も人類の知的財産として教える。そして、真理を研究する教育とともに価値を創造できる人材の育成を目指す。

 日本経済の凋落を防ぎ、あらためて経済の重要性を認識するとき、現在の資本主義体制に改良の余地があると知る。原丈人氏の提唱する「公益資本主義」に注目したい。現代資本主義は株主利益を第一とする「株主資本主義」傾向が強い。その経営は長期視点に立つ研究開発投資を生まず、従業員への配分に薄く、所得格差の拡大を生む。「公益資本主義」は会社を「社会の公器」と考え、すべてのステークホルダー(社員、顧客、経営者、株主、仕入れ先、地域社会)にバランス良く利益を分配する。「公益資本主義」経営が長期的なイノベーションを生み、豊かな中間層を生み、長期的にはより多くの富を生むと思う。「公益資本主義」は伝統的な日本的経営の精神と共通しており、「株主資本主義」よりもすぐれていると信じる。「公益資本主義」の拡大で日本資本主義の再生を期したい。

 国家の歴史を振り返ると、大きな苦難に直面した人々の創造的レスポンスが苦難を解決し、国家を興隆させ、惰性と安逸が国家を衰亡させてきたことがわかる。日本が直面する困難な諸課題を新たな創造の材料としたい。

令和4年11月15日

第112回 深刻な日本の国力の低下

 経済をベースとする日本の国力の低下が著しい。1991年に始まったバブル崩壊後、30年以上日本経済は低迷し続けている。この長期にわたる日本経済の停滞を海外は「日本化(Japanification)」と呼ぶ。「日本病」と言う人もいる。

 1990年日本の国民一人当りGDP(名目)は世界第8位だった。それが2021年には27位に転落した。G7の中で1990年日本は1位にあったが、2021年には6位に落ちた(7位はイタリア)。

 国民一人当りGDPが国の豊かさを表わす指標となるが、市場で取引されている為替レートでなく、購買力平価の為替レートで換算するのが真の豊かさの比較になる。それによると、1990年日本の一人当りGDPは世界で21位だったが、2021年には37位まで転落。すでに台湾(14位)、韓国(30位)よりも貧しい国になっている。

 賃金のデータからも日本の貧困化が明らかである。OECD資料によると、日本の平均賃金は1990年37千ドル、2020年38千ドルで、この30年間ほとんど増加していない。アメリカは2020年69千ドルで1990年から47%増加、ドイツは54千ドルで34%増加。1990年日本より低賃金だった英仏も順調に伸びて、2020年共に日本の1.2倍程度になっている。韓国は42千ドルで、2015年にすでに日本を追い抜いている。

 日本経済の低落は株価の低迷からもうかがえる。日本の株価は1989年3万8915円のピークに達し、その後30年これを超えることなく、現在に至っている。この間、アメリカの株価は9倍、ドイツは7.4倍になっている。世界経済に占める日本経済のシェアは1989年15.3%あったが、2018年には5.9%に縮小している。

 日本は今や経済大国でも何でもなく、はたして先進国といえるかどうかも危うい、さえない国になっている。日本は世界に冠たる経済大国だという認識があったが、真の豊かさの指標である購買力平価による一人当りGDPで見ると、実は日本の経済が最も強かった時代も、G7の中でせいぜい4位か5位で、トップに立ったことはなかった。

 近い将来日本経済が力強く復活するようにも見えない。長引くコロナで経済は収縮し、ウクライナ戦争でエネルギー資源費が高騰して世界的にインフレが進んでいる。アメリカは過度なインフレを警戒して政策金利を引き上げたが、日米の金利差が開いて急激に円安が進み、エネルギー資源費がダブルで高騰して日本経済に悪いインフレをもたらしている。日本も欧米と同様政策金利を上げたいが、景気を悪化させる懸念と、日本の1,100兆円という膨大な国債のゆえ、金利を簡単に上げることができない。金利を上げると政府は税収の相当割合を国債の利払いに充当しなければならず、増税なしでまともな予算を組むことができなくなる。

 どうして日本経済はこれほど凋落したのか。エコノミストが、バブル崩壊後の不良債権の処理の失敗(不徹底と遅延)、構造改革の失敗(不十分)、デフレ脱却の失敗、企業が昭和の成功体験にあぐらを欠き、ビジネスモデルの変革に失敗したことなどを原因として挙げている。私は経済凋落の根本原因は日本企業の競争力の喪失にあると考えるが、経済力をベースとするとはいえ、国力を論じるならば、単に企業経営だけでなく、人材、教育、政治と国家の運営、国家観、歴史認識、倫理道徳などを総合的に論じる必要がある。これについて次回考えてみたい。

令和4年11月1日

第111回 あらためて中国を直視する

 中国が強大化し、日中関係は50年前国交回復した時から大きく質的にも変った。覇権国家化した中国が日本を脅かしている。習近平は台湾侵攻の準備を着々と進めているように見える。中国の台湾侵攻は、日本の安全と存立に大きくかかわる。そのとき日本はどうするか、真剣に考えておかなければならない。

 我々はあらためて中国がどういう国か知らなければならないと思う。

 まず、中国は西欧的な近代国家ではなく、中国大陸の歴史に現れてきた王朝の一つと見るのが、中国をよく理解する見方だと思う。歴史的に中国は皇帝の支配する国であった。毛沢東は実質皇帝だった。毛沢東の死後最高権力者となった鄧小平はトップの交代の必要性を認めたが、2012年党総書記に就いた習近平は国家主席10年任期の規約を撤廃し、終身最高権力者への道を開いた。トップの皇帝化が進んでいる。

 中国文明の中核にある中華思想も、現代中国に根強く生きている。中華思想は、中国が世界の文化・政治の中心であり、最高で世界に優越しているという思想(思い込み)で、周辺民族を「夷狄」として蔑む。中華思想は中国人の国民的信念のようで、「夷狄」などは人間でないと信じているように見える。

 中国は新疆ウィグル自治区で周辺民族ウィグル人を弾圧し、強制収容などの人権侵害を行っている。主要西側諸国は、中国のウィグル人民族浄化政策をジェノサイドと認定した。また、チベットも中国に侵略され、チベット文化を抹殺する中国の統治に抵抗するチベット人を中国政府は弾圧し、虐殺した。その犠牲者数は120万人にのぼると言われる。

 古来日本に文明は大陸よりもたらされ、日本人は中国に敬意を払ってきた。しかし、日本人は中国文明の全体像を理解したとは言えなかった。世界で日本人ほど中国を誤解している民族はいないと言われる。中国の歴史は、一族郎党皆殺しや城内(=市内)の住民皆殺しといった大虐殺、残虐極まりない刑罰、騙しと策略で人を陥れて殺すといった史実に満ちている。宦官の制度、おぞましい纏足の慣習、さらに驚愕すべき食人の習慣も20世紀まで存続した。

 中国の全体像を理解するため、中国史に頻出するこうした非文明的、非人間的な史実を直視し、これも中国文明の本質の一部と見なければならないと思う。そして、こうした文明体質は現代も生きていると考える。

 中国人は平然とウソを言う。特に国益がかかったとき、積極的にウソをプロパガンダする。武漢で発生したコロナウィルスは、アメリカが持ち込んだ可能性があるなどと言う。中国は「騙される方が騙すより悪い」と考える社会である。「詐の文化」は中国文明の本質を構成している。

 中国の残虐性も直視すべきである。1937年北京郊外の通州で、日本居留民200人以上が中国人保安部隊に惨殺された。この残虐極まりない殺害が日本を激高させ、日中戦争の遠因となった。この通州事件など中国史に頻出する大量虐殺そのものであるが、20世紀になっても虐殺文化は生きていたのであり、おそらく現在も健在であろう。

 中国文明には人の生命の尊重がない。中国共産党の支配する現代中国も、中国の伝統上にある人権軽視の社会である。日本はこうした中国と向き合っている。中国が覇権化し、世界と日本に支配的な影響力をもつことを私は好まない。   令和4年10月15日

第110回 英国について

 エリザベス女王が逝去し、国葬が行われた。イギリスは立派な国だとの思いを新たにする。

 イギリスは近代世界で大を成した国である。近代、世界でヨーロッパが興隆した。イギリスは興隆したヨーロッパを代表するような国であった。イギリスは歴史の早い時期に市民革命を経験し、17世紀末の名誉革命を経て、国王は君臨すれど統治せぬ、議会主権の立憲君主制を確立した。イギリスの議会制度は近代的国家統治のモデルとなった。

 19世紀後半日本が開国したとき、イギリスはビクトリア女王時代で、「太陽の没することのない」大英帝国の最盛期にあった。日本は近代国家のモデルを欧米に求め、イギリスを最も進んだ国と認識したが、日本のモデルとしては議会よりも王権の強いプロイセンが良き参考になると考え、憲法はプロイセン(ドイツ)に習った。

 近代的な政治、経済、文化がイギリスで創造され、世界に広がった。その最大のものが、イギリスが議会制度によって確立した、流血のない平和な政権交代のシステムである。それは18世紀前半ウォルポールが首相をしていた時代に、イギリスの慣習となり、伝統となった。その根底にあるのは、政権を離れた人の生命と私有財産の保証である。現在なお世界には、生命と私有財産が保証されないゆえ、死ぬまで政権につく独裁者が少なくない。

 近代の資本主義経済もイギリスで確立した。18世紀後半産業革命の進行とともに、自由主義的国家、自由市場、自由貿易、国際金本位制度に象徴される古典的資本主義が19世紀に成立した。資本主義はマルクスに批判され、共産主義が生まれたが、自由な経済活動を否定する共産主義は失敗し、世界は修正資本主義が主流になっている。

 イギリスの政治的成熟を象徴するのが、保守党の存在である。保守とは人間の理性の力には限界があると考え、それよりも歴史の中で積み重ねられてきた文化、慣習、経験を重視する。理性で思い描いた革新的、進歩的理想が正しいとは限らない。保守主義者はむしろ伝統、慣習、経験の中に政治的叡智が存在すると考える。

 イギリスの保守主義はコモンセンス(常識、良識)と重なる。イギリスがコモンセンスの国ということはよく言われることである。また、イギリスの哲学である「経験論」とも重なる。人間の判断に関し、経験を重視することと、理性を金科玉条としないことが共通している。

 そしてイギリスはジェントルマン(紳士)の国である。ジェントルマンはもともと貴族およびジェントリーとよばれる地主階級の人々を指したが、次第に中産階級にまで拡大し、ビクトリア時代には究極の人間の理想像となった。ジェントルマンの特色として、自制心、正直、策略を用いない、約束を守る、穏健、礼儀正しい、ユーモア、スポーツ愛好、自慢しないが強い自尊心、社会奉仕する、弱者を保護する、生まれが良い、などが挙げられる。イギリスに信頼感をもつ私には、イギリスはこうしたジェントルマンの国だとの思いがある。

 20世紀に世界の覇権国はイギリスからアメリカに移行した。英米は同じアングロサクソンの国家であるが、アメリカが非常に理想主義的で、時として極端な政治決定を行うことがあるのに対し、イギリスはより常識的で安定した政治判断をする傾向があると感じている。

令和4年10月1日

第109回 稲盛和夫さんの逝去に思う

 稲盛さんが8月24日亡くなった。90歳だった。稲盛和夫という現代の偉人の逝去の報に接して、日本の国力低下の流れを感じるのは私だけだろうか。昭和の終わり土光敏夫が亡くなったとき、中曽根康弘が土光さんを、戦後日本の最高の人だったと評した。私は稲盛さんを、平成日本の最高の人だったと評したい。

 稲盛和夫(1932-2022)は鹿児島県生まれ。1959年27歳のとき、京都セラミック株式会社(現・京セラ)を創業。グループ従業員数8万3千人、連結売上高1兆8千億円の世界的企業に育てた。1984年第二電電(現・KDDI)を設立して会長に就任。日本の通信事業の健全な発展に寄与した。また、2010年78歳のとき、当時の民主党政権から、経営破綻した日本航空の再建を強く請われて会長に就任。社員の意識改革を進め、3年経たずして見事に日航の再建を果たした。

 稲盛さんは昭和の松下幸之助のように「経営の神様」と評されたが、その経営哲学は「人間として何が正しいか」の判断基準を根本におき、人として当然の根源的な倫理観・道徳観に従って、誰にも恥じることのない公明正大な経営や組織運営を行うものだった。稲盛さんは後年、自分の成功に理由を求めるならば、ただ一つ、「人間として正しいことを追及する」という単純な、強い指針があったことですと述懐する。

 稲盛さんは利他の心による経営を説いた。利他の心とは、仏教でいう「他に善かれかし」という慈悲の心、「世のため、人のために尽くすこと」で、ここにビジネスの原点があるという。事業活動においては当然利益を求めなければならないが、その利は正しい方法で得られる利益でなければならず、事業の最終目的は社会に役立つことにある。会社の経営は利他行であり、利他行がめぐりめぐって自社の利益も広げることにもなる。稲盛さんが偉大だったのは、弱肉強食のビジネス界で利他などきれい事に過ぎないとの批判がある中、利他による経営を追及し、実践して大きな成功をおさめたことにある。

稲盛さんは自分がなすべき仕事に没頭し、工夫をこらし、努力を重ね、一日一日を「ど真剣」に---「ど」がつくほど真剣に---生きなくてはならないと人に説き、自分もそのように生きた。稲盛さんの仕事、事業、経営は常に真剣そのものだった。

 稲盛さんはまた、「思うこと」の重要性を説いた。本気で物事を成し遂げようとするならば、それを強烈な願望として、寝ても覚めても強烈に思い続けるが不可欠という。願望の大きさ、高さ、深さ、熱量が成否を決める。企業経営、新規事業、新製品開発の成就の原動力は強烈な「思い」である。

 稲盛さんの経営哲学は、経営の神様松下幸之助と共通点があると言われる。私は二人の宇宙観に共通点を見いだす。 松下は、宇宙に存在するいっさいのものは、絶えず生成発展しており、これが宇宙の本質で、自然の理法なので、ものごとはこの理法に則っているならば、成功するようになっていると言う。稲盛は、宇宙には森羅万象あらゆるものを進化発展する方向に導こうとする流れ、すべてのものを慈しみ育てていく意志のようなものが存在しており、我々の思いと行動がこの宇宙の意志に沿ったとき、成長発展の方向に導かれ、成功するという。

 利他行を実践し、魂の品格を高めるのが人生の目的だと言う稲盛さんは、まさに大乗仏教の菩薩だったと私は思う。

令和4年9月15日

第108回 重光葵の苦闘

 昭和20年(1945年)9月2日、太平洋戦争に敗北した日本は、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号上で、アメリカ等の連合国に降伏する文書に調印した。調印式には日本政府を代表して外相重光葵(しげみつまもる)が、軍を代表して参謀総長梅津美治郎が出席し、これをもって太平洋戦争が公式に終結した。大任を果たしてほっとし、その夜ホテルでこれから寝ようとする重光に、松本次官以下外務省の幹部がやっかいな情報をもたらした。占領軍総司令部が日本に軍政を布いて行政部門を統括するため、布告を発したというのである。これでは日本政府はなくなり、日本は占領軍による直接の軍政下に置かれることになる。重光は明朝早く横浜の総司令部に行き、マッカーサー総司令官と直接交渉する決意を固めた。

 9時半総司令部に着いた重光は総司令官室に入り、マッカーサーと対談。重光は、「占領軍総司令官が日本に軍政を布くとの報道を得たが、これは日本の現状に適さないので、撤回していただきたいと思い参上した」と言い、その理由を述べた。「終戦は国民の意思を汲んで、天皇直接の決済に出たもので、ポツダム宣言の内容を最も誠実に履行するのが天皇の決意であり、それを直接実現するために、特に皇族内閣を立てた。ポツダム宣言は、日本政府の存在を前提としており、日本政府に代わる軍政をもってすることを予見していない。日本の場合はドイツと異なる。連合軍がポツダム宣言の実現を期すならば、日本政府に拠って占領政策を実行するのが、最も賢明の策と考える。これに反して、占領軍が軍政を布き、直接行政実行の責任をとることはポツダム宣言以上のことを要求するもので、それは混乱をみることとなるかもしれない」と。

 マッカーサーの態度は固かったが、次第に重光の主張に理解を示した。最後に「よくわかった」と言い、軍政の施行を中止することを承諾し、その場でサザランド参謀長に命じて直ちに布告を取り下げる措置をとらせた。

 こうして日本は敗戦したとはいえ、直接軍政となる最悪の事態を避けることができた。今日重光葵を知る日本人は少なくなった。しかし、敗戦した日本の最も苦しい時期に、勝者に対して堂々と所信を主張して認めさせ、日本を救った重光葵の功績を、我々は忘れてはならないと思う。

 重光葵は1911年(明治44)外務省に入省。上海総領事、中国公使、外務次官、ソ連大使、イギリス大使、中国大使、東条内閣および小磯内閣の外相を歴任した。軍部が政府を支配し、軍部主導の戦争が日本の国の信頼を損ない、国際的に孤立していく昭和の時代にあって、日本が信頼を得て各国と良好な関係を維持しようとする重光の外交努力は困難を極めた。重光は絶望的な環境にあっても、最善の選択肢を得るべく渾身の努力を傾注した。

 重光葵は小村寿太郎に比肩する希有な外交官だったと評価される。私は重光の人間力は小村を上回るのではないかと思う。重光は明晰な頭脳と良識をもち、常に世界情勢の認識を誤らなかった。勇気と胆力をもって所信を実現しようとした。重光をよく知るイギリスのハンキー卿は、重光を高潔さと善良さのオーラが漂うと評した。

 重光葵を知ることは日本の近代史の真実を知り、困難な時代を生きた日本の先輩たちの苦闘と叡智を知ることである。それは困難な将来に立ち向かう我々の勇気の源泉となるだろう。

令和4年9月1日

第107回 幕臣川路聖謨の苦闘

 ロシアとの関係は、近代国家日本の安全に影響する関係であり続けている。北方領土問題の解決の見通しはない。今年、ロシアがウクライナ戦争を起こし、日本も西側の国としてロシアを非難、制裁を課し、日露関係は悪化している。

 ロシアは18世紀末には北海道に来航し、通商を求めたりしていたが、幕末の1855年日露両国間で初めて条約が結ばれ(「日露和親条約」)、国境が定められた。この条約は、日露の国境線を択捉島とウルップ島の間に置き、それより南を日本領、北をロシア領とした。また、樺太(サハリン)は国境を設けず、これまで通り両国民の混在の地とすると定めた。その後「千島樺太交換条約(1875)」、「ポーツマス条約(1905)」で国境線の変更があったが、太平洋戦争末期(1945)にソ連が日本に宣戦布告、ポツダム宣言を受諾して停戦した日本になお侵攻し、樺太全島、北方領土四島(択捉、国後、歯舞、色丹)を含む千島列島を占領した。その内、北方領土四島は固有の領土であるとして日本は返還を要求しているが、ロシアは四島とも第二次世界大戦で正当に獲得した領土であるとして、返還に応じていない。日本が四島を固有の領土と主張する根拠に1855年の「日露和親条約」があり、この条約の歴史的意義は大きい。

 「日露和親条約」は、来航した露国使節プチャーチンと幕府の勘定奉行川路聖謨との死力を尽くした交渉結果として成立した。樺太についてプチャーチンは、樺太島の南端アニワ湾までは日本領だが、それより北はすべてロシア領だと主張。川路はアニワより黒竜江付近まで日本領だと応酬し、その根拠として過去日本人による幾つかの調査結果をあげた。択捉島の帰属についてはプチャーチンが択捉島の日露折半を提案したが、川路は択捉島が日本の領土であることを一歩も譲らなかった。やがてプチャーチンは択捉島の日本帰属を認め、樺太についてはこれまで通りとして国境を定めないことで決着した。なおこの時ロシア本国は樺太の占領計画をもっていたこと、そしてウルップ島以北がロシア領で、択捉島は日本領でよいとの見解が本国政府より示されていたが、プチャーチンは交渉で択捉島の権利を主張します、と本国に伝えていたことがわかっている。

 川路聖謨の高い見識と人間力について、プチャーチンの秘書ゴンチャロフが絶賛している。「--彼の知性には良識があり、見事なまでに熟達された弁論を発揮して我々と対立しようとも、その一言一句、癖や物腰でさえも、彼が熟練された人間であり、思慮のある知性と洞察力を備えていることが見て取れる--」と。

 幕末の幕府は決して頑迷固陋でなく、開明的だった。老中首座阿部正弘は開明的な逸材で、彼は身分、家柄に関係なく実力本位で次々と幕府要職に人材を登用した。軽輩の身から勘定奉行筆頭まで登り詰めた川路聖謨はこうして登用された幕府人材の典型である。一歩あやまれば西洋列強に蹂躙される日本の困難な時期に、独立を維持して維新後の飛躍を準備したのは、川路のような人材を擁する幕府だった。

 プチャーチンの以下の本国政府への報告の断片が、当時の日本人の高い民度を表わしているだろう。「--ほかの旅行者が記しているように、日本滞在中には、日本人は極東の中で最も教養高い民族であると断言できるほどの機会が十分ありました」

令和4年8月15日

第106回 安倍元首相の死を悼む

 7月12日、安倍元首相が奈良で参院選の応援演説中に41歳の愚かな男に銃撃され、病院に搬送されたが2時間半後に死亡した。

 信じられない。戦前、原敬、浜口雄幸、犬養毅、高橋是清といった首相あるいは元首相がテロで命を落としたが、こうした政治家を失って日本が転落していった歴史を思い出す。

 安倍元首相は、しっかりした国家意識と、きわめて真っ当な歴史認識をもつ政治家だった。国政を担う政治家がしっかりした国家意識をもつのは当たり前だと言うかもしれないが、日本においてはそうではない。

 2010年9月7日、中国の漁船が尖閣諸島付近の日本の領海に侵入し操業していた。これを見つけた日本の海上保安庁巡視船が、漁船に退去を命じたが、漁船はこれを無視して操業を続行。漁船は2隻の巡視船に向かって衝突を繰り返し、逃亡を図った。巡視船は漁船を停船させ、船長を公務執行妨害で逮捕。漁船を石垣島まで連行し、事情聴取を行った。那覇地検は悪質な中国漁船の行為に対して、船長を起訴する方針を固め、船長の拘置期間を延長した。

 尖閣諸島の領有権を主張する中国はこれに激しく反発。船長の釈放を要求し、日本に対する報復措置を次々と実行し始めた。9月24日、那覇地検は突然「今後の日中関係を考慮して、船長を処分保留で釈放する」と発表。船長は25日中国のチャーター機で帰国した。この時日本は民主党政権だったが、民主党政権はこのような国家の主権にかかわる重大問題から逃げ、その処理責任を官僚に負わせた。菅直人首相は「釈放は検察当局が粛々と判断した結果」だと述べ、外務省幹部は菅首相の釈放指示があったことを認めたが、それについて質問された菅氏は「記憶にない」と答えた。国民は、政治主導を標榜しながら国を守る能力も責任感もない民主党政権を、このとき見限ったと思う。

 これと対照的な政治家が安倍さんだった。安倍さんは北朝鮮による日本人拉致問題に、国民を守る国家の責務の問題として取り組んだ。2002年小泉純一郎首相が北朝鮮を訪問。その後の交渉により同年10月、拉致被害者5人の一時帰国が実現した。外務省は交渉の経緯から、5人を北朝鮮に帰すべきと主張したが、中山恭子内閣官房参事は帰すのはおかしいと主張。5人の被害者も「北朝鮮に帰らず、日本で子供たちの帰国を待つ」希望であった。当時の官房副長官だった安倍さんは、「彼らの意志を表に出すべきでなく、あくまで国家の意志として5人は帰さないことにする」と決断。小泉首相の了承を得て北朝鮮に通告した。2年後の2004年には蓮池さんと地村さんの子供たち5人と、曽我ひとみさんの夫ジェンキンズさんが帰国した。

 安倍さんはきわめて普通の真っ当な国家観をもつ保守政治家だった。戦後の日本を風靡した、国家を否定するような進歩主義者の国家観とは無縁だった。こうした安倍さんを朝日新聞が「安倍は極右」だと決めつけ、異常な反安倍キャンペーンを張った。朝日は世界から異常に外れているのは、安倍さんではなく、自分たちであることを知らなければならない。

 安倍さんは外交で世界のリーダーたちから高く評価され、信頼された。近・現代史の真実と、日本が誇るに値する国であることをよく知る安倍さんは、世界のどの首脳にも位負けすることがなかった。

令和4年8月1日

第105回 昭和天皇の苦悩

 今年も8月15日「終戦の日」がやってくる。77年前(1945年)のこの日の正午、天皇(昭和天皇)のラジオ放送で戦争終結が発表された。国民は日本が大東亜戦争(太平洋戦争)に負けたことを知った。戦争は絶望的な負け戦になっていたが、軍部・政府の指導者は戦争をやめることができなかった。終戦は昭和天皇の指導力で行われた。

 1945年8月8日、天皇の内意を受けた鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言を受諾して戦争を終結させようと最高戦争指導会議を開いた。会議は紛糾し、ポツダム宣言の受諾に1条件付すか4条件付すかで議論がまとまらなかった。8月9日の御前会議でもまとまらず、鈴木首相は御前会議の慣例を破って天皇にその場で意見を求めた。天皇は腹の底から声を絞り出すように述べた。「私は外務大臣の意見に同意である(つまり、条件を付すなら1条件だけにして速やかに受諾すべきということ)。空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのを欲しない。私の任務は祖先から受け継いだ日本という国を子孫に伝えることである。今となっては一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来ふたたび起ちあがってもらうほか道はない---」。

 こうして8月10日、「天皇の国家統治の大権を変更しないことの了解のもとにポツダム宣言を受諾する」と連合国に通知したが、12日アメリカから得られた回答は「日本国の最終的な政治形態は、日本国民の自由に表明する意志により決定される。天皇および日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令官の制限の下におかれる」であった。この回答をめぐって再び最高戦争指導会議及び閣議は紛糾した。陸軍は、「この回答ではわが国体は保証されておらず、受諾できない。戦争を継続すべき」と主張。かくて8月14日、再度御前会議が開かれたが、昭和天皇ははっきりと述べた。「自分の意見は先日申したのと変わりはない。先方の回答もあれで満足して受諾してよいと思う。---私自身はいかになろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う。このうえ戦争を続けては、わが国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、忍びない。---私のできることは何でもする。陸海軍将兵は特に動揺も大きく、陸海大臣は、その気持ちをなだめるのに、相当困難を感じるであろうが、必要があれば、私はどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい---」。こうして、昭和天皇の決断によって戦争を終結することができたのである。

 戦争、未曾有の敗戦という日本の最も苦しい時期に、昭和天皇がおられたことの意義と、日本における皇室の存在意義を私は深く感じている。昭和の時代、陸軍が国政を支配、陸軍の進める戦争が日本の国際的孤立を招き、ついに太平洋戦争に行き着いて敗れた。昭和天皇はこれを止めることができなかったことに苦しみ、戦後、戦争の道義的責任を深く自覚しながらも、退位はしなかった。私はそれがよかったと思う。日本は日本として立派に継続し、復興を遂げた。

 故渡部昇一氏は戦後まもなくドイツに留学したが、そのとき、日本の天皇が敗戦後もそのまま在位していることを知ったドイツ人が驚いたことを伝えている。ヨーロッパには戦争に負けた国の君主は廃されていった歴史があるが、日本はそうでないことを知って感動し、「日本人は重厚な民族だ」と評したという。

令和4年7月15日

第104回 英米人のフェアネスについて

 英米人はフェアネス(=公正)の精神を極度に尊重する。

 少年時代を米国で過ごした元ブラジル大使島内憲氏は、「フェアネスを至上の価値とする米国」と題する一文で述べている。「---米国の包容力の源泉の一つはフェアネス精神である。米国人はフェア(公正)であることを至上の価値とし、フェアでないと思うことがあれば黙っていない。----最近帰国子女の女性から、ヨーロッパのインターナショナルスクールでいじめにあった時、他の子供が見て見ぬふりをする中で、米国人のクラスメートが一人体を張って守ってくれた、という話を聞いた。このような正義感は親が子にいちいち教えるわけではなく、多くの米国人のDNAの中に受け継がれ、米国を米国たらしめているのだと考える。----民主、共和両党対立の激化が懸念されるが、今後もフェアネスを重んじる米国が根幹から揺らぐことはなく、世界中の人々を引きつける国であり続け、他の国がそういう米国にとって代わることはないと確信する」と。

 また、私の存じ上げる元運輸省関東運輸局長・野崎敦夫さんは、在米中の思い出として、米国人のもつFair(フェア)という言葉の重みに関し、「在米中、現地の小学校に通い始めた息子が覚えた単語はFairで、子供相互の喧嘩でも、この単語が錦の御旗でした。子供の間でも、守るべき大事なイデオロギーみたいでした」と述べていた。

 また、戦前在日英国大使館に勤務し、戦後BBCの日本語部長を務めた知日派英国人の故トレバー・レゲット氏は、著書『紳士道と武士道』でイギリスのフェアプレーの精神について述べている。「基本的な原則の一つは、強くても弱くても、器用でも不器用でも、年長であれ年少であれ、いかなる者も公正な待遇を受ける権利があるということである。子供たちが遊んでいるのを見ていると、驚くほど頻繁にそんなことをするのはフェアじゃないよとか、フェアに順番を回さなければだめじゃないかと言うのが聞こえる。こうした言い方は、幼い頃両親にたたき込まれたスローガンである」、「ダウンしている者を打つな、という原則も広く確立されている。ダウンしている者を打つことはフェアプレーの原則に反する」等。

 英米人が尊重し、その道徳や正義感の根底にあるフェアネスの感覚は、英米人の美学ないし美意識ではないかと私は思う。「公正な」という意味のFairには「美しい」という意味もある。そして、「美しい」がFairのもとの意味で、それが16世紀末~17世紀初に現在の「公正な」という意味で使われるようになったという。つまり、「美しい」と感じることがフェア(公正)なのである。

 これは日本と同じである。日本人が是非善悪や正義を、論理的命題ではなく、美しいか汚いかで捉える顕著な傾向をもつことは、よく言われることである。日本に存在するこうした「美の道徳感覚」は日本だけのものではないと私は思っているが、Fairness(美、公正)尊重の英米に同じ感覚を見いだすのである。ただし、何を美しい(公正)と感じるかは、英米人と日本人とで微妙な違いがあるだろう。

 近代世界、現代世界をリードしてきたのは英米であることは、ほとんどの国の人が肯定するだろう。英語が世界共通語となっているのはその結果である。世界には多くの国があり、人に人柄があるように国にも国柄がある。私は英米の国柄に概して良いイメージをもっているが、その理由にフェアネスを尊重する国だとの私の認識がある。

令和4年7月1日

第103回 スターリンの北海道占領計画

 太平洋戦争に敗れた日本はアメリカ一国の占領下におかれ、ドイツのようにソ連との分割占領にならなかったことは、日本の特筆すべき僥倖であった。もしソ連の軍事侵攻が北海道にまでに及んでいたら、日本は分裂国家となっていた可能性が高い。ソ連(ロシア)は占領した日本の北方領土を決して返さないことからもわかるように、もし北海道が占領されていたら北海道は今ロシア領だろう。

 そして実際、ソ連は北海道占領計画をもっていた。ロシアに残されている公文書によると、スターリンは対日参戦(1945年8月8日)直前に、「サハリン(樺太)南部、クリル(千島)列島の解放だけでなく、北海道の北半分を占領せよ」と命じていた。日本は1945年8月14日の御前会議で太平洋戦争の終戦(敗戦)を決断し、同日ポツダム宣言の受諾を連合国に通告。8月15日終戦の詔勅を発し、全軍に対して戦闘の中止を命じた。連合国最高司令官マッカーサーも全米軍に対して攻撃中止を命じ、ソ連に対しても攻撃中止の要請をした。しかしソ連は攻撃をやめなかった。8月16日スターリンは米大統領トルーマンに文書を送り、「(1)日本軍がソ連軍に明け渡す区域に千島列島全土を含めること、(2)日本軍がソ連軍に明け渡す地域は北海道の北半分を含むこと。北海道の南北を2分する境界線は、東岸の釧路から西岸の留萌まで通る線とする」と要求した。トルーマンは8月18日、千島列島の領有は認めるが、北海道の占領は拒否すると回答した。そしてこの日、スターリンは千島列島への侵攻を開始し、北海道の実効支配を念頭に入れた樺太作戦の本格化に踏み切った。スターリンは、日本が降伏文書に署名する日(9月2日)までに日本の領土を交戦の結果として実力占領する既成事実をつくろうとしていた。

 ソ連軍は8月11日に南樺太占領作戦を開始。8月15日日本のポツダム宣言受諾が布告されて停戦交渉が進められたが、ソ連軍は侵攻(南下)し続けた。8月23日頃までに日本の主要部隊との停戦が成立し、8月25日南樺太の占領が完了した。スターリンは8月22日にトルーマンに返書を送り、北海道占領は断念する旨を伝えている。千島列島の占領は、8月18日最北端の占守島への侵攻を開始し、8月28日までに択捉島まで占領。国後島を9月2日に占領し、色丹島を9月1日、歯舞諸島を9月3日に占領した。

 スターリンはなぜ北海道占領を断念したのだろうか。それは何といってもトルーマン大統領がこれを拒否したからである。米国は原爆を開発して日本に投下し、圧倒的な力をソ連に見せつけ、戦後の日本支配に関し、アメリカの国益にならないソ連の要求など完全にはねつける力をもっていた。

 もう一つ。ソ連軍が千島・樺太における日本軍の強い抵抗に遭って時間をとられ、スターリンは北海道占領を断念せざるを得なくなったと考えられる。8月18日未明、ソ連軍は占守島に攻撃を開始したが、日本守備隊の頑強な抵抗を受けた。北千島の守備に任じる師団長の堤中将は大本営の指示に従って停戦の準備をしていたが、この攻撃に対して自衛戦が必要と判断し、反撃に出た。戦いは激戦となったが、日本の優勢のまま停戦した。千島、樺太、北海道の防衛を統括する第五方面軍司令官樋口季一郎中将は、堤師団長の自衛のための反撃を認めた。ソ連のやり方を熟知する樋口司令官は、終戦後もソ連の行動如何によっては、自衛戦が必要になると考えていた。占守島で示された日本軍の強い抵抗力は、ソ連軍の千島列島占領のスピードを鈍らせ、スターリンの北海道占領計画断念判断に影響したと考えられる。

令和4年6月15日

第102回 日本精神(リップンチェンシン)

 台湾で「日本精神(リップンチェンシン)」という言葉は、一般に「約束を守る、礼節を重んじる、嘘を言わない、勤倹である、清廉潔白である」といった概念の言葉として使われる。台湾は日本が日清戦争に勝った1895年から大東亜戦争に負けた1945年までの50年間、日本の統治下にあった。「日本精神」が現在なおこうした肯定的な意味で使われる台湾の社会から、戦前の日本と日本人が台湾でどのように評価されていたかが伺える。

 日本人は大東亜戦争に負けて自信を喪失したが、さらに東京裁判で戦争が道義的にも誤った侵略戦争だったと断罪され、戦前の日本と日本人を否定的に見るようになった。日本はアジアを侵略した悪い国だとの歴史観が戦後の教育界を支配し、現在に至っている。これは偏向した史観で、正さなければならないと私は思っているが(これが「読史随感」を書き始めた動機の一つ)、そのため台湾の人々による戦前の日本人評価は参考になる。

 1999年(平成11年)台南市で後藤新平・新渡戸稲造の業績を称える国際シンポジウムが開かれた。後藤新平は1898~1906年台湾総督府民政長官として、上下水道、道路、鉄道等のインフラ整備、衛生環境と医療の改善などの事業を進め、台湾近代化の基礎を築いた。新渡戸稲造は後藤に招かれて総督府技師として台湾に赴任、サトウキビの品種改良を行うなどをして、後に台湾の主力産業に発展する製糖産業の礎を敷いた人である。

 シンポジウムの冒頭、日本側代表が「日本による戦前の台湾統治で、日本は善いこともしたが、悪いこともしたであろう。そのことについて謝罪したい。我々はただお詫びするしかありません」と述べた。これに対し、シンポジウムの総合司会を務めた台湾の実業家・蔡焜燦氏(故人1927-2017)は、「日本が台湾に謝罪する必要はありません。それより隣の大きな国と戦っている台湾を声援してください」と言い、また同じく台湾の実業家・許文龍氏は、「戦前の日本の台湾統治に対し謝罪する必要などありません。戦後の日本政府は、深い絆を持ちながら世界で一番の親日国家である台湾を見捨てました。謝罪すべきはむしろ戦後の日本の外交姿勢です」と述べた。

 この意見の違いは、戦前の日本に対する評価の日台での相違を象徴するが、私は台湾の人の評価が正しく、戦後の日本人の認識の方が偏向していると思う。

 蔡焜燦は著書『台湾人と日本精神』で述べる。--台湾でいまだに「日本精神」が勤勉で正直、そして約束を守るというもろもろの善いことを表現する言葉として使われている。--台湾を近代化に導き、人々から尊敬を集めた警官や医師、そして教師たち。--かつての日本人は立派だった、と。

 1988年から2000年まで台湾(中華民国)総統を務め、台湾の民主化を進めた李登輝(1923-2020)は言う。--まことに残念なことに1945年以降の日本で、このような替え難い「日本精神」の特有な指導理念や道徳規範が全否定され、日本の過去はすべて間違っていたという自己否定へと暴走して行きました。こんな否定傾向がいまだに日本社会の根底部分に渦巻き、日本及び日本人としての誇りを奪い、自信を喪失させていることに心を痛めております、と。

 私は戦前の日本と日本人の歴史を否定的にみる史観は、史実を知らず、事実を見て是は是とし非は非とする良識から外れた史観だと思う。

令和4年6月1日

第101回 エネルギーが決定的に重要である

 国の安全保障にエネルギーが致命的な役割を果たすことは、過去の歴史より明らかであるが、ウクライナ戦争においてもネルギー問題が露出している。

 欧米諸国はロシアに経済制裁を課しているが、ドイツは米英ほどの強い対ロシア制裁を取れないでいる。ドイツがエネルギーを多くロシアに依存しているからである。欧州諸国はパイプラインでロシア産天然ガスを輸入しているが、ドイツのロシア依存率は高く、戦争前、国内天然ガス消費の55%をロシアから輸入していた。これが途絶えると、ドイツの国民生活と経済に壊滅的な影響が出る。

 ドイツは再生可能エネルギーの最大限の導入、2022年までに脱原発、2030年までに石炭火力のフェーズアウトというエネルギー政策を進めてきた。太陽光、風力発電といった出力不安定な変動性再エネのバックアップと、原子力・石炭の代替に期待されていたのが、ロシア産の天然ガスである。そのための切り札が、ロシアからドイツに直接ガスを供給するノルドストリーム1(2011年開通)と完成したばかりのノルドストリーム2であった。ノルドストリーム2が稼働すれば、ドイツのロシア天然ガスへの依存度は70%にも達するが、ドイツのショルツ政権はアメリカの圧力等もあって、ノルドストリーム2の承認を停止した。ドイツはウクライナ戦争勃発後エネルギー政策を見直し、天然ガスだけでなく石油のロシア依存度も減らしている。5月8日G7はロシア産石油の禁輸に踏み切ったが、段階的禁輸とはいえドイツにとって大きな痛みを伴う決定である。

 人類の歴史は戦争に満ちているが、エネルギーがしばしば戦争の原因となってきた。日本が太平洋戦争に突入したのも、石油に追いつめられての決断だった。日本と敵対するアメリカは、1941年日本向けの石油輸出を全面的に禁止した。石油の90%以上をアメリカからの輸入に頼っていた日本は追いつめられて窮鼠となり、対米戦争を決断した。そして戦争は石油資源を求めて南進する戦争となった。 

 エネルギーは人の生存の基礎である。エネルギーがなければ人間の生活は成り立たない。エネルギーがなければ市民生活も経済活動も止まってしまい、生存が脅かされる。エネルギーが安定的に、低廉な価格で供給されることは、国民にとって決定的に重要なことである。こうしたエネルギー安全保障は国民の生存に直結するため、国の安全保障に直結する。

 私は今の日本のエネルギー政策を、安定・低廉供給という本来の政策方向に軌道修正する必要があると考えている。まず、原発の運転再開をどんどん進めるべきである。2011年の大震災前、日本には原発54基が存在し、電力需要の3割弱を供給していたが、現在10基が稼働し、電力需要の6%を供給しているに過ぎない。日本の原発の安全性は震災後十分向上しているが、原子力規制委員会が慎重に過ぎ、運転再開が進まない。運転できる多くの原発が止まっているために、日本経済の衰退が止まらない。新規原発の建設を含め、すぐれたエネルギーである原子力の活用が、国民生活を豊かにし、安全保障をもたらすエネルギー政策である。

 次に、無理な地球温暖化対策の修正である。日本は2030年までにCO2 を46%削減するエネルギー基本計画を決めたが、この削減計画には無理がある。この計画は電気料金の高騰をもたらし(すでに相当高騰しているが)、安定供給を損なう可能性が高い。日本経済を弱め、国民生活を貧困化させるだろう。地球温暖化対策といえども、現実的で技術的に可能な、国民生活を守るエネルギー政策でなければならない。

令和4年5月15日

第100回 信念の政治家マーガレット・サッチャー

 世界に先駆けて産業革命を興し、19世紀、世界に冠絶した国力と経済力を誇ったイギリスは、20世紀に入るとドイツやアメリカから追い上げられ、二つの世界大戦には勝ったものの、1970年代には世界から「英国病」といわれるほど衰退が顕著となった。1979年から11年間首相を務めたサッチャーは、国の長期衰退に歯止めをかけ、イギリス経済を復活させた。

 サッチャーはイギリス経済の衰退の原因が、イギリスの社会主義政策にあると喝破した。「ゆりかごから墓場まで」をうたった手厚い福祉政策、歳出の肥大化、国有化された主要産業、全国炭鉱労働組合などの強すぎる労働組合、行きすぎた累進税率による高い所得税。こうした社会主義政策が国民の勤労意欲を減退させ、国に依存する体質を増長させ、民間の企業活力を削いでいる。サッチャーは政府を肥大化させる高福祉を抑制し、国有企業の民営化を進め、規制緩和を行い、民間企業が自由に活動できる場を増やし、経済の活性化を目指した。それは「小さな政府」を指向する「新自由主義」政策であった。

 サッチャーは社会主義そのものを悪とみなした。共産主義や社会主義による運営の失敗を見て、今なお、「主義は間違っていなかったが、やりかたがまずかった」という者が日本にもいるが、サッチャーはそのような考えを否定し、確信をもって社会主義そのものが誤謬であるとした。サッチャーは言う。社会主義の運営は必ず膨大な官僚機構となる。官僚機構は一握りの人間の命令に従って動き、国民の大多数に選択の自由などの自由権のない、倫理に背いた制度である。自由主義経済の方に倫理的基盤がある。さらにサッチャーは、社会主義を支える情念に嫉妬があることを看破し、人間の劣情の嫉妬を根底にもつような社会主義に倫理的基盤はない、と言いきった。

 サッチャーの倫理面からの社会主義批判は画期的なことだった。その頃イギリス社会はなお社会主義を掲げる労働党に、理想と「知的、倫理的」な優越性があると考える人が多かった。サッチャーはこれを否定し、保守党の自由主義に倫理的優位性があると明言したのである。

 サッチャーが信念をもって主張し、実行した政策理念は決してイギリスで革新的なものではない。それはイギリスの最も良き伝統的倫理であった。宗教的に敬虔であり、勤倹力行、自助努力、正直、律儀をモットーとして生きる、百数十年も前にスマイルズが著わした『セルフヘルプ(自助論)』に登場する多くの人物の体現していた倫理に他ならない。

 サッチャーの改革でもう一つ見逃せないものに、教育改革における「自虐的偏向史観」の是正がある。当時、学校でイギリス帝国主義を非難する歴史教育が行われていた。サッチャーはこれも英国病であると見て、イギリスの歴史における光をきちんと学習することを含め、自虐的偏向教育を改めた結果、イギリスで自国を誇りに思う人が増えた。

 現在、日本経済は平成以降長期にわたって衰退し、世界で「日本病」という言葉も聞かれる。日本は「英国病」を克服したサッチャーになお学ぶものがあると私は思う。特に、自虐史観を改め、自国の歴史に誇りを取り戻したこと、そして改革の理念を外の思想に頼らず、自国の歴史と伝統に立脚したことなどを学ぶことができる。日本もイギリスに負けない改革の叡智を生むすぐれた歴史的伝統をもつと信じる。

令和4年5月1日

第99回 「悪の帝国ソ連」-レーガン

 ロシアがウクライナに侵攻して、世界から激しく非難されている。プーチンがこの極端な行動を取るに至った理由の一つに、超大国ロシアの復活意識がある。プーチンは以前、ソ連の崩壊を悔やむ発言をしており、彼にはソ連時代を含むロシア超大国時代へのノスタルジアがある。

 しかし、1917年革命によって成立し1991年まで存続したソ連という共産主義国は、20世紀、世界に大きな厄災をもたらした国家だったと私は思う。1983年アメリカ大統領レーガンがソ連を「悪の帝国」と呼んだ。当時日本には、こうした発言を批判する知識人もいたが、レーガンが正しかったのである。

 ベルリンの壁が崩壊した1989年以降、自由と独立を取り戻した中東欧諸国は、ソ連と共産党による戦争犯罪と人権弾圧を追及し始め、その動きは欧州全体に広がりつつある(注)。2019年EUの欧州議会が、「欧州の未来に向けた重要な記憶」と題する決議を可決した。《--80年前共産主義のソ連とナチス・ドイツが秘密協定を結び、欧州独立諸国の領土を分割して彼らの権益内に組み込み、第二次世界大戦勃発の道を開いた。--1939年ポーランドはヒトラーとスターリンに侵略されて独立を奪われた。ソ連は1939年フィンランドに対して侵略戦争を開始し、1940年にはルーマニアの一部を占領・併合して一切返還せず、さらにリトアニア、ラトビア、エストニアを侵略し、併合した。第二次世界大戦後、中東欧諸国はソ連の直接の影響下におかれ、独裁体制のもとで自由、独立、尊厳、人権および社会経済的発展を半世紀の間、奪われた。---ナチスの犯罪はニュルンベルグ裁判で審査され罰せられたものの、ソ連スターリニズムや他の独裁体制の犯罪への認識を深め、教訓的評価を行い、法的調査を行う喫緊の必要性が依然としてある》と。

 ソ連が第二次世界大戦中およびその後に行った犯罪行為は数多いが、その一つに「カチンの森事件」がある。ソ連は1939年ポーランドを侵略。約1万5千人のポーランド人将校を捕虜にしたが、その大多数を虐殺した。1943年進駐したドイツが、カチンの森で、ソ連が虐殺したポーランド人将校とみられる4千5百体の射殺死体を発見した。ソ連はドイツの犯行だと主張し、自国の犯行と認めなかった。1990年になってゴルバチョフ書記長がソ連の非を認め、ポーランドに謝罪した。1992年、ポーランド人2万人以上の虐殺を命ずるスターリン署名の文書が公表された。

 ソ連はナチス・ドイツよりもっと悪質な侵略国家であり、第二次世界大戦の勝者として米英と共に正義の側に立つ資格など全くなかった。米英と同盟して共通の敵ナチス・ドイツと戦い、勝者となったため、ソ連の欧州における侵略はすべて不問にされた。

 ソ連の侵略と大戦後の中東欧諸国のソ連による支配を認めたのが、1945年のルーズベルト、チャーチル、スターリンによる「ヤルタ会談」である。以後、中東欧諸国は半世紀にわたって共産主義の支配に苦しむことになった。今、中東欧諸国はスターリンの戦争責任だけでなく、ソ連による支配を認めたアメリカ・ルーズベルト政権の責任も追及している。2005年アメリカ大統領ブッシュはラトビアで、ルーズベルト大統領が1945年に結んだ「ヤルタ合意」を史上最大の過ちの一つと認めた。

 ソ連を正義とみなす第二次大戦の戦勝国史観は、世界の大半ですでに破綻している。

(注)江崎道朗著『日本人が知らない近現代史の虚妄』SB新書より

令和4年4月15日

第98回 ファシズム国家中国

 2015年9月中国が北京で開催した「抗日戦争勝利70周年記念式典」で習近平は次のように述べた。「---70年前の今日、中国人民は14年の長きに及ぶ非常に困難な闘争を経て、中国人民抗日戦争の偉大な勝利を収めたことで、世界反ファシズム戦争の完全な勝利を宣言し、平和の光が再び大地をあまねく照らしました。--中国人民抗日戦争と世界反ファシズム戦争は正義と邪悪、光と闇、進歩と反動の大決戦でした。--あの戦争において、中華人民は大きな民族的犠牲によって世界反ファシズム戦争のアジアの主戦場を支え、世界反ファシズム戦争に重大な貢献を果たしました。---中華民族は一貫して平和を愛してきました。発展がどこまで至ろうとも、中国は永遠に覇権を唱えません。永遠に領土を拡張しようとはしません。」

 習近平のこの談話に歴史的真実はほとんどないと言ってよい。あるのは、中国史によく見られる、目的に合わせた事実の捏造と誇大化、歪曲、そしてプロパガンダである。「中国は永遠に覇権を唱えない」などには、苦笑してしまう。

 第二次世界大戦は連合国(米、英、ソ、中)と枢軸国(日、独、伊)との戦争であるが、枢軸国がファシズムとみなされたので、大戦は反ファシズム戦争だったという歴史観が存在する。習近平はこの歴史観を極限まで誇大化する。しかし、日中戦争で日本と戦ったのは、蒋介石の中華民国であり、現在の中国ではなかった。そして蒋介石には、日中戦争が世界反ファシズム戦争のアジア主戦場などという意識は全くなかった。1941年日本が真珠湾を攻撃して日米間の太平洋戦争が始まり、日中戦争は世界大戦の一部のようになった。しかし、通常「反ファシズム戦争」といえば、ヨーロッパ戦線における対ナチスドイツ戦争を意味する。ヨーロッパ戦線で中国人民が戦うことはなかったし、中国とも中国共産党とも何の関係もない。

 日本がファシズム国家と見なされるようになった最大の理由は、日独伊三国同盟にある。イタリアは最初にファシズム政権ができた国であるし、ナチスドイツはファシズム国家の典型とされる。日本を天皇制ファシズムだったとするのが戦後の史学会の主流のようであるが、これを否定する歴史家も多い。

 そもそもファシズムとは何か。広辞苑によると、「①狭義では、イタリアのファシスト党の運動並びに同党が権力を握っていた時期の政治的理念及びその体制。②広義では、イタリア・ファシズムと共通の本質をもつ傾向・運動・支配体制。第一次大戦後、世界の資本主義体制が危機に陥ってから、多くの資本主義国に出現。全体主義的あるいは権威主義的で、議会政治の否認、一党独裁、市民的・政治的自由の極度の抑圧、対外的には侵略戦争をとることを特色とし、合理的な思想体系を持たず、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を宣伝する」とある。

 この定義を読むと、実に習近平の中国がこれにぴったり当てはまることがわかる。習近平は中国が70年前世界反ファシズム戦争を戦ったと言うが、実は現代中国が21世紀に遅れて来たファシズムの大国である。

 こうした中国が日本に「歴史を鏡とせよ」、「歴史を改竄するいかなる企てにも断固として反対する」などと叫ぶ。笑止であるが、日本はこうした中国の歴史宣伝戦略に、正しい、事実本位の歴史観をもって臨む必要がある。

令和4年4月1日

第97回 ロシアの被害者意識について

 ロシアがウクライナを一方的に軍事攻撃し、世界から強く非難されている。ロシアの強引な軍事力行使に正当性はあるのか。何がロシアをここまでの行動に駆り立てるのか。独裁者が晩年よく陥る痴呆化現象がプーチンにも起きているのではないか、と疑いたくなるほど今回のロシアの行動は異常に感じられる。

 「ロシア(当時はソ連)は大国だが、ロシアには歴史的に弱者意識がある」と、私の知る外交官(故人)がかつて語っていたのを思い出す。ロシアは弱者意識の強い、実は怯える大国であり、ウクライナというロシアの兄弟のようなスラブ人の国がNATO加盟を望み、加盟手続きを進めようとするなど、ロシアにとって恐怖以外の何物でもない。これを認めると自国の存立があぶなくなるゆえ、武力を行使してでも阻止する行動に出たのであろう。

 弱者意識とともに、ロシアが西欧諸国に対して強い被害者意識をもつ国であることは、よく言われることである。ロシアには強大な西欧諸国に常に圧迫されてきたとの歴史意識がある。ロシアは何度も西側から攻め込まれた。19世紀にはフランスナポレオンの大軍がロシアに攻め入り、モスクワを占領。ロシアは奥地に逃げ、モスクワを焦土としてナポレオン軍を追い払うことができた。第一次世界大戦ではドイツがロシアに侵攻。主力のロシア軍はドイツ軍に壊滅させられた。そしてロシア革命が起き、帝政ロシアは滅んだ。第二次世界大戦では、ナチスドイツの大軍が独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻。ソ連は独ソ戦を戦い抜き、3千万人という膨大な犠牲者を出してかろうじて大戦の勝者となることができた。

 1985年ゴルバチョフがソ連の最高指導者となり、ペレストロイカ(改革)を進めた。東欧諸国に民主革命が起き、社会主義国は次々に消滅。東ドイツは西ドイツに吸収され、統一ドイツとなった。そして1991年ついにソ連も崩壊してしまった。共産主義イデオロギーを捨てたロシアで、「人類普遍の価値」、「民主主義」などが強調されたが、これらの価値で国民を統合することはできなかった。出現したのは、「屈辱の1990年代」ともいうべき混乱と無秩序、無政府状態、経済凋落、そして民主主義へのアレルギーだった。

 この時期のロシアの苦しみも、欧米のせいだとの被害者意識がロシアには存在している。東欧の民主革命、ソ連の崩壊を西側諸国の陰謀と見る見方さえある。ソ連が崩壊したとき、NATOとワルシャワ条約機構は同時解消するはずだったが、NATOだけ存続し、旧東欧諸国とバルト3国まで拡大している。プーチンはNATOに騙されたと思っている。

 被害者意識は人の深層意識に沈潜し、しばしば非理性的行動の温床となる。それは過剰な自己防衛や加害者意識なき加害者となって現れる。

 世界のもう一つの大国中国には、アヘン戦争以来150年、世界(特に欧米と日本)から屈辱を受けたとの意識がある。それは中国が弱かったせいであり、今中国は強くなったので、150年の屈辱をそそぎ、中華民族が世界にそびえ立つ本来あるべき世界秩序に変えるというビジョンを習近平はもっている。中国の屈辱意識とロシアの被害者意識は同じではないが、共通する面がある。

 ウクライナに対するロシアの軍事力行使に対し、非難するだけで軍事力を行使できない欧米諸国をみて、中国はどう考えるか。台湾と尖閣への軍事侵攻を決断するか。

 日本はよほどしっかりしなければならないと思う。

令和4年3月15日

第96回 外国の制度を学ぶ姿勢に関して

 日本は明治以来、西欧文明を進んだ文明として学び、日本の社会、文化、制度を発展させて現代に至っている。令和の現代、なお欧米に学ぶ姿勢は生きている。平成における日本の改革も、欧米流を学び日本に導入したものが多くある。しかし、それが本当に良かったのか、疑問に思うものも多い。いくつか例を挙げる。

 平成21年(2009)より、国民が裁判に参加する裁判員制度が始まった。この制度も英米の陪審員制度、独仏伊の参審制度といった先進国の裁判制度を見習い、同様の制度を日本に導入したものである。裁判員の参加によって裁判官、検察官、弁護人とも、国民にわかりやすく、迅速な裁判をするようになることを目的としているという。しかしそんな目的は、従来の制度の運用改善で十分達成できることと思われる。裁判に対する信頼は日本では十分確立しており、あえて制度を変える必要などなかったのではないか。裁判員に指名されると国民は原則拒否できず、一定期間裁判所に駆り出される。国家による国民の徴用ではなかろうか。国民は、こうした公共の役務に従事する専門の国家公務員を養い、そのための税金を払っているのである。

 1980年代アメリカで新自由主義経済を標榜するレーガノミクスより、株主利益を最優先する企業経営思想が成立した。ノーベル経済学賞のフリードマンの「企業経営者の使命は株主利益の最大化」を理論的根拠とし、アメリカの主流の経営思想となった。先進国アメリカの経営思想は日本にも大きな影響を及ぼした。しかし、日本経済は、株主利益最優先経営思想が広がり始めた1990年代以降ほとんど成長せず、現在に至っている。株主利益最優先の経営が日本経済を興隆させたという評価は、現在まで得られていない。むしろ逆に、従業員の賃金が減少した、経営が短期視野となり、イノベーション投資が行われず、長期的な日本経済の凋落を招いたといったマイナスの評価になっているのではなかろうか。

 最近になって(2019年)、アメリカの代表的企業経営者団体が、株主最優先経営を見直し、従業員、地域コミュニティなど、すべてのステークホルダーに価値をおく経営への転換を表明した。一方日本には、株主最優先といった経営思想はもともとなかった。信用を重んじる、「三方(売り手、買い手、世間)良し」の精神、お客様本位、従業員重視、自らを利するとともに社会・国家を利する、といった経営思想であった。日本の経営思想の方が先進的であったと私は思う。

 企業の社会的責任(CSR)の思想も、欧米で1990年代後半頃から強く唱えられるようになり、日本にも導入された。しかし実際、企業の社会的責任や社会貢献は古くから日本企業の経営に存在している。従って、日本企業がCSRに取り組むとき、欧米に学ぶ視点よりも、日本の伝統からCSRを明確にするといった姿勢が重要だと思う。

 また最近は、企業の実力者がCEOを退任したとき、後継者としてよく欧米人を招いたりするが、最高責任者を外国人に安易に頼る姿勢はいかがなものか。長期的には日本企業の力と、日本の国力の減退をもたらすように思われる。

 最後に皇室について。日本のマスコミが、欧州の王室を見て日本の皇室を論じ、例えば、皇室は欧州の王室のようにもっとオープンにすべきだなどと軽薄なことを言う。日本の皇室は、欧州の王室などとは比べものにならない長い歴史と伝統をもった存在である。その在り方は、日本の伝統に沿い自信をもって独自に決めるべきものである。                 令和4年3月1日

第95回 日本の武の思想の変遷

 大東亜戦争に敗北した日本は1945年、平和国家として出発し、現在に至っている。この間日本から「尚武」の思想が消えて久しい。しかし歴史を顧みると、16世紀頃から戦前まで日本は「武国」との自意識があったと、佐伯真一氏は著書『「武国」日本』で述べている。以下、同著を参考として、歴史に現れた武の思想を概観してみよう。

 中世の日本人が「武」をどう考えていたか、『平家物語』などの軍記物語から伺い知ることができるが、時代の新しい軍記物ほど「武」を肯定的に記述している。初期の軍記物である平安中期の『将門記』は、力強く戦う将門に対して否定的であり、戦災に苦しむ人々の記述が多い。

 13世紀前半に成立した『平家物語』になると、多様な視点が共存し、武に対する否定的な記述も見えるが、全体としては戦う武士たちの姿と心が肯定的に描かれている。また同じ頃成立した『平治物語』では、国家にとって文武が重要であるが、末代には世が乱れるために「武」が重要になる、との認識を示している。そして14世紀後半に成立した『太平記』になると、知謀を駆使する良将など武士の存在が一段と全面に出、乱世を治める政道を摸索している姿勢が覗える。

 近世になって、「天下布武」を標榜し武力による統一をほぼ成し遂げた織田信長、および信長を継承した豊臣秀吉は、実力をもって中世国家を解体し、新たな支配体制をつくりだした自信に支えられて、これを可能にした「武」を否定的に見ることは全くなかった。秀吉は日本を「弓箭厳しき国(=武力にすぐれた国)」と言い、日本を「武国」として誇る自意識があった。

 江戸時代、日本が武国であるとの自国観は一般化し、定着した。この認識は日本人だけのものではなく、朝鮮通信使との交流記録から、朝鮮人が自国を「文の国」、日本を「武の国」と認識していたことがわかる。この認識は現代の韓国にまだ生きている気がする。

 幕末、強力な西洋列強、特にロシアから侵略される危機感をもった水戸藩の儒者会沢正志斎は言う。日本が武をもって国を建て、武威を振るってきた由来は古い。武士が所領から切り離されて城下町に住む時代へと変化して、日本の武は衰えた。すべての民が天命(すなわち天皇の勅命)を奉じて戦った武国の黄金時代を現代に蘇らせなければならない、と。 

 会沢正志斎の理想は、明治国家の建設によって達成されたと言えるだろう。明治維新は、西洋列強並の強い武力(=軍事力)をもった近代国家を建設する、渾身の体制変革だった。建設された大日本帝国は、「富国強兵」を標榜した。昭和になると大日本帝国は軍国主義化した。軍部の力は強く、軍部が国政を左右した。統帥権の独立などという極端な軍事重視の思想が成立し、これが大日本帝国を滅ぼすことになった。

 戦後、軍事で失敗した戦前の経験がトラウマとなって、軍事力に関する本格的な考察は避けられるようになった。歴史を振り返ると、国が乱れ武士が勃興して武家政権が確立する時代と、外国の脅威に直面して国の独立が脅かされた時代に、当然のことながら、武力・軍事力が重んじられ、これに関する考察も深められることがわかる。

 増大する外国からの脅威に直面する令和の日本は、過去の成功と失敗を糧としつつ、どのような武力・軍事力の思想を生み出すだろうか。

令和4年2月15日

第94回 偉大な思想家松下幸之助

 昭和の代表的な経済人である松下幸之助を偉大な思想家として認め、思想史上の人物としてその思想を研究する日本人は、アカデミックな世界にはあまりいないようである。

 1962年(昭和37)、松下幸之助はアメリカの雑誌『ライフ』の表紙を飾り、本文に特集された。こうした『ライフ』のカバーストーリーに登場するのは、世界の名士中の名士と評価される人たちである。ここで松下は、1.最高の産業人、2.最高の所得者、3.最高の思想家、4.最大級の雑誌の発行者、5.最大のベストセラー著者の一人と紹介されている。

 『ライフ』が、最高の産業人であると同時に最高の思想家と評する松下の思想は、『人間を考える』を始めとする多くの著書や講演から知ることができる。

 松下の思想は、宇宙を生成発展とみること、すなお、人間尊重、すべてを容認すること、衆知を集めることといった考えに特色がある。

 松下は、宇宙に存在するいっさいのものは、絶えず生成し、発展しており、これが宇宙の本質で、自然の理法であると言う。仏教で諸行無常という宇宙万物の変化する姿を、松下は生成発展とみる。自然は生成発展の理法で動いているのだから、ものごとはこの理法に則っているならば、必ず成功するようになっている。成功しないのは、何かにこだわったりして、すなおに自然の理法に従うようなことをしないからだ、と松下は言う。松下の言うすなおとは、人の言うことを何でもハイハイと聞くようなことではなく、生成発展する自然の理法に対してすなおであるということである。

 松下の思想で特筆すべきは、人間観である。松下は、人間は崇高にして偉大な存在であり、人間には宇宙の動きに順応しつつ万物を支配する力が本性として与えられているから、その天命を自覚し、生成発展の大業を営まなければならないと言う。

 松下の思想には徹底した人間尊重があった。松下は「尊厳」という言葉は使っていないが、私は松下の人間観に「人間の尊厳」を感じる。松下は部下を厳しく叱ったが、部下の人間性(人格)を否定するような叱り方は決してしなかった。部下を自分と同等(以上)の偉大な存在と見て叱った。それを感じる部下は、松下に強く叱責されてむしろ感謝した。

 こうした人間観に基づいて松下は人間道を提唱しているが、その根本は、まずすべてをあるがままに容認することにある。人間万物一切が天与の使命なり、特質、意義をもって存在しているのであるから、人間同士なり、天地自然の一切のものを否定したり排除したりせず、ありのままに認め、天与の違いは長短相補いつつ、特質を生かし合っていくのが人間の道だという。

 そして松下は、人間の偉大な本質を発揮していく上で、衆知を集めることの重要性を強調する。衆知が融合して叡智となり、人間の偉大さを発揮させる最大の力となる。この衆知とは、過去、現在を通じたすべての人間の知恵と言うことになる。

 松下幸之助はまさに衆知を集めて経営した人だった。そして判断を誤ることがなく、経営の神様と言われた。松下の思想は深い実践知であり、その点、二宮尊徳と同じである。松下幸之助は、令和の日本人がなお学ぶべきものをもった偉大な先人だと思う。私はこの歳になって、松下の思想に深く気づかされたことがあった。

令和4年2月1日

第93回 日本の直面する課題

 新年になって、日本が直面している最重要課題は何であるか、改めて考えた。日本は民主主義の国であるから、政治指導者でもない一国民である自分がこうしたことを考え、発言するのは無意味でないと信じたい。

 現代の日本の最大の問題は国の安全保障だと思う。日本は国の独立不羈が脅かされている状態にある。中国が強大化し、覇権国家化し、日本を脅かしている。日本の沖縄県の尖閣諸島を中国の領土だと主張し、主権と海洋権益を断固守る、と言う。尖閣を軍事力で日本から奪う作戦を公然と論じている。中国海警局艦隊の尖閣海域への侵入回数を年々増やし、日本漁船の活動をできなくしている。こうした実績を重ねて、尖閣諸島の実効支配が中国にあると宣言し、武力行使の正当性を国際的にアピールするのではないか。

 習近平の中国は欧米流民主主義を完全に否定した。中国共産党による独裁的支配を「中国の特色ある社会主義」と言い、これを最上とする。すべて共産党が国家と国民を指導する。国民に政治的な自由はない。こうした中国が驚異的に経済成長し、軍事力を強大化して、世界秩序を変えようとしている。

 日本を含む西側諸国と中国との対立は、価値観の対立である。自由、民主主義、法の支配、人権といった価値観を中国は持たない。日本は立派な自由、民主主義、法の支配する国である。独立した主権国家として、決して中国の属国のようになってはならない。そのために、日本の安全保障体制を強化する。憲法を改正し、自衛隊を国軍とし、必要な軍事力の増強を行う。日米同盟を強力に維持するが、その前提として国民一人ひとりが、国の独立は自分たちで守るという当たり前の自覚が必要である。

 安全保障と同じくらい大きな日本の直面する問題は、日本の長期にわたる、経済と国力の衰退である。平成以降30年、日本は全く経済成長していない。他の先進国は年2~3%といった普通の成長をしているが、日本だけが成長を停止した国になってしまった。世界の先進国の人々の実質賃金は、それぞれの国1997年の賃金指数を100とすると、2018年にはアメリカは115.3に増加、イギリスは126.8に増加、ドイツ118.8、フランス127.7、スウェーデン138.9と順調に増加しているが、日本人の実質賃金だけが2018年90.1と減少している。これは日本が経済成長していないことから帰結する端的な数値である。

 日本だけが貧困化しているのである。そして、貧困化に歯止めがかかっていない。かつての一流の経済強国としての国際社会における存在感は、今の日本にはない。経済力の凋落が、世界における日本の地位を低下させている。

 日本はなぜ経済成長しない国になったのか。原因は総合的なものだろう。よく働くこと、経営が良いこと、イノベーション力があること、技術革新に遅れないこと、国の諸制度が良く、不効率を招く不合理な規制がないこと、その結果生産性が高いこと、若者が力をもっていること、資源とエネルギーに不足していないこと、世界的な競争に負けないこと。こういったことの集積が経済力となって現れてくる。

 経済大国を達成した昭和時代の代表的な経済人である松下幸之助氏の経営哲学、そしてご存命の稲盛和夫氏のすばらしい経営哲学は、なお現代の苦境を打開する力をもっていると私は思う。

令和4年1月15日

第92回 「南京大虐殺」の真実ー東京裁判

 戦後の東京裁判で「南京大虐殺」が確定した。判決文は述べる。「---日本兵は市内に群がって、様々な残虐行為を犯した。---これらの無差別な殺人によって、日本側が市を占領した最初の2、3日の間に、少なくとも1万2千人の非戦闘員である中国人男女、子供が死亡した。---後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上であったことが示されている。この見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその団体が埋葬した死体数が15万5千に及んだ事実によって証明されている。---日本軍人による強姦、放火、および殺人は、南京陥落後6週間引き続き大規模に行われた」

 この判決は、全面的に検察側証言と資料に依存している。南京大学教授ベイツは証言台に立ち、「観察の結果、城内で1万2千人の男女および子供を含む非戦闘員が殺されたのを結論とする」と述べた。ベイツは1938年時点で「南京陥落後、4万人の中国人が殺された。そのうち30%(つまり1万2千人)は兵士ではなかった」とティンパーリへの書簡で述べていた。しかし、30%が一般市民だったという主張には何の根拠もなく、伝聞によるベイツの推測に過ぎなかった。

 20万人以上の殺害は、判決に述べるように、埋葬した死体数が合計15万5千体に及んだことを根拠としている。この数は、紅卍会による埋葬数4万件と、崇善堂による11万体を超えるという埋葬数との合計であるが、崇善堂の埋葬数は実際は1万体にも満たず、11万体は虚偽報告であることが現在明らかになっている。従って、判決の20万以上の殺害に根拠はない。

 また、当時の南京市の情況を記録した資料から、6週間にわたり20万人を超える虐殺が進行しているような実態は覗えない。安全地区国際委員会から日本大使館へ、38年1月中旬に帰宅した難民への日本兵による強姦事件が報告されているが、大虐殺の進行を彷彿させる報告はない。南京攻略戦を戦った中澤三夫は証言する。「---住民は日本軍を信頼して、市外の避難地にいた者も自分たちの住居に復帰していた。37年末には治安維持会が結成され、翌年1月1日の発足式には数万の市民が式場に集合して歓喜したほどだった。その後住民は漸増し、物売りの数も増えつつあった」

 いわゆる「南京大虐殺」が、20万以上の計画的な市民虐殺を意味する場合、そのような大虐殺は無かったと結論できる。しかし、軍紀を乱した日本兵が市内を徘徊し、強姦、掠奪を行い、散発的な市民殺害もあったことは否定できないと私は思う。検察側に提出された中国人と欧米人による日本兵の行動告発は、多くは伝聞、流言によるもので、誇大に脚色されたものが多いが、真実も存在すると考える。

 また東京裁判の判決は、南京陥落後日本軍の掃蕩作戦で摘発した便衣兵(軍服を脱いで潜む中国兵)の処刑を市民に対する殺戮と見なすだけでなく、南京戦の戦闘中日本軍が行った不穏な中国兵捕虜の処刑も不法な虐殺と見なしている。東京裁判のこの考え方に立つ限り、20万以上の大虐殺は荒唐無稽としても、南京で大量の虐殺はあったということになる。

 東京裁判は戦勝国が敗戦国を一方的に裁くという、著しく公平性を欠く裁判だった。裁判官はすべて戦勝国から選出され、しかも事後法による裁判で、そこに法的な正義はほとんどなかったと私は考えている。

令和4年1月1日

第91回 「南京大虐殺」の真実

 1937年日本軍は日中戦争の上海戦で敗走する中国軍を追撃し、12月首都南京を陥落させた。このとき、日本軍が南京市民を大量虐殺したとされる、いわゆる「南京大虐殺」が、近年では史実のように定着した感がある。欧米の百科事典にも史実として記述され、中国は南京大虐殺キャンペーンを国内外で展開し、ユネスコの世界記憶遺産にも登録された。日本人も「南京大虐殺」を事実と信じる人が多数となった。 

 しかし私は、南京虐殺に関する書物を読み、史実を研究してきたが、いわゆる「南京大虐殺」は歴史的事実ではないとの確信をもつに至った。

 日本軍による南京攻略戦の最中、南京市民のほぼ全員が市内(城内)の安全地帯に避難していたが、城門陥落後、城内に入った日本軍が安全地帯にいる市民を攻撃することはなかった。大量の中国兵が軍服を脱ぎ捨てて安全地帯に潜伏したため、12月14日より日本軍はこれを摘発する(兵を民から分離する)城内掃蕩作戦を実施した。その結果安全地帯で起きたことを知るには、南京安全地帯国際委員会が日本大使館に抗議する意図で提出した『南京安全地帯の記録』が参考になる。この記録によると、1937年12月13日から1938年2月7日まで、殺人事件は25件あり、そのうち目撃された事件はわずか2件で、その他はすべて伝聞だった。市民の大量虐殺など起きていないことがわかる。

 また、日本軍が南京に接近したとき多くの南京市民が逃げ出したが、20万人が残留し、日本軍の南京城攻略開始から城内掃蕩期間終了を含む11月下旬より12月21日まで、20万の人口数は変わらなかったことが公的文書からわかっている。そして翌年1月14日の公的文書には、25万人まで人口が増加したと記録されている。これからも大量の市民殺戮などなかったことがわかる。

 ではなぜ、4万人とか30万人の大虐殺説が生まれたのか。それは日本軍が行った城内掃蕩戦に発生する。掃蕩戦は安全地帯に潜伏する中国兵を摘発し、投降兵を収容し、不穏な兵士を処刑し、隠匿された武器を押収する。日本軍は掃蕩戦を行い、6千5百名の中国兵を処刑した。この処刑が欧米人の批判の的となった。ある欧米人は軍服を脱いで安全地帯に逃げ込んだ中国兵を元兵士(=市民)と見なした。また、あるアメリカ人記者は中国人兵士が処刑されたと書かずに、意図的に、中国人が残虐に処刑されたと書いた。また、南京の有力な欧米人は国民政府の中央宣伝部と深くつながっており、日本軍の残虐行為を誇大に宣伝した。こうして軍服を脱いで安全地帯に潜む中国兵の大量処分が、市民の大虐殺のように宣伝された。

 しかし当然のことながら、軍服を脱いだ中国兵の摘発、処刑は戦時国際法違反ではなかった。南京では中国軍の組織的な降伏はなく、中国兵の多くが安全地帯に潜伏し、抵抗を継続していた。武器を持って潜伏した中国兵は摘発された後もなお武器を隠し持つ者もあり、いつまた反撃してくるかわからない。油断のできない戦闘状態にあった。

 国民政府の公式資料、公式記録で南京大虐殺説は否定されていた。南京安全地帯国際委員会も、日本軍の行った中国兵処刑を戦時国際法違反と見なしていなかったのである。

 南京大虐殺説が成立したのは、戦後の南京での国民政府戦犯軍事法廷と、東京での極東軍事裁判においてであった。

令和3年12月15日

第90回 最悪の日中戦争(続)

 日中戦争は日米戦争に行き着き、敗者となった日本がすべて悪かったという歴史観が戦後を支配してきたが、事実はそう単純ではない。少なくとも、あの頃の中国の日本人に対するテロ行為がいかにひどいものだったかという事実を、我々はよく知っておく必要がある。

 盧溝橋事件(1937)の前から、中国各地で対日テロが頻発していた。1935年(11月)上海で日本水兵が射殺された。1936年には上海で散歩していた三菱商事社員が頭を撃たれて即死(7月)、四川省成都で新聞記者らが大勢の暴漢に棍棒で襲われて死者2名、重傷者2名を出す事件が起きた(8月)。9月には、広東省北海で薬局経営者が自宅乱入の抗日団体によって殺害され、漢口で日本領事官巡査が後ろから射殺され、上海では歩行中の日本水兵4名が狙撃されて1名が即死、2名が重傷を負った。

 日本人に対する暴力沙汰は日常化し、死者も出ていたが、極めつきは、1937年7月に起きた通州事件である。中国保安隊3千人が北京東方の通州に住む日本人居留民と日本軍守備隊を襲い、婦女子や幼児を含む235人を惨殺した。中国兵による想像を絶する残忍な日本人殺害だった。目撃者の供述書は記す。「東門を出ると居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では一家悉く首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。他の飲食店では7、8名の女性が全部裸にされ、強姦刺殺され、陰部に箒を押し込まれたり、腹部を縦に断ち割られたりして見るに堪えなかった。近くの池では首を電線で縛り、両手を合わせてそれに八番線を通し、一家6名を数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでいた。生存者の収容に当たり、日本人はいないか、と叫んで各戸を回ると、鼻に牛のように針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが出てきた」。

 これが人間のすることだろうか。中国の史書には残忍な殺人記録が頻出するが、これも支那文明の一部なのだろう。通州事件は軍部だけでなく、日本国民を激高させ、暴支膺懲(暴虐な支那を懲らしめる)が叫ばれたが、なお日本は中国との戦争に自重していた。

 日本が堪忍袋の緒を切らし、事変の不拡大方針を捨て、中国との戦争に踏み切ったのは、前稿で述べたように、上海で日本租界およびこれを護る日本の陸戦隊や軍艦が、中国軍に激しい攻撃を受けたからである。当時のマニラ電電公社のR・Eエドワードは言う、「上海に来て抗日のひどさに驚いた。何でこれほどまでに日本人は我慢しているのか。欧米各国は誰も知らない。中国の宣伝を信じている。もっと日本は報道機関を充実させて、積極的に事変の真相を説明しなければだめだ」と。

 しかし中国は、日本の侵略に対して抗日戦争を戦い勝利した、抗日は正義であり、非は侵略した日本にある、という史観を変えることはないだろう。

 私は日本が北支一帯(中国北部の河北、山東、山西、チャハル、綏遠の5省)を蒋介石の国民政府の影響下から切り離し、日本の勢力下に置こうとして、1935年から関東軍がリードして進めた「華北分離工作」が決定的によくなかったと思う。これが華北への侵略となり、抗日・排日が激化した。

 日中戦争は、関係する数多くの事実をつぶさに見て自己の史観を確立する必要があるが、少なくとも日本を一方的に断罪する戦後主流の史観には私は与しない。

令和3年12月1日

第89回 最悪の日中戦争(1937-1945)

 日中戦争(日支事変)は、1937年(昭和12)7月、北京近郊の盧溝橋事件に始まり、上海、南京、広東へ戦線が拡大して全面的な戦争となった。1941年日本は中国を支援するアメリカとの戦争(太平洋戦争)に突入し、敗れて1945年、アメリカ、イギリス、中国の降伏要求(ポツダム宣言)を受け入れ、8年の長きにわたる中国との戦争を終えた。

 日中戦争は日本の最悪の戦争だった。当初日本は中国と戦争する意志はなかった。それが拡大し、ずるずると長期化し、泥沼化した。そして日中戦争が日米戦争をもたらした。

 日中戦争が全面戦争になったのは、盧溝橋事件のひと月後に起きた上海事件(第二次)からである。蒋介石は国際都市上海で日本と戦争する決意を固め、先制攻撃をしかけた。中国軍は日本租界北西部で日本の陸戦隊を攻撃し、第三艦隊「出雲」、日本総領事館、日本人経営工場などを爆撃した。米内海相はこれに激怒、対中強硬論に転じた。日本政府は不拡大方針を放棄し、上海に大軍を派遣。中国との激戦となった。3ヶ月に及ぶ戦闘で中国軍は敗れて上海から総退却。20万の日本軍は戦死者8千人、戦傷3万人を出し、85万の中国軍は18万人の死傷者を出した。

 上海を攻略した日本軍は余勢を駆って南京を攻略した。このとき日本軍は、非戦闘員や一般市民の大量虐殺を行ったとされる(南京事件)。蒋介石は首都を南京から重慶に移し、局地戦で不利になると奥地に撤退して応戦し、屈服することはなかった。

 私が日中戦争を最悪の戦争だったと思うのは、この不毛な戦争をやめる大局的判断を日本の政府・軍部指導者ができなかったことである。すべて状況対応に終始し、戦略性がなく、国としてのガバナンスがなかった。和平にもちこむ機会は幾度もあった。しかし、ことごとく失敗した。和平の大きな可能性は上海戦後にあった。日本はドイツの中華大使トラウトマンを仲介として和平条件を提示。上海戦に敗れた蒋介石は日本の提示する和平条件を呑む気になっていた。しかし、その後南京が陥落。広田外相は国民世論に影響されて和平条件をかさ上げしたため、蒋介石の呑めないものとなった。近衛首相は蒋介石の回答に誠意なしとして、1938年4月「国民政府を対手とせず」との声明を出し、和平の道を閉ざした。

 アメリカは蒋介石を支援し、イギリスと戦うドイツと同盟関係にある日本を敵視した。アメリカとの戦争を回避するため日米交渉が始まったが、アメリカは日本軍の支那(中国)からの撤兵を必須の交渉条件とした。このとき、豊田外相は支那撤兵を受諾すれば日米交渉は妥結できるとし、陸軍良識派の畑俊六、梅津美治郎の両大将も「米国の要求を入れて、支那事変(=日中戦争)を解決し、支那から撤兵するのが得策」と意見具申した。しかし、陸相東条英機は「陸軍としては駐兵問題は一歩も譲れぬ。退却を基礎とすることはできぬ。陸軍はがたがたになる。撤兵は支那事変の成果を壊滅させる」と言って支那撤兵を断固として拒否した。この陸相東条が首相となり、日本は日米開戦を決意する。日本は泥沼化した日中戦争の解決を日米戦争に賭けたのである。

 日中戦争は泥沼化し、日本を滅ぼすことになった最悪の戦争だったが、日中戦争が侵略戦争であり、すべて日本に非があった(これが戦後の主流の史観)とは私は考えない。日中戦争は複雑であり、是非は戦争にかかわる数多くの事実を見て、判断しなければならない。これについては次回に述べたい。

令和3年11月15日

第88回 日本の近現代史150年

 今はもう昔のことになったが、昭和の後半、日本は経済大国を実現した。1970年代、国民の90%以上が自分を中流階級だと考える一億総中流意識が実現していた。世界第2位のGDPをもち、1人当たりの所得も欧米先進国並みとなった。1979年、米国人による『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という著書も現れた。

 IMD(国際経済開発研究所、在スイス)は1989年から『世界競争力年鑑』を公表しているが、1989年から1992年まで日本の競争力の総合順位は1位だった。競争力総合順位は、経済状況、政府効率性、ビジネス効率性、インフラ等国の競争力に関する統計データと、企業の経営者層を対象とするアンケート調査結果を収集し、作成される。

 ところが、日本の競争力総合順位は1990年代後半から急速に下落し始め、2020年には34位にまで凋落した。上位には、1位シンガポール、2位デンマーク、3位スイス、4位オランダ、6位スウェーデンといった国が並ぶ。米国は10位、ドイツ17位、英国19位、中国20位、韓国23位である。

 国の総合競争力はGDPに直結する。1995年世界第3位だった日本の1人当たりGDPは2020年には24位まで凋落した。日本の国力は低下し続け、このままでは2030年には日本は恒常的なマイナス成長国家となり、先進国から脱落するだろう。

 日本の国力低下がなぜ起き、低迷が続くのか。内外のエコノミスト、ジャーナリストは言う。日本の失われた数十年の原因は、日本が構造改革を行わなかった結果であると。痛みを伴う構造改革は避け、景気対策として公的資金を投入し、日本は赤字国債なしでは立ち行かない国になった。過去、日本企業はVHSやDVDといった技術開発でトップに立っていたが、世界のデジタル革命に完全に立ち後れた。日本はGAFAのような企業を生み出すことができなかった。

 戦後76年が過ぎたが、前半(昭和の終わりまで)は興隆の時代、後半の平成以降は衰亡の時代だったと歴史家は総括するだろう。実はこの歴史観には既視感がある。戦前、明治元年から太平洋戦争まで75年だが、前半は興隆の時代、後半はつまずきの時代だった。明治の日本は富国強兵の道を歩み、近代国家の建設に成功した。日露戦争にも勝ち、5大国の仲間入りを果たした。しかし、その後日本はつまずく。昭和に入り、軍部が日本を支配した。日中戦争が泥沼化し、太平洋戦争に行き着き、大日本帝国を滅ぼした。

 40年サイクルで盛衰する日本の近現代史だが、世代のサイクルにはタイムラグがある。興隆時代を実現した日本人はその時代に生まれた世代ではない。その前の世代である。明治日本を建設し、興隆させたのは、江戸時代に生まれた武士だった。大正、昭和時代になり、武士教育で人間形成をした指導者がいなくなって、日本はつまずいた。経済大国をつくりあげた人たちも戦後生まれの世代ではない。戦前の社会と教育で人間形成をした人たちである。石坂泰三、松下幸之助、土光敏夫、井深大、盛田昭夫、永野重雄、本田宗一郎、出光佐三、小林宏冶などの経済人がその代表である。

 私は、明治も戦後も日本を興隆させた人たちに、歴史、文化に根ざす日本の伝統精神を見い出したい。それは日本に誇りをもち、かつ「智識を世界に求める」精神である。日本は現在、今まで経験したこともない苦境に直面している。この苦境の中で育ち、日本の魂を失わず、創造的イノベーション能力と人間力を形成した世代が苦境を打開すると信じる。

令和3年11月1日

第87回 日本のこころ「誠」についての随想

 「誠実であること」は今なお日本人が最も重視し、最も好む人間のあり方ではないだろうか。日本人は人との信頼関係を非常に大切にするが、誠実が信頼関係の基礎である。行動規範に誠実を掲げる日本企業も多い。日本人は男児によく「誠」の字を含む名を付ける。戦後長い間、男児の名として一字の「誠」は名前ランキングのトップにあった。

 「誠(まこと)の心」は歴史始まって以来、日本人が求め続けてきた心である。「まこと」は「真事」あるいは「真言」であり、偽りでない本当、真実のこと。古くは「清き明き心」として捉えられ、中世においては「正直(せいちょく)の心」として捉えられた。「まことの心」は古来の神道の理想「清明正直」の心そのものであった。

 儒教も誠を重要な徳目として挙げる。『大学』では「意を誠にする(誠意)」を説き、『中庸』で「誠は天の道なり、これを誠にするのは人の道なり」と言う。儒教を朱子学として大成した朱子は、誠を真実で邪心のないこととし、これが天の理法であるとした。

 誠は日本の儒教で特に重視された。伊藤仁斎は『論語』、『孟子』に聖人の教えを見いだしたが、仁斎がその実践倫理の根本に捉えたのが「忠信」であった。「忠」も「信」も「まこと」であり、「忠信」は「誠実」とも言いかえられる。「忠信」は「人に接するとき、あるいは事をなすとき、欺かず、詐らず、真実で、純粋な心でかかわること」であり、忠信(=誠実)が仁(=愛)であるとした。

 山鹿素行も誠を重視した。素行は「やむを得ざる、これを誠という」と言う。他者への誠実は、心の底より抑えがたいものとしてあるべきもので、それが誠であると。

 幕末において誠の思想は頂点に達した。吉田松陰は「天道も君学も一つの誠の字の外なし」と言う。松蔭は君のため、国のために思うところがあっても、それを決断をもって実行に移さなければ誠ではないと考え、実行した。幕末の日本社会を動かした道徳は「至誠」であった。

 誠(まこと)は古代より現代まで日本人が重んじてきた日本の心であるが、誠実に大きな価値を置き、これを尊ぶ精神は実は世界的なものである。

 「誠実さと信念だけが人間を価値あるものにする――ゲーテ」、「大事業というものは厳しい誠実さの上にだけ築かれる――カーネギー」、「誠実さ。深く偉大で純粋の誠実さこそ英雄的な人の第一の特色である――カーライル」、「誠実でなければ人を動かすことはできない――チャーチル」、「すべての真の偉人の第一の美徳は、誠実であることだ――アナトール・フランス」、「私たちは成功するためにここにいるのではありません。誠実であるためにここにいるのです――マザー・テレサ」。

 世界的な誠実と日本の誠実は概ね共通するものの、意味の違うところがあることも我々はよく知る必要がある。米国・カナダで30年グローバル企業の教育研修事業を行ってきた渥美育子氏は、「誠実」と訳される「Sincerity」の真の意味は言行一致であると述べている。日本人が「誠実に対応している」と言うとき、それは(誠意をもって)真剣に取り組んでいるということで、相手の望む結果を出すことを必ずしも意味しない。誠実に関するこのニュアンスの違いが、日米貿易摩擦の溝が埋まらない背景にあったと。

 世界に生きる我々日本人は、世界の異文化をよく知り、国々の背骨を形成している道徳、倫理、宗教の考え方をよく知る必要がある。

令和3年10月15日

第86回 『徒然草』に見る兼好法師の深い人間観察

 「狂人の真似とて大路を走らば、すなわち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥(き)を学ぶは驥の類い、舜を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし」。これは『徒然草』第85段に述べる、兼好法師の恐るべき人間観である。

 ふざけて狂人や悪人の真似をしているだけで、世間は狂人、悪人と見るかもしれないが実際はそうではない、といった常識的な(?)人間観を兼好は否定している。真似をすればすでに狂人であり悪人なのだ。逆に、驥(すぐれた馬)を学ぶ(=真似する)のは、すでに驥と同類であり、聖人・舜を学ぶのはすでに聖人の徒であるという。

 兼好法師のこのような人間観の根底に、外に現れた事相と、目に見えぬ真理の理性とは互いに別々のものではなく、一体であるという仏教哲学がある。ゆえに、外に出る姿形、言動や動作が正しければ自然に内心も正しくなり、逆もまた真である。徒然草』第157段に、「筆をとれば物書かれ、楽器をとれば音を立てんと思う。(中略)心は必ずことに触れて来たる。かりにも不善の戯れをなすべからず。(中略)心さらに起こらずとも、仏前にありて数珠をとり、経をとらば、(中略)覚えずして禅定成るべし」と言う。

 私は若い頃『徒然草』のこうした人間観に接したとき、そうかな?と思った覚えがあるが、歳を経るにつれて、このような人間の行為と心との関係が正しいと思うようになった。

 以下の『徒然草』146段(現代語にしている)も兼好の人間観がうかがわれて面白い。

 比叡山の法王である天台座主、明雲僧正が、「ひょっとして私の人相から、戦場での弓矢の難が占えるだろうか」と尋ねたところ、人相の専門家といわれる人が「まことにおっしゃる通りの相でございます」と答えた。どういう卦が出ているのかと、問われたところ、「天台座主という傷害を受けるような立場にないお身の上でありますのに、かりそめにもそのような未来を心配されるお心持それ自体に、将来の危険が予想される兆しが感じられます」と答えた。そして明雲僧正はあるまいことか、69歳のとき、源義仲の軍勢が放った流れ矢に当たって死んだという。兼好法師は、人相見のこうした見方を否定していない。

 鎌倉時代、念仏すれば誰もが成仏できるという、革命的な教えを説いた高僧法然について記した『徒然草』第39段(現代語にしている)も、私の特に好きな段だ。

 ある人が、法然上人に、念仏のとき、眠気におそわれて、念仏を怠ることがよくありますが、どうしたらこの障りをふせげましょうか」とお尋ねしたところ、「目が醒めたときに、また念仏なさればよろしい」とお答えになった。まことに尊いことであった。(中略)また、「疑いながらも念仏すれば、往生できる」とも仰せられた。これもまた尊いことであった。

 この段は法然の浄土宗の神髄をずばりと表している、と私は思う。

 『徒然草』は鎌倉後期に兼好法師によって書かれた随筆で、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と並ぶ日本三大随筆の一つとされる。江戸時代には身近な古典としてよく読まれ、江戸文化に大きな影響を与えた。昭和・平成時代の作家中野孝次は『徒然草』に親しみ、『徒然草』の言葉が人生の折々に自分の生き方を導く糸となった、と述べていた。

 私が『徒然草』を読んで強く感じるのは、兼好法師という七百年前の日本人の覚めた、深く、高い知性である。

令和3年10月1日

第85回 日本のマスコミを批判する

 戦前、日本は満州事変以降おそらく国策を誤り、日米戦争に行き着いて国を滅ぼしたが、関東軍の行動を全面的に支持し、国民的熱狂をつくりあげたのは、朝日、毎日を主とする大新聞だった。満州事変後、全国の神社に必勝祈願の参拝者が押し寄せ、憂国の士から手紙が陸軍大臣の机の上に山のように積まれた。こうして軍部が世論に支持されるまで、新聞の果たした役割は決定的に大きかった。国民は新聞により軍国主義に導かれた。

 日本の国際連盟脱退も、戦前の誤った国策決定の一つだったが、脱退を煽ったのも大新聞だった。閣議で荒木陸軍大臣が連盟脱退を主張したが、斎藤首相はとんでもないと言って押さえた。これに対し新聞は、今の内閣は何だ、連盟からひどいことを言われてヘイコラするのか、連盟内の孤立と連盟外の孤立に何の相違もない、と主張して脱退を煽った。政府は、連盟が日本軍の満州からの撤退勧告案を採択したのを機に、脱退を決意せざるを得なくなった。

 日本政府の訓令に従って連盟を脱退した全権大使松岡洋右は、脱退すべきでなかったと考えており、日本に帰っても皆に顔向けできないと消沈していた。しかし、新聞はこぞって松岡を礼賛し、これほどの英雄はいないともちあげ、これを知った松岡は意気揚々と帰国した。

 大新聞の、特定方向にキャンペーンを張る報道体質は、戦後も全く変わっていない。そして戦後に著しいのは、日本を悪とする反日的キャンペーンであり、その典型例が朝日による従軍慰安婦報道である。朝日は慰安婦が強制的に戦場に連行された女性たちであると、事実に基づかない「慰安婦=性奴隷」を世界に広めた。朝日の慰安婦キャンペーンは、吉田清治という得体の知れない文筆家の、「私は済州島の女性200人余りを強制連行して慰安婦にした」という全くの作り話を紙面に掲載し続けたことに始まる。これが虚偽だと判明した後も朝日は訂正しなかったため、海外に誤解が拡散し、日韓関係を悪化させた。やっと2014年になって朝日は虚偽を認め、記事を取り消したが、謝罪はなく、強制連行の有無については、「ひとさらい」のような狭義の意味の強制連行はなかったものの、広義の意味での強制については意見が分かれるとした。そして、問題の本質は強制連行ではなく、慰安所で女性の自由が奪われ、尊厳が傷つけられたことにある、などと主張し、現在に至っている。

 2017年、市民団体が寄贈した慰安婦像をサンフランシスコ市長は、市として正式に受け入れる文書に署名した。吉村大阪市長はこれに異議を唱え、長年続けてきたサンフランシスコ市との姉妹都市関係を破棄した。これに対し、朝日は「姉妹都市 市民協力を続けてこそ」という社説で吉村市長を糾弾した。吉村市長は、ツイッターで「朝日は僕を批判する前にやることがあるでしょ」と痛烈に反論した。

 朝日新聞の偏向報道は、日本人の名誉を毀損してきた。その影響はすでに出ているが、今後も世界における日本の国の尊厳を毀損し、日本人の利益を損なうだろう。

 このように、大新聞の報道ぶりが国益を損なうことは度々あるが、それでも中国のような報道の自由のない社会より、日本がはるかによい社会であることは間違いない。我々は、特定の方向に恣意的なキャンペーンをする大新聞の報道体質をよく知り、軽々に信用せず、ネット情報を含む複数の情報源に接して真実を見極め、健全な世論を発信して民主主義による統治に反映させ、国益を守っていきたい。

令和3年9月15日

第84回 自虐史観の弊害

 故渡部昇一上智大名誉教授が、面白い話を著書の一つで紹介している。「イギリス人を自慢しているやつはイギリス人だ。ドイツ人の悪口を言っているやつはフランス人だ。スペイン人の悪口を言っているやつはスペイン人に決まっている」という小噺がヨーロッパにあるという。大航海時代(16世紀)、スペインのコルテスとかピサロといった探検家や武将が中南米に出かけてインディオを殺し、マヤ文明やインカ文明を滅ぼした。そのため、インディオを殺害するスペイン人の想像画や報告書がばらまかれ、「スペイン人は極悪非道だ」、「残酷だ」といった悪評が世界中に定着してしまった。スペイン人は自己嫌悪に陥り、自分の国の悪口を言うようになった。自国に自信がもてなくなったスペインは元気を失い、歴史の敗北者となっていった。自虐し、自国を嘲笑する国民は衰退するしか道はない、と。

 大東亜戦争(太平洋戦争)の敗北は日本人に自信を失わしめた。日本の戦争は一方的な侵略戦争と断罪された。歴史、修身、地理の教科が極端な軍国主義を生んだとして、学校教育で禁止された。連合国は東京裁判で日本の戦争を文明に対する罪として裁いた。アメリカは日本との戦争を正当化する基準に、文明と民主主義を置いた。憲法は民主主義を標榜する憲法に変えさせた。太平洋戦争の敗北によって日本は国家を否定され、否定は文明、文化、そしてこれを培った日本の歴史にまで及んだ。

 自信を失った戦後の日本人は、日本の国家と歴史を否定的にみるようになった。学校教育では、イギリスの名誉革命、フランス革命、中国革命等は無条件に肯定され、一方、明治維新による日本の近代化は上からの改革だから不十分であり、日本は封建的な遅れた社会だと教えられた。近代史だけでなく、古代・中世史にも日本の歴史に誇りを感じさせるような教育はなかった。

 日本の歴史を否定的に見、日本を劣った国だと卑下する人(いわゆる自虐史観の持ち主)は、マスメディア、文化人、教育界、大学、官庁など、いわゆるインテリに多い。そしてこの史観が根強く生き続けていることは、最近、自由社出版の教科書が文科省検定で不合格になったことなどでわかる。自由社の教科書は、自虐史観を正そうとする「新しい歴史教科書をつくる会」によって編纂されたもので、バランスのとれた良い教科書だと私は思う。

 私は自虐史観をやはり、偏向した間違った史観だと思う。この史観は、日本人は文明的に遅れた民族であり、日本は侵略戦争をした悪い国である、という前提からスタートする。そして、日本の歴史をこの前提(この前提がおそらく間違っている)に沿って解釈し、あるいは西洋と比較して、だから日本はだめなのだと、上から目線で結論する。夜郎自大的な日本礼賛論と結論は逆だが、軽薄さが共通している。

 祖先がつくり成してきた歴史を、つぶさに見ずにこれを貶めて自虐する。そんな資格は現代人にはない。歴史は叡智の宝庫である。自虐史観からは叡智は得られない。芭蕉の言う「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」といった精神で歴史を見れば、我々の祖先が立派であり、日本が誇るに足る歴史をもつことがわかる。渡部先生が言うように、自国を蔑むような国は衰退していくだろう。我々は、誇るに足りる日本の歴史をよく知り、子供や孫に伝えていきたい。

令和3年9月1日

第83回 北条義時の苦悩

 2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主役となる北条義時は、どのような人物だったのだろうか。

 北条義時(1163-1224)は鎌倉幕府の第2代執権。平安時代末期、伊豆の小豪族北条時政の次男として生まれ、父時政とともに源頼朝による平家追討の挙兵に参加。頼朝が開いた武家政権(鎌倉幕府)を支える有力な御家人となった。頼朝の死後は、合議制で運営される幕府の13人の御家人の一人となったが、御家人間の権力闘争を勝ち抜き、執権時政の失脚後、第2代執権となった。1221年後鳥羽上皇が倒幕を決意し、義時追討の勅令を発したが、幕府のもとに参集した関東の御家人たちは、義時の長男泰時を総大将として大挙して京に攻め上り、朝廷軍に圧勝した(承久の乱)。ここに幕府の朝廷に対する政治的優位が確定し、武家政権が全国政権として確立した。 

 北条義時は源頼朝が始めた武家政権を完成させた政治指導者であるが、後世史家による義時の評価は概して芳しくない。おしなべて北条氏歴代は、陰険と言われ、悪辣とそしられる人々が少なくないが、その代表として必ず義時が挙げられる。義時への非難はまず承久の乱で皇室に敵対し、上皇を配流した事実に向けられ、ついで父時政の追放や、競合する有力御家人たちを失脚させたという陰謀に向けられる。そしてそれらの事件がすべて義時に有利な結果に終わったところから、その悪辣さが強調される。特に明治以降の国定教科書では、義時は皇室に敵対した極悪の逆臣として描かれる。

 一方、勝海舟は『氷川清話』で義時を高く評価している。「北条義時は、国家のためには、不忠の名をあまんじて受けた。すなわち自分の身を犠牲にして、国家のために尽くしたのだ。その苦心は、とても軽々たる小丈夫にはわからない。おれも幕府瓦解のときは、せめて義時に笑われないようにと、幾度も心を引き締めたことがあった」と。

 史家による評価をみると、義時の悪評は、頼山陽に代表されるように、主として君臣間の大義名分論が定着した近世の史家によるものであることがわかる。中世の史家には義時を逆臣、不忠と批判するものは見られない。義時の政治的立場を是認し、武家政権によって民政の安定がもたらされたことを評価している。

 『梅松論』に、義時追討の勅令が発せられた上は降伏を勧める泰時に対する義時の言葉が伝えられている。「その議は神妙。ただ、それは君主の御政道が正しい時の事。近年天下の行いを見るに、君主の御政治が昔と変わり、実を失っている。土地所有に関する勅裁が大いに乱れ、国土が穏やかでなくなり、万民が愁えている。この禍が及ばない所は、関東(幕府)のはからいである。天下静謐のため、天道にまかせて合戦すべきである」と。この義時の言葉で、鎌倉の武家政権が何を目的として成立したかがわかる。

 武家政権を確立した政治家として、勝海舟と同様、私は義時を高く評価する。『増鏡』に義時は「心も猛く、たましいまされるものにて」と記されている。義時は頼朝のようなすぐれた政治的判断力をもち、行動は良識的である。きわめて怜悧で、果断な決断力と実行力をもつが、温情もある。

 私は鎌倉時代を日本史の中で、社会が新しく発展した比較的良い時代だったと思っている。鎌倉の武家政権は社会の進歩に沿った政権であり、幕府代々の北条氏による政治は概ね善政であった。北条義時には歴史的業績にふさわしい評価を下したい。

令和3年8月15日

第82回 武士道ー名誉の掟

 武士道を研究していると、昔の日本人が名誉心の強い人たちだったことがわかってくる。

 戦国時代に来日したフランシスコ・ザビエルは、「日本人は驚くほど名誉心の強い人々で、何より名誉を重んじます。大部分の人々は貧しいのですが、武士も、そうでない人々も、貧しいことを不名誉とは思っていません。日本人は侮辱され、軽蔑の言葉を受けて我慢している人々ではありません」とイエズス会に書き送っている。

 新渡戸稲造は名著『武士道』で述べる。名誉は武士階級の義務と特権を重んずるように、幼児のころから教え込まれるサムライの特色をなすものだった。「人に笑われるぞ」、「恥ずかしくないのか」などという言葉は、過ちをおかした少年の振舞を正す最後の切り札だった。この名誉に訴えるやり方は子供の心の琴線に触れた。若者が追求しなければならない目標は富や知識ではなく、名誉であった。恥となることを避け、名誉を勝ち取るためにサムライの息子はいかなる貧困も甘受し、肉体的、あるいは精神的苦痛のもっとも厳しい試練に耐えた、と。

 武士道とは、武士はいかに生きるべきか、個々の状況下で武士としていかに振る舞うべきかの教えに他ならないが、その行動を律する基本原理は名誉の観点にあった。武士道の主要な道徳は、絶対に嘘を言わない、卑怯なことをしない、戦場で勇敢に戦う、利を軽んじ義を重んじる、信義を重んじ約諾は絶対に守る、惻隠の情をもつ、などであるが、こうした道徳の根底にある感情は、名誉心と自尊心である。

 19世紀、強大化した西欧文明が世界を席巻し、アジアが植民地化されていく中、日本は体制変革を行い、近代国家建設に成功する歴史をもつが、これを遂行した原動力は武士の名誉心だった。新渡戸は言う。近代日本を建設した人々、西郷、大久保、木戸、伊藤、大隈、板垣らが人となった跡をたどってみよ。彼らが考え、築き上げてきたことは、一に武士道が原動力になっていることがわかる。劣等国と見なされることに耐えられない、という名誉心。これが動機の中で最大のものだった、と。

 大東亜戦争に負けて、日本人は戦前の過剰ともいえる名誉心を失ったように見える。周恩来は、戦後日本人は卑屈になったと言っていたし、李登輝は、戦後日本政府が中国からちょっと強硬に何か言われると恥も外聞もなく聞いてしまう、武士道を失った日本のエリートの卑屈さを嘆いていた。

 また、戦後ロンドン・タイムズ、ニューヨーク・タイムズの東京支局長などを歴任したイギリス人ジャーナリスト、ヘンリー・S・ストークスは言う。長い取材、調査の結果、はっきり断言できるが、いわゆる「南京大虐殺」などというものは明らかに中国のプロパガンダだ。「慰安婦問題」も同様だ。どんなに調べてみても、日本軍が強制的に慰安婦たちを将兵たちの性奴隷にしたという事実は出てこない。それにもかかわらず、中韓はことあるごとに南京大虐殺と慰安婦を歴史認識問題として蒸し返し、日本を貶めることに躍起となっている。それを許している責任の一端は日本国民自身にもある。中韓が歴史を捏造し、謂われ無き誹謗中傷を始めて以来、実に長い期間にわたって、多くの日本人がその問題に口をつぐんできた。もし、イギリスが同様の誹謗中傷を受けたら、イギリス人は相手国を決して許さないだろう、と。

 武士道的名誉心は、よりソフィストケートされて、現代日本人になお十分残っていると私は思っている。

令和3年8月1日

第81回 民主主義が良い

 世界で民主主義に対する懐疑が広がっている。近代の欧米で発展し、成立した民主主義は世界的に最も進んだ政治体制と見なされてきた。しかし、民主主義国のリーダーたるアメリカ前大統領トランプが、選挙に不正があったとして大統領選の結果を認めず、支持者たちが議事堂に乱入する事件を起こした。民主主義を信奉する先進諸国はこれに眉をひそめた。

 中国は胡錦濤時代までは、将来的に直接選挙や言論の自由の導入を含め、欧米的な民主化を目指すとしていた。しかし、習近平体制に移行して以来、欧米流の民主主義を完全に否定した。重要なのは国の秩序の維持と国民生活の向上であり、これを達成した共産党による一党独裁をよしとする。中国モデルに魅力を感じる途上国の指導者も少なくない。

 コロナウィルス・パンデミックが民主主義の優越性に対する疑念を深めた。中国は初期対応に失敗したものの、その後、都市封鎖による隔離の徹底、PCR検査の徹底、健康コードによる個人行動情報の管理などを行い、感染拡大の押さえ込みに成功した。昨年2月時点で9万人に達した累計感染者数はその後全く増加していない。一方アメリカは今年4月には感染者数の累計3千万人に達し、1日の新規感染者数が最大30万人にもなった(現在1万人程度まで減少)。民主主義の大国インドでも累計3千万人に達し、1日の新規感染者数は減少して5万人となったが、まだ終息していない。これを見ると、民主主義国の方が劣っているのではないかと。

 民主主義の歴史を振り返ると、民主主義は歴史の大半において、どちらかというと否定的な意味合いで使われてきた言葉であることがわかる。プラトンはアテネの民主政を衆愚政として否定したし、アリストテレスは政治形態を君主政、貴族政、民主政に区分したが、特に民主政が良いとは言っていない。

 現代につながる民主主義が発展したのは近代の欧米に於いてである。近代における民主主義の成立にはまず、イギリスで名誉革命による議会主権の確立があった。次にイギリスより独立したアメリカで進展した。独立宣言とリンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」は民主主義の不滅の理念を示すと言われる。そして、革命で旧体制を倒したフランスにおいて進展した。人権宣言は人民主権と自由平等の基本的人権をうたい、西欧が民主主義による市民社会へと進むきっかけとなった。

 欧米の民主主義は議会制を中心に発展した。選挙が実施され、普通選挙への歩みも進んだ。イギリスのジョン=スチュアート・ミルは、代議制民主主義が最善の政治形態であると言った。こうして英米仏で発展した民主主義制度と理念の優越性は、英米仏の富裕化と強国化と相まって、19世紀には世界的に広く認められるようになった。

 冒頭述べたように、昨今民主主義に対する世界的な疑念が広がっているが、私はなお欧米で発展した民主主義を良しとする。それは、民主主義が日本の伝統にあると思うからでもある。古くは十七条憲法の「衆とともに論ずべし」があり、明治は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」で始まった。戦前近代憲法を定め、民選議員による議会を実現した実績と、戦後新憲法のもと、民主主義国家の建設に励んだ歴史は軽いものではない。

 私は長期的な視野に立つ国策決定能力に、民主主義の弱点を感じている。これを克服する賢明さと能力を持ちたいと思う。

令和3年7月15日

第80回 上杉鷹山の美しい生涯

 上杉鷹山(1751-1822)は江戸時代中期の第10代米沢藩主。江戸時代最高の名君と評価されている。内村鑑三が英文著作に二宮尊徳、西郷隆盛らと共に『代表的日本人』として取り上げた5人の内の一人で、ケネディがアメリカ大統領に就任したとき、「最も尊敬する日本人は上杉鷹山だ」と語った人である。

 上杉鷹山は17歳で米沢藩主上杉家の家督を継ぎ(鷹山は高鍋藩主秋月家から上杉家に入った養子)、窮乏のどん底にある藩財政の立て直しに渾身の努力を傾注し、これを成し遂げた。この時代、全国の藩で財政悪化が進んでいたが、特に米沢藩15万石の窮状は甚だしく、第9代藩主重定のときには、どうにもならない状態になっていた。巨額の負債の返済の見通しはたたず、重税にあえぐ領民は疲弊し、かつて13万人いた領民は10万人に減少していた。重定は一時領地を幕府に返上するしかないとまで思いつめたが、幼少より英明をうたわれる若い養子・鷹山に藩の将来を託すことにした。

 鷹山の藩政改革は、大倹約の実行に始まり、農業の振興と農民の教道、人材の登用、家臣の意識改革、養蚕・織物業等の産業振興、国産品の奨励、難工事を伴う水利事業の実施、藩校創設と教育の振興、飢饉対策(備籾倉の創設)、老人福祉、間引きの習慣の廃絶など多岐にわたる。鷹山の「成せば成る、成さねば成らぬ何事も、成らぬは人の成さぬなりけり」の精神で、長期にわたり真摯に実施された。鷹山の晩年には、かつて11万両余に達していた藩の負債は全額返済完了し、領民の人心も改まっていた。鷹山が72歳で没したとき、「民は、自分の祖父母を失ったかのように泣いた。階層を問わず悲しみ、その様は筆につくしがたい。葬儀の日には、何万人もの会葬者が路にあふれた。合掌し、頭を垂れ、深く悲しむ声が誰からも漏れた。山川草木こぞってこれに和した」と伝えられている。

 鷹山は上杉家の家督を継いだとき、師である儒学者細井平洲の教え「藩主は実の父母のように領民を愛し、慈しむ」ことを神に誓い、祖神・春日社に誓詞を納めた。このことは誰も知らず、この誓詞が発見されたのは百年後である。

 鷹山の治政はこうした儒教の実践にとどまらない。鷹山は引退するとき新藩主となる治広に、後に「伝国の辞」と呼ばれることになる藩主の心得を授けた。「一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、われ私すべきものにはこれなく候。一、人民は国家に属したる人民にして、われ私すべきものにはこれなく候。一、国家人民のために立てたる君にて、君のために立てたる国家人民にはこれなく候。右三条御遺念あるまじく候こと」。これは驚くべき藩主機関説であって、二番目、三番目はまさに民主主義思想そのものである。この「伝国の辞」はその後代々の新藩主に伝授される慣例となった。

 鷹山は謙虚で、非常に愛情深い人間であったが、ただ優しいだけでなく、強い忍耐力をもち、諄々と人を諭して倦まず、正しいことを実行する不屈の決断力と勇気をもつ君主だった。まさに封建時代の理想的君主だったが、鷹山の人間性からは、「伝国の辞」に見られる政治思想をはじめとして、封建時代のいわゆる「名君」を超えた、現代に通じる普遍性をもった指導者のあり方が伝わってくる。

 上杉鷹山の愛に満ち、高尚で勇気ある美しい生涯は時代を超えて、現代に生きる我々に力を与えてくれる。

令和3年7月1日

第79回 昭和の偉人土光敏夫

 昭和は遠くなりつつある。すでに平成の30年を経て、令和となった。昭和は戦前と戦後で大きく変わった。戦前は昭和の始めより軍国主義化し、大東亜戦争に行きつき、敗れ、明治以来築き上げてきた大日本帝国を失った。戦後の昭和(昭和20年以降)は復興の時代。高度成長を達成し、昭和43年(1968)には世界第二位の経済大国となった。豊かさを表す国民一人当たりのGDPも昭和55年(1980)には欧米の先進国並となった。1979年には『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という米国経済学者の著作も現れた。

 戦後の昭和(昭和20~64年、1945~1989)は日本の興隆した時代だった。私は、この時代を代表する経済人として松下幸之助と共に土光敏夫を思い出す。松下も土光も昭和の時代に活躍し、松下は昭和天皇崩御の1989年に、土光はその前年に世を去った。二人は経済で興隆した戦後の昭和を象徴する偉人だった。

 土光敏夫は1896年(明治29年)の生まれ。東京高等工業学校(現東京工業大学)を卒業、石川島造船所に入社。1950年石川島重工業社長に就任。徹底した合理化で同社を再建、成長させる。1965年東芝の再建を請われて社長に就任し、辣腕を振るう。1974年第4代経団連会長に就任。財界総理として日本経済の発展に尽力。1981年85歳のとき、鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長官に強く要請されて第二次臨時行政調査会長に就任。増税なき財政再建、三公社(国鉄、専売公社、電電公社)の民営化路線を敷いた。

 土光は「ミスター合理化」と言われ、合理的経営に徹した。しかし、土光の合理化は社員をクビにするような、浅薄なものではなかった。実際、土光は一度も社員を解雇したことはなく、上に立つ者はいかに部下を生かすかを考えるのが仕事だと言っていた。そして土光は徹底した現場主義で、日本一の工場長と言われた。土光は技術者であり、経営者として技術的合理性に富んでいた。企業は不景気でも決して研究開発を惜しんではならない、と言った。

 土光は「個人は質素に、社会は豊かに」をモットーとし、そのように生きた。財界のトップにあって、土光の質素な生活はきわだっていた。電車通勤で、生活費は月3万円で済ませ、俸給のほとんどを土光の母登美のつくった橘学苑に寄付した。昼はざるそば、夜も一汁一菜。宴会を避け、夕食後は古い自宅で書斎にこもり、読書。行革審の会長時代、直子夫人と共にとるつつましい土光家の夕食をNHKが放映し、「メザシの土光さん」として、行革のシンボルとなった。

 土光は座右の銘を一つだけあげろと言われれば、躊躇なく「日に新たに、日々に新たなり」をあげると言う。一日のことは一日に終え、明日に持ち越さない。一日一日にけじめをつける。土光は日蓮宗の信者であり、毎日早朝と就寝前に法華経を読経した。お経をあげて毎日心の区切りをつけるという。そして読経し無心になって、仏心すなわち宇宙の原理に接するという。土光は人は信仰をもつべきだと言った。

 昭和の経済界のトップ土光敏夫は宗教者であり、「法華経の行者」であった。土光の生き方からは人としての正しさと強さが伝わってくる。それは土光以上に信仰心の篤い母登美の、「正しきものは強くあれ」との志を継いだものだった。

 晩年の土光に接した作家城山三郎は、土光の生き方に「極上の天然記念物を見る思いがする」と記している。土光敏夫のような希有な人格は、令和の日本にはもういないかもしれない。

令和3年6月15日

第78回 「五箇条の御誓文」について

 

 1868年(明治元年)明治新政府は天皇が天地神明(神)に誓う形式で「五箇条の御誓文」を公布し、新政府の基本方針とした。

一、 広く会議を興し万機公論に決すべし 

一、 上下心を一にして盛んに経綸を行うべし 

一、 官武一途庶民にいたるまで各(おのおの)其の志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す 

一、 旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし 

一、 智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし

 この時期新しい日本のあり方として、明治新政府がうち出したこの方針を本当にすばらしいと私は思う。この基本方針は天皇の誓いにとどまらず、実際の国是となり、明治の国家建設の生きた方針となった。

 この御誓文は、福井藩出身の政府参与由利公正が原案を作成し、土佐藩出身の参与福岡孝弟が修正、最終的に総裁局顧問の木戸孝允が加筆修正して決定した。原案作成者由利公正は現在あまり知られていないが、幕末開明的な福井藩主松平春嶽の側用人として、橋本左内らと国事に奔走した武士である。由利は、春嶽に招かれて福井藩の賓師となった横井小楠に学んだ。坂本龍馬とも親交があり、御誓文には龍馬の「船中八策」の影響があると言われる。

最終案を決定した木戸孝允は、維新の三傑の中で最も開明的な英傑だった。木戸は後日(明治5年)、「かの御誓文は昨夜反復熟読したが、実によくできておる。この御趣意は決して改変してはならぬ。自分の目の黒い間は死を賭しても支持する」と語ったことが伝えられている。

 この時期すでに、公論による政治をはじめとする、御誓文に記されるようなすぐれた政治思想が武士の先覚者層に定着していた。

 平川祐弘東大名誉教授(比較文化学)は、五箇条の御誓文はわが国の「マグナ・カルタ」ともいうべき一大憲章であると言う。そして、御誓文は1868年において新鮮な国是の宣言だったが、その4分の3世紀後の戦後1946年でも日本国民に行くべき道を指し示す宣言であり、そのさらに4分の3世紀後になる今日でもなおきわめて意義あるものだと言う。

 戦後の1946年、昭和天皇はいわゆる人間宣言を行ったが、その詔書で五箇条の御誓文に言及した。昭和天皇は、「それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。民主主義は明治大帝の思し召しで、五箇条御誓文を発して、それが基になって明治憲法ができたので、民主主義というものは決して輸入物でないことを示す必要が大いにあったと思います」と語っている。また、吉田茂は1946年国会で「御誓文の精神、それが日本国の国体であります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり---」と答えている。

 五箇条の御誓文は、民主主義思想を十二分に含む国家の基本方針を、達意な美しい日本語で表したすばらしい誓文である。平川先生が言うように、日本の大憲章とする価値が十分あると思う。特に平成から令和に至り、日本がひきこもり傾向にあると言われる現在、「智識を世界に求め」、「天地の公道に基づくべし」といった開明精神は、明治初期や終戦直後以上に意義をもつ今日の国是となると信じる。

 令和3年6月1日

第77回 慰安婦問題の真実

 日韓の慰安婦問題が続いている。文在寅大統領は、朴槿恵前政権が2015年日本政府と締結した「慰安婦問題は日韓両国間で最終的かつ不可逆的に解決された」という合意を、2018年一方的に破棄した。

 韓国の市民団体である「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(略称「正義連」、旧「挺対協」)」は、1990年結成以来、慰安婦が旧日本軍による暴力で強要された性奴隷であるとの、活発なプロパガンダを国内外に展開してきた。国連人権委員会は「挺対協」のアピールを受け、1996年、慰安婦を「軍事的性奴隷」とする「女性に対する暴力に関する報告書(クラマスワミ報告書)」を出した。この報告書の影響下、2007年にはアメリカ下院が「従軍慰安婦」にかかわる対日非難決議を行った。これに続いてオーストラリア、カナダ、フィリピン、インドネシア、オランダ、EUの議会で同様の日本非難決議が採択された。

 2011年「挺対協」はソウルの日本大使館の前に少女慰安婦像を設置した。これを皮切りとして、「挺対協」は国内だけでなく、世界各地に住む韓国系市民と協力して、世界に少女慰安婦像を拡散している。

 慰安婦問題とは何なのか。いわゆる従軍慰安婦とは、日中戦争および大東亜戦争中、日本軍が駐屯した各地に設置された慰安所で働く公娼であった。慰安所は軍が直接設置して運営したものもあったが、ほとんどは民間の業所を軍専用の慰安所に指定し、管理する形態だった。軍は運営守則、利用時間帯等を定め、許可証を発行し、定期的な性病検診を義務づけた。慰安婦は軍の性奴隷といった存在ではなく、普通の売春婦だった。前線での慰安所が軍と同様の危険にさらされていたのは確かだが、その分高収益だった。慰安婦は実家に送金したり、貯蓄して戦後ほとんど無事帰還した。

 最も深刻な誤解は、慰安婦たちが官憲によって強制連行されたというフィクションである。これは吉田清治という日本人による、済州島の女性十数名を慰安婦として強制連行したという全くウソのレポートを、1982年朝日新聞が掲載したことに端を発している。当時の朝鮮(韓国)の若い女性たちが公娼になった道のりは、斡旋業者が貧しい階層の戸主に若干の前借金を提示し、就業承諾書をもらい、娘たちを連れていく過程だった。娘たちには強制と感じられることもあっただろう。しかし、日本の官憲が婦女子を強制連行するようなことはなかった。

 1970年代まで慰安婦の実情をよく知る人たちが多数生きていたときには、慰安婦問題は提起されなかった。時が40年以上過ぎ、そういう人たちがいなくなってその記憶が薄れて来るや、架空の新たな記憶が作られ、慰安婦問題が登場した。この間、韓国で反日教育が進み、蓄積した反日感情のももとに慰安婦問題が発火した。

 1910年の日韓併合は韓国の大きな屈辱だった。戦後(解放後)、韓国は日本による統治時代を「日本民族の野蛮で侵略的な資質を露わにした極悪非道の最悪の統治だった」とし、史実を改竄・捏造してこうした歴史観をつくりあげ、国民を教育してきた。こうして強い反日感情をもつようになった韓国人は、慰安婦問題を「野蛮な日本民族が韓民族の血を陵辱した事件」として、フィクションをも信じることになる。

 この問題は、虚偽はあくまで排し事実本意でなければならないが、個別事実だけでなく慰安婦問題の真実の全体像を明らかにして、良識を主張していく必要がある。

令和3年5月15日

第76回 後藤新平の仕事

 後藤新平(1857-1929)は旧仙台藩水沢に生まれた。苦学して須賀川医学校を卒業し、医師としてキャリアを歩み始める。ドイツ留学を経て、1892年内務省衛生局長となる。1898年台湾総督府の民生長官となって植民地台湾の経営に手腕を発揮。1906年50歳のとき初代の満鉄総裁となった。1908年第二次桂内閣の逓信大臣兼鉄道院総裁。1920年には東京市長に就任。関東大震災(1923年)後、第二次山本内閣の内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の復興に尽力。晩年は政治の倫理化運動を展開し、73歳で没した。

 日本および世界は今、新型コロナウィルスの疫病に苦しんでいる。後藤新平の生きた時代も疫病との戦いがあった。後藤は1895年、日清戦争の終結で、コレラなど伝染病の蔓延する中国から船で帰還する23万人の兵士に対する検疫事業の責任者に任命された。任命の2日後には、北里柴三郎ら医学や衛生学の権威を集めて検疫の大方針を決定。国内の3か所に大規模な検疫所を建設し、3ヶ月で687隻23万2,346人の検疫を完遂した。半分近くの258隻から369人のコレラ罹患者を発見し、これを隔離。国内での感染拡大を防いだ。この検疫事業は欧米諸国にも知られ、賞賛された。

 1898年台湾総督となった陸軍の児玉源太郎は、検疫事業で発揮された後藤の卓越した行政手腕を認め、総督の補佐役である民生長官に抜擢した。児玉はその後台湾総督を兼任しながら、陸軍大臣、内務大臣となり、日露戦争勃発後は総参謀長となって満州に赴いたので、台湾の9年近い児玉総督時代、5年半は実質後藤民政長官による統治だった。

 公衆衛生を重んじる後藤は上下水道を整備し、マラリアをはじめとする伝染病を激減させた。本国政府から巨額の予算を引き出し、上下水道の他、道路、鉄道、築港等のインフラ整備を積極的に進めた。滞米中の農学者新渡戸稲造を招き、産業振興を図り、砂糖産業を台湾の主力産業に成長させた。後藤の台湾統治は成功で、百年以上たった今もなお、台湾で後藤は近代化の父と評価されている。

 後藤新平は「大風呂敷」と言われた。常に大きな構想で、事業をデザインした。関東大震災のとき、内務大臣兼帝都復興院総裁の後藤は、当時の国家予算に匹敵する13億円の首都復興計画を立案した。復興予算は議会で5億7,500万円に減額されたが、計画の相当部分は実行された。現在の東京の都市骨格、環状道路等の幹線道路網、公園や橋など多くの公共施設は、当時の復興計画に負うところが大きい。

 「大風呂敷」といわれた後藤の構想は、実は地道な調査にもとづいていた。後藤ほど調査を重視した指導者はまれである。後藤の思考は科学的で、対処療法よりも衛生と予防を重んじ、常に先を見ていた。その先見性のゆえ、計画が大風呂敷に見えた。

 後藤の仕事の根底には徹底した「公共の精神」があった。「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そしてむくいを求めぬよう」と説き、生涯そのように生きた。また、「一に人、二に人、三に人」と言うのが口癖で、人材の登用と育成に情熱を注いだ。後藤は死の直前、「金を残して死ぬのは下だ。仕事を残して死ぬのは中だ。人を残して死ぬのは上だ」との言葉を残している。

 令和の今、後藤新平が生きていたらどのような仕事をするだろうか。

令和3年5月1日

第75回 愛国心について


 台湾出身で日本国籍をもつ金美齢さんが、著書『愛国心』で面白い体験を紹介している。「かなり前の話ですが、“朝まで生テレビ”に出演したときのことです。共演者の一人に当時社民党の党首を務めていた福島瑞穂議員もいました。議論のやりとりの中で、出演者の一人が福島議員に、“あなたも結構愛国者じゃないですか”、と茶々を入れところ、彼女はあわてて手を振って、“違う、違う!そんなことはない”、と猛然と否定した。国会議員が“愛国者ですね”と言われて否定しなければならないような国が、日本以外にあるでしょうか?」と。

 この話は、戦後の日本人のいわゆる愛国心に向き合う特異な態度を象徴している。戦後愛国心は一種のタブーであった。日本のメディアは、愛国心を戦前の体制と戦争に結びつけて懸念する言論を発してきた。日本を悪く言う言論空間が形成され、愛国心などもたないことをよしとするような心の性向が形成された。

 しかし、こうした日本人の愛国心感覚は、世界的にみて異常である。私は断言するが、欧米をはじめとする世界で、「私は愛国心はありません」などと言うと、間違いなく奇異な人間とみなされ、人として信頼されず、まともな知性が疑われるだろう。それくらい国際社会で愛国心がないなどというのは非常識なことである。

 東大名誉教授(比較文化)の平川祐弘氏は言う。「新聞・テレビ・教科書など、日本を悪く言うことがファショナブルな雰囲気の中で育った戦後民主主義世代の優等生たちが、日本を好きでないようなことを言う。日本の悪口を言うのが格好いいと、知的ファッションにのっているだけの人も結構いる。愛国を口にするのは野暮だ、というのは青年子女特有の心理で、ある意味では健全なのかもしれないが、日本否定に走る一番の問題点は、そうした否定精神にはしばしば、ある錯覚が潜んでいることである。反日を唱えればそれがインターナショナリズムだと思っている。しかし、それを唱えるだけで世界に通用する人間になれるわけではない」。

 京都大学名誉教授佐伯啓思氏は言う。「愛国心というものに対する今日我々の態度が、奇妙にねじれ、不安定に揺れ動くものとなっている。その理由は簡単である。今日の日本の愛国心の問題は、“あの戦争(大東亜戦争、太平洋戦争)”と切り離すことができないからだ。問題が複雑になるのは、戦後のいわば公式的な理解においては、あの戦争をただ敗北戦争だったということだけでなく、道義的にも誤った戦争であったという価値付与がなされてきたからである。あの戦争は侵略戦争で、それゆえ断罪されてしかるべきである、という価値が付与された」。

 日本人が愛国心に躊躇するようになった大きな理由は、佐伯先生の指摘するとおりだろう。しかし私は愛国心を即、戦争につながるとする左翼メディアの思考には、動物の条件反射のような短絡と、空気に支配される惰性と硬直性を感じる。

 いろいろ議論のある愛国心であるが、私は日本人は非常に愛国心の強い国民だと思っている。金美齢さんが言うように、日本人にとって国は当たり前に存在する空気のようなもので、そのありがたみに気づかず、愛国心が顕在化しない。しかし生活体験を通じて、外国のことも知り、日本の国の歴史、文化をさらによく知ることになれば、本来の愛国心が自然に意識の上にのぼってくるだろう。

令和3年4月15日

第74回 米中衝突

 アメリカの中国を敵視する政策が進んでいる。トランプ政権の国務長官ポンペオは、「中国共産党は、いずれ自由を蝕み、民主主義社会が苦労して築き上げてきたルールベースの秩序を破壊する」、「中国は米国の重要な知的財産、企業秘密を奪っている」、「中国は国内への西側企業の進出を認める代わりとして、人権侵害には触れないよう要求した」、「習近平総書記は破綻した全体主義思想の真の信奉者だ」、「中国政府の行動が自由を愛する国の人々の繁栄の脅威となっている」、「これまでの米国の対中政策は間違いだった」、と述べた。

 アメリカの中国敵視政策は、政権交代後も変わらぬ流れとなっている。バイデン政権のブリンケン国務長官は、「中国は国際秩序に重大な挑戦する力をもつ唯一の国」、「中国には強い立場から対処する。そのためには同盟国や友好国との連携が必要」と述べる。

 中国が経済大国化、軍事大国化して世界を動かし、アメリカは中国に強い脅威を感じるようになった。2030年までに中国はアメリカを抜き、世界一の経済大国、軍事大国になるという予測もある。

 アメリカは、中国共産党の支配する中国が自由主義世界と共存できないと断定したように見える。中国共産党は選挙を認めない独裁政権である。国民の自由な政治活動を認めず、民主主義を完全に否定する。信仰の自由や言論の自由もない。統治のために人権を無視する。中国共産党の統治は、法によらぬ上意下達(人治)である。中国は国際社会のルールを守らず、自国の都合で平然と変える。こんな中国が国際社会の覇権を握ることなどあってはならない、と。

 しかし中国は自由と民主主義を普遍的な価値とは考えない。中国には、アヘン戦争以来の現代史は、中国が西欧列強によって半植民地化される屈辱の時代だったとの認識がある。本来天下(=世界)の中心である中国が屈辱を受けたのは中国が弱かったためである。今中国は強い本来の大国になったので、百年以上の屈辱を晴らし、西欧主体の国際秩序をあるべき中国秩序に変えて当然と考える。習近平が「中華民族の偉大な復興」、「中国の栄光を取り戻す」、「中華民族が世界の諸民族の中にそびえ立つ」などと語る根底に、屈辱の時代に成長した強いナショナリズムと、伝統の中華思想が横たわっている。 

 しかし、中国は欧米や日本でいうところの法治国家ではない。中国には法は権力者にも一市民にも平等に適用されるという考え方はなかったし、今もない。そして中国は社会も文化も経済も思想もすべて政治が支配する。権力に偏重した多元性のない国である。政治思想は最高権力者の意向で一変する。中国共産党は神を否定し、徹底的な物質主義である。これが中国社会の道徳を劣化させている。

 私はこうした中国共産党の支配する中国が覇権国家化し、日本と世界に影響力を強めるのを好まない。覇権なら自由と民主主義の国アメリカによる覇権をよしとする。ほとんどの日本人がそう考えると思う。私は太平洋戦争を経験して日本は文明的に成熟したと思っている。

 トランプ以降、アメリカ民主主義の将来を不安視する論調が現れているが、私はアメリカの自由と民主主義の伝統にはなお強いものがあると思っている。

 米中対立は日本の安全保障の根幹を左右する。日本はアメリカと結び、中国と対立することを恐れてはならない。

令和3年4月1日

第73回 ケンペルのみた元禄日本

 エンゲルベルト・ケンペル(1651-1716)はドイツの生まれ。1690年(元禄3年)長崎オランダ商館の外科医として来日し、丸二年日本に滞在した。帰国後『日本誌』を著し、ヨーロッパに日本を紹介。日本の社会、地理、歴史、文化を克明に記す『日本誌』は、その後長期にわたって、ヨーロッパ人の日本観に大きな影響を与えた。

 ケンペルは『日本誌』に、当時の日本の鎖国政策を肯定的に記している。「日本の鎖国というのは、実に見事に機能しており、それによって日本は西欧人も羨むべき文明の完成度を達成している」、「この民(日本人)は習俗、道徳、技芸、立ち居振舞の点で世界のどの国民にもたちまさり、国内貿易は繁盛し、肥沃な田畠に恵まれ、生活必需品は有り余るほど豊富であり、国内には不断の平和が続き、かくて世界でもまれに見るほど幸福な国民である。日本人は海外の全世界との交通が一切断ち切られている現在ほどに、国民の幸福がより良く実現している時代を、ついに見いだすことはできないだろう」。

 こうしたケンペルの日本評価は、当時の日本とドイツの状況をそのまま反映したものだろう。ヨーロッパで三十年戦争はケンペルの生まれる直前に終わっていたが、この戦争によってドイツは荒廃し人口も減った。17世紀後半、ドイツではなお戦争が続き、まだ魔女狩りが行われていた。

 一方、ケンペルが来日した17世紀後半の日本は、徳川時代の全盛期であり、江戸開府後元禄時代に至る百年間は、日本の大成長時代だった。大規模な国土開発がなされ、農地開発が進み、人口は急増した。江戸の人口は百万に達し、世界一の都市となった。上方を中心に、井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門、尾形光琳らに代表される文芸や美術が興隆した。

 こうしたヨーロッパと日本の位相は、百年後の18世紀後半には一変する。1777年ケンペルの『日本誌』ドイツ語版でドームは、「日本人は多くの技術を発明したが、現時点であらゆる分野においてヨーロッパに追い越されたしまった」と記し、1790年代のドイツ語大百科事典は、「日本は鎖国によって啓蒙思想をとりあげることができなかったため、ヨーロッパに追い越されてしまった」と記している。

 百年で日本が変わったのではなく、ヨーロッパが一大発展を遂げ、変わったのである。18世紀はヨーロッパが世界の中央に登場した時代だった。啓蒙主義が発展し、英米仏で市民革命が起きた。自由主義による近代市民社会を実現し、国民国家(ネーションステート)が生まれた。産業革命が起き、資本主義経済が進展した。18世紀末、イギリスでは一連の技術革新で、綿織物の生産力は何百倍にもなっていた。

 日本は元禄時代に頂点に達して以来、18世紀には文化は成熟したものの、国力は伸張しなかった。人口も3千万人で頭打ちになり、幕末まで増えなかった。外国と交易のない日本は一国の資源とエネルギーの限界に達していた。鎖国によりヨーロッパの近代科学技術情報は限定され、イギリスにおけるような技術革新は起きなかった。19世紀半ば(1853年)ペリー来航により開国したときは、文明(ヨーロッパ)と半開(日本)と対比されるほど、文明の差が自覚された。

 やはり、鎖国政策が長期的に日本の発展を遅らせたと評価せざるをえないだろう。鎖国しなければその後の260年の平和はなかったかもしれないが、太平洋戦争のような戦争は経験しなかったかもしれない。

令和3年3月15日

第72回 陸軍の下克上と国家のガバナンス

 司馬遼太郎は学徒出陣により陸軍戦車第十九連隊に入隊、23歳のとき陸軍少尉で終戦を迎えた。「こんな愚かな戦争を日本はどうしてやってしまったのか」、「昔の日本人はもう少しましだったのではないか」。その時の痛切な思いが、後年歴史小説を書く原点となった。「いわば23歳の自分への手紙を書き送るようにして書いた」という数多くの歴史小説は、代表作『龍馬がゆく』、『国盗り物語』、『坂の上の雲』、『花神』、『世に棲む日日』をはじめとしてベストセラー、ロングセラーとなった。戦後、該博な歴史的知識を駆使して、歴史人物を肯定的に描く司馬の作品は日本人に歓迎され、国民作家と評価されて平成8年に没した。

 司馬は明治の国家を非常に高く評価していた。曰く、明治国家は清廉で透き通ったリアリズムをもっていた。維新を躍進させた風雲児・坂本龍馬、国家改造の設計者・小栗忠順、国家という建物解体の設計者・勝海舟、新国家の設計助言者・福澤諭吉、無私の心を持ち歩いていた巨魁・西郷隆盛、自己と国家を同一化し、常に国家建設を考えていた大久保利通、これらの明治の父たちは偉大であった、と。

 こうしたすばらしい明治を生んだ日本人が、昭和には愚かとしか言いようのない大東亜戦争をおこし、国を滅ぼすに至ったのはなぜか。司馬は、日露戦争後から大東亜戦争の敗戦までの40年間は日本史としての連続性をもたない「異胎の時代」であったと結論した。特に昭和元年から昭和20年までは異常であり、日本という森の国に魔法使いが杖をポンとたたき、森全体を魔法の森にしてしまったと思われるほど異常だったと。

 司馬が昭和を明治と異なる異常な日本だったとみる感情(司馬史観)は理解できるとしても、事実は連続した国家だった。昭和の最大の特色は陸軍によって国家が事実上支配されたことにある。そして陸軍は佐官級、課長級の中堅軍人官僚によって支配され、幹部による統制のきかない下克上の世界となっていた。この下克上こそは、昭和の国家が明治と連続していることを示す。明治国家は、高杉晋作が挙兵して長州藩の実権を握り、藩主実質不在の革命的政権を樹立したところにルーツがある。この長州が薩摩と同盟して幕府を倒す。明治の陸軍は長州閥が支配した。陸軍の下克上は、明治国家をつくりあげた志士たちが没した昭和になって顕在化した。昭和の時代、結果さえ良ければ政府や天皇の言うことなど聞かなくてよいという空気が陸軍を支配していた。

 徳富蘇峰は『終戦後日日記』に敗戦の原因として記す。「陸軍省は関東軍その他の出先将校によって動かされ、内閣は陸軍省によって動かされ、かくの如くして首相も何事たるや知らず、陸軍大臣、参謀総長も半分くらい知っていても他の半分は知らず。満州事変から大東亜戦争まで、下克上でもちきったのである。戦争に一貫たる意志がなく、統率力がなかった」。

 戦前の昭和は著しく国家としてのガバナンス(統治力)を欠いた時代だった。陸軍が政府を引きずりまわし、国家として機能不全に陥っていた。国家を統べるのは天皇しかいなかったが、天皇は戦前も君臨すれど統治はせぬ立憲君主であり、戦後の象徴天皇と実質的に変わりはなかった。

 戦後も各省あって政府なしと言われ、国家のガバナンスの弱さは継続した。官邸に権力を集中させるといった改革が行われてきたが、民主主義国としての国家のガバナンスはなお課題である。

令和3年3月1日

第71回 偉大な思想家石田梅岩

 石田梅岩(1685-1744)は江戸時代丹波の国東懸村の中農の次男として生まれた。11歳のとき京の商家に奉公に出たが奉公先の没落により数年で帰郷。23歳のとき再度上京して呉服商の奉公人となり、やがて番頭となったが、43歳のとき奉公先を辞し、学問に専心。45歳のとき京都の自宅で誰でも自由に聴講できる心学(=人の人たる道)の講義を始めた。最初のうちほとんどゼロだった聴衆も、数年後には男女群れをなすようになった。

 梅岩は人の人たる道として、正直、倹約、勤勉を説いた。人は本来もっている正直な心で、私欲を自制し、倹約を実践して勤勉に生活すれば家はととのい子孫は繁栄する。梅岩は、士農工商は階級の差ではなく、職分の相違であると言い、商人が正直に売買して利益を得ることの正当性を説いた。こうした梅岩の教えは京の商人たちに歓迎されたが、梅岩の死後、弟子たちによって「石門心学」として体系化され、江戸時代中・後期には武士も含む全国民に広がった。石門心学の正直・倹約・勤勉の精神は、江戸時代に日本の国民的道徳意識の形成に寄与し、明治以降近代化に必要な資本主義の精神となり、現在なお日本人の道徳意識の根底にあるとされる。

 梅岩の心学の根本に人間の本性(これを性という)を知るということがあった。人間の本性を究明し、それを知れば、そこから自然に人の人たる道が明らかになる。梅岩は「性というは我が心に存する理、ただこの道理を天より受け、我に有(たも)つところとなす」と、儒教(宋学)の教えをそのまま説くが、梅岩の特筆すべきところは、性の何たるかを理論だけでなく、体験的に知る一つの覚りに到達したことである。

 梅岩の覚りの内容は、「その性というは禽獣草木まで、天に受得して生ずる理なり、松は緑にして桜は花、羽根あるものは空を飛び、鱗あるものは水を泳ぎ、日月天に懸かるも皆一個の理なり」、「元来形あるものは形を直に心と知るべきなり」、「人の心性と天(地)は本質的に一つであり、人は一箇の小天地である」といった梅岩の言葉から推定するしかないが、性(人の本性)を知った確信と悦びが梅岩の大衆教化活動の原動力であった。

 梅岩の性を知る体験は、儒教による知的認識の仏教的な覚りへの深化でもあった。梅岩は儒教も仏教も根本の要諦としているのは性理を会得することであり、共通していると言う。また、教えの根本である正直は神道の最も重視するところである。日本では神道、儒教、仏教が習合しているが、梅岩は神儒仏の三教いずれにも偏ることなく、三者の根元にある唯一のものを尊び、重んじた。

 経営の神様と言われた松下幸之助は梅岩の主著『都鄙問答』を座右の書としていたという。松下は商人道とは正しい経営のことであると言う。商人道とは、基本的に「何が正しいか」ということを考え、実行することによって共存共栄、繁栄に結びつくものである。この商人道の正しい理念は万国共通であるから、それを実践する企業は海外でも必ず受け入れられると思うと述べている。

 梅岩も松下も人間の本質を考えて商人の在り方、経営の在り方を説いた。人間の本質から考えるのは世界のすべての偉大な思想家に共通している。

 『都鄙問答』を読むと石田梅岩がいかに大思想家であるかがわかる。江戸時代の梅岩の思想から、閉塞と停滞に沈む現代日本経済の処方箋が得られるかもしれない。

令和3年2月15日

第70回 半藤一利と反薩長史観

 小説よりも面白く読める『昭和史1926-1945』、『昭和史 戦後編1945-1989』、『日本の一番長い日』、『幕末史』など、日本近現代史に関する多くのベストセラーを著してきた半藤一利さんが亡くなった。

 半藤さんは反薩長史観をもっていた。日本の近現代史は、幕末の権力闘争の勝者である薩長史観で全国民に教えられてきた。薩長が正義の改革派であり、幕府は頑迷固陋な守旧派としてえがかれる。半藤さんは、これは公平な史観ではないと異議を唱える。

 半藤さんは故郷新潟県長岡市で子供の頃、祖母から「明治新政府だの、勲一等や二等の高位高官だのとエバッテおるやつが、東京サにはいっぺえおるがの、あの薩長なんて連中はそもそもが泥棒そのものなんだて。7万5千石の長岡藩に無理やり喧嘩しかけおって、5万石を奪い取っていってしもうた。連中のいう尊皇だなんて、泥棒の屁みたいな理屈さネ」と、何度も聞かされた。

 確かに、幕末の1867年幕府はすでに大政を奉還しており、朝廷も攘夷から開国の方針に変えていたので、開国の統一した国策のもと、幕府を倒さなくても共和制による新しい国づくりが可能だった。しかし、薩長はあくまで武力によって政権を奪おうとした。薩長は鳥羽・伏見の局地戦に勝ったが、将軍慶喜が恭順に徹底したため、幕府と本格的に戦えず、会津、長岡等東北の諸藩に無理やりに戦争をしかけた。この戊辰戦争はしなくてもよかっただろう。東北の諸藩はいつのまにか賊軍とされ、恨みのみ残った。

 半藤さんは東京生まれの作家永井荷風の薩長罵倒のことばを紹介している。「薩長土肥の浪士は実行すべからざる攘夷論を称え、巧みに錦旗を擁して江戸幕府を顚覆したれども、もとこれ文華を有せざる蛮族なり」、「明治以後日本人の悪くなりし原因は権謀に富みし薩長人の天下を取りし為なること、今更のように痛歎せられるなり」、「大日本帝国は薩長がつくり、薩長が滅ぼした」など。

 吉田松陰の門下生とその思想の流れを汲む者たちによってつくられた明治国家が、松陰の教えを忠実に実現せんと、アジアの諸国を侵略し、それが仇となって昭和には国を滅ぼしてしまった。しかもそれはたった90年間であったと半藤さんは言う。松陰は獄中で『幽囚録』に「蝦夷を開墾して諸侯を封建し、カムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球を諭して国内諸侯と同じように参勤させ、朝鮮を攻めて古代のように質と貢を納めさせ、北は満州の地を割(さ)き、南は台湾、ルソンの諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし」と書き残している。

 戦争中は排外的な神国思想があり、世界に冠たる民族意識があり、八紘一宇の理想の下にアジアの盟主たるべく運命づけられた国民という思い上がった考えがあった。それが「薩長史観」の行きつくところであった、と半藤さんは言う。

 そして、強い外圧を受けて既存の流儀で立ち行かなくなったとき、日本人は高揚し、一つの方向に意志を統一するが、きまってそれは攘夷の精神となって現れる。それがいかに危険なことかは幕末史、そして昭和の戦前史がきちっと語ってくれている。今後の日本を考えるとき、われわれは、感情的情緒的にならず、情報や情勢を冷静に分析し、日本という国の国力の限界をしっかりと見定め、今は何がいちばん大切か判断するリアリズムに徹しなければならない、私の好きな勝海舟のように、と半藤さんは言い残している。

令和3年2月1日

第69回 『武士の娘』

 杉本鉞子(えつこ)は1873年(明治6年)、旧越後長岡藩の家老稲垣茂光の末子として生まれ、武士の娘として厳格に育てられた。26歳のとき兄の友人で米国に住む貿易商杉本松雄と結婚するために渡米。二人の娘に恵まれ12年幸福に暮らしたが、夫の事業失敗を期に帰国。その直後夫が急死。1916年アメリカを懐しがる二人の娘を連れて再渡米。ニューヨークに住んで執筆した自伝的エッセイ『A Daughter of the Samurai(武士の娘)』がベストセラーとなった。1920年から7年間コロンビア大学で日本語と日本文化の講座をもつ。1927年帰国し、1950年76歳で没した。

 『武士の娘』は単なる自伝にとどまらず、日米両文化の生活を体験した杉本鉞子の生きた比較文化論ともなっており、随所に日米両文化に関する深い考察が見られる。鉞子はアメリカ文化を理解し、成長していくが、日本の伝統的武士文化を否定せず、それに誇りと愛情をもっていることが伺える。

 鉞子は子供の頃から女が男に劣ると教え込まれ、それを疑ったことはなかった。しかし東京に出て女学校で学ぶうちに疑問をもつようになった。家では神様を祀る神棚のことはすべて男の手でなされ、女は穢れているとして手を触れることができなかった。あるとき父に、祖母でも穢れているのか、祖母は父があれほど大事にしている人だからそんなことはないでしょう、と問うた。父は、そういうふうに考えればいいんだよ、けれども、小さい時から教えられた女の道というものを忘れてはなりません。あの教えこそ、何代も何代も時が経つ中にお祖母さまのような立派な婦人を造ってくれたものなのだよ、と鉞子に答えた。

 アメリカで生活して、鉞子は日本の文化は感情を表に出さないことをよしとする文化だと強く思うようになった。日本人は過去幾代にもわたって、感情を強く表に表すことは品位を落とし、威厳を損なうと教えられてきた。感情のすべてに、礼儀作法という枷をかけており、特に妻は厳しい礼儀作法に従って身を処していくことを大きな誇りとしている。この礼儀作法に従ってこそ得られる威厳と謙遜が、最大の栄誉とされる。

 そして、婦人が自由で優勢なこのアメリカで、威厳も教養もあり、一家の主婦であり、母である婦人が金銭に関する権限と責任を与えられておらず、夫に金銭をねだったりするのが信じられないと書いている。日本では古い習慣に従って女は一度嫁すと、夫はもちろん、家族全体の幸福と責任をもつよう教育されている。妻は家の主婦として、自ら判断して一家の支出を司っていたと記している。

 祖母はアメリカに行く鉞子に、14歳でこの家に嫁いだ体験を言い聞かせたが、鉞子は武士の躾をうけた者は、どのようなことにも処してゆけるものだということを悟らされたという。

 鉞子は武士道文化に誇りをもっているが、一方的な礼賛はしていない。日本の男性は伝統の絆に縛られて、その顔に仮面をかぶせ、唇をつぐみ、動作をはばまれて、その胸にあふれる愛情を表現する機会に恵まれていないことを残念に思う、と書いている。

 鉞子はアメリカを素晴らしい、忙しい、実際的な国だと言い、アメリカが日本によく似ていることに気づいたという。そして最後に、西洋でも東洋でも人情に変わりないことを知ったと記している。

令和3年1月15日

第68回 日本文明について

 日本国史学会代表理事で美術史家の田中英道は、フィレンツェでイタリアの高名な人類学者のフォスコ・マライニー(1912-2004)にこう言われた。「日本には大変なショックを受けました。日本は私を目覚めさせたのです。西洋人のキリスト教や古典学に依拠しないで、立派な文明をもっている国が、そこにあったからです。どちらを向いても道徳的一貫性、正義感、精神的な成熟さを示す人々に出会うことができました。そこで、西洋のキリスト教が最高の宗教ではなく、相対的、歴史的な存在だと知らされました。どの宗教、どの哲学も、人間の存在、時間、死、悪を説明する試みの一つにすぎないのだと。日本人は自分たちのすぐれた考えを、西洋人に向かって書物で広く知らせているわけではないけれど、日本に行ってみるとそれを実践しているのです。そうした日本という国の存在自体が、西洋に挑戦を突きつけているのです。日本という国は、その世界地図に占める小さな位置よりも、はるかに大きな存在なのです---」と。

 フランス文化、イタリア文化をはじめとする西洋文化の研究者だった田中氏はその後日本文化の研究を始め、日本と外国との比較を通して理解される日本文化の質の高さ、日本の歴史の独自性を『新しい日本史観の確立』、『日本の歴史 本当は何がすごいのか』などで発表していった。

 民俗学・比較文明学の故・梅棹忠夫(1920-2010)は、西ヨーロッパと日本は歴史的、地理的に条件が似ていたため、文明が平行して進化したという「文明の生態史観」を唱えた。梅棹はアジア、ヨーロッパ、北アフリカを含む全旧世界を第一地域と第二地域に分ける。第一地域は西ヨーロッパと日本。西ヨーロッパと日本は、はるかに東西に離れているにもかかわらず、封建制度を経験するなど両者のたどった歴史の型はよく似ている。第二地域は第一地域にはさまれた全大陸であり、広大な乾燥地帯を含む。乾燥地帯は暴力の源泉で、第二地域は古代文明を発生させながら、この地域の歴史は破壊と征服が顕著である。梅棹は言う。第一地域は恵まれた地域だった。中緯度の温帯、適度の雨量、高い土地の生産力、豊富な森林。この地帯は辺境のゆえ、中央アジア的暴力が及ばず、第二地域からの攻撃と破壊を免れてぬくぬくと育ち、何回かの脱皮をして今日に至った、と。

 また、ドナルド・キーンは言う。「近世の初め、徳川初期のヨーロッパ人は日本を見て、日本の文化はだいたいヨーロッパの文化と同じ水準に達していると言っていました。もっと客観的に考えますと、当時の日本文化の水準は、あらゆる点でヨーロッパよりはるかに上だったと私は考えています」、「近世の日本ではヨーロッパのどの国よりも本を読む人が多く、おそらく日本の読書人口は世界で一番多かった」と。

 しかし、二百数十年後の幕末、ペリー来航によって西欧文明に直面して開国した日本は、強力な西欧文明の優越性を認め、文明開化と称してこれを学び、その導入に邁進した。それはまた日本の近代化でもあった。科学技術、医学、軍事、憲法、政治制度、経済制度、学制、哲学、文学、思想など文明にかかわるあらゆるものを西欧に学び、取捨選択して吸収した。

 現代日本文明は、江戸期の文明に比べて高度に西欧化の進んだ文明となった。しかし日本文明が西欧文明化したわけではない。日本文明が西欧文明との接触で、伝統を維持しつつ発展したのである。

令和3年1月1日

第67回 苛酷な中国文明

 我々日本人が中国人、中国文明を理解するのは難しい。古来、文明は中国よりもたらされ、日本人は中国に敬意を抱いてきた。中国は「己れの欲せざる所は、人に施すなかれ」(『論語』)といった、人倫の基本を説く孔子のような聖人を生む国だった。しかし現代中国はこうしたイメージからほど遠い。

 中国は民主主義者を弾圧し、人権を無視する。天安門事件など政府に不都合な事実はなかったことにする。「南シナ海の中国の領有権主張は法的根拠なし」という国際仲裁裁判所の判決を、こんな判決は紙くずにすぎないと平然と無視する。

 中国の史書『資治通鑑』を精読して『本当に残酷な中国史』を著した麻生川静男は言う。現在の中国の政治・社会を支配する基本理念は、我々が知っている中国古典の世界ではない。中国は4世紀の晋以降、漢民族と異民族が混在する世界となり、それ以前の時代と様変わりした。長期にわたる異民族との苛烈な闘争を経て、徳治や仁義といった政治倫理が地に落ち、詐術と武力が支配原理となった。それ以降現代に至るまでの千五百年間は、根本部分において中国は変わっていない。現代中国人は『論語』の時代の中国人と「類」が異なる、と。

 麻生川は『資治通鑑』を読まずして中国人を理解するのは不可能と言う。毛沢東は史書を好み、特に『資治通鑑』を愛読した。毛沢東の言動や策略には『資治通鑑』のエッセンスが極めて忠実に反映されているという。

 『資治通鑑』は北宋の司馬光(1019-1086)がリーダーとなって、数十人の編纂チームが20年かけて書いた1万ページに及ぶ大部の歴史書である。史実に忠実であることを旨とし、官吏の底なしの苛斂誅求、桁違いの賄賂政治、盗賊や軍閥の理不尽な寇掠と暴行、食人の風習、無実の罪をでっち上げて臣下を次々と殺す暴君、前王朝の一族及びその子孫及び高官の一族全員を処刑した新君主、重病だがまだ生きている多くの人を既に死体となった人とともに焼却し、「洗城」してしまった武将、賊軍だけでなく官軍からも財産を気ままに収奪され、簡単に生命を奪われる民衆の悲惨、等々中国の残酷な歴史が詳しく書かれている。

 麻生川は歴史に頻出する中国人の策略を紹介している。表では友好を装い、裏では陥れる策を練る。奸計で無実の人を陥れる。義を守るためには汚い手段も辞さない。面子を守るためには不正、不義も断行する、など。特に面子へのこだわりは徹底している。社会的地位の高い人間の面子のためには、下女の二、三人(あるいはもっと多く)が死んでも全く痛痒を感じないのが中国の伝統であり、それは現在も脈々と受け継がれている。

 中国は「騙される方が騙すより悪い」という社会である。『資治通鑑』も、人を信頼して殺され破滅した事例に満ちている。麻生川は言う。真心を尽くせば必ずわかってもらえると策もなく対応するのは、中国においては無謀以外の何ものでもない。軽々しく人を信じず、謀略を巡らす必要がある。

 『資治通鑑』には、自己の生命を賭して義を貫いた人も多く書かれている。中国人は日本人の想像を絶する異民族とのすさまじい寇掠を生き抜いてきたたくましさがある。現実の中国と向き合う前に『資治通鑑』のような史書を読み、彼らの思考体系の一端を把握することが、「平和国家」の僥倖に恵まれた日本人に必要である、と麻生川氏は言う。

令和2年12月15日

第66回 言霊(ことだま)について

 言霊(ことだま)とは言葉に宿る不思議な霊力のこと。古代日本人は、発せられた言葉には霊力が宿り、言葉を発すればその言葉通りのことが起こると信じた。これを言霊信仰という。

 日本の伝統である神道は言霊信仰の宗教である。春日大社の宮司だった故・葉室頼昭さんは言う、「昔から言葉には霊力があるんです。だからいい言葉を言えば幸せになるし、悪い言葉を言えば不幸がやってくる。こういうことはみんな本当なんですよ」。

 古くから日本は「言霊の幸はふ国」と言われ、紀貫之が「言霊はあめつちをもうごかす」と言うほど、言霊信仰は広く行き渡っていた。日本語の「コト」は、言葉の「コト」でもあり、同時に「事(コト)」でもある。言葉と事物は一つである。

 言葉が現実化するという思想は、実は神道だけのものではない。世界的な広がりをもつ。その代表例はキリスト教の聖書にある。ヨハネによる福音書の冒頭に「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった」と記されている。キリスト教の神は宇宙万物の創造主であるから、言葉が宇宙万物を創造したと言っていることになる。

 言霊信仰はジョセフ・マーフィの潜在意識論とつながる。人間の意識の下には広大な潜在意識があり、この潜在意識には無限の知恵と創造力がある。心から信じる思いを潜在意識が完全に受け入れると、潜在意識がその思いを現実化するという。思いを潜在意識まで浸透させる手段が暗示であり、言葉である。言葉を繰り返し発することによって言葉のもつ思想が完全に潜在意識に受容されると、自然に現実化する。  

 私は自分の体験から、言霊思想も潜在意識論も概ね信じている。統一哲医学会(後の天風会)の創始者中村天風(1876-1968)も言葉の霊力を信じていた。天風は心身統一法で言葉のもつ強い力を説いている。「真理に従って人生を生きるには、その一語一語の言葉のすべてが人生に影響する暗示となるという宇宙真理を絶対に忘れず、努めて積極的な言葉を使う習慣を作るようにしなければならない」。

 我々にあまり自覚はないが、現代日本の習慣に言霊信仰は生きている。縁起の悪い、不吉なことを連想する言葉を避け、縁起の良い言葉を好んで使う。子供に名づけるとき、不幸を連想するような名前は絶対に選ばない。良い、明るい、幸福をもたらすような名前とする。子供が言霊の力により名前どおり幸福になることを願って命名するのである。

 ネットで「言霊」を検索すると、多くの人のブログに実際に実践した結果「言霊」を信じるようになった事例が載せられている。幸運を引き寄せる言葉として、「すべてがうまくいっている」、「ありがとう」、「感謝します」、「おかげさまで」、「ついている」、「幸せだ」、「許します」などが挙げられ、こうした良い言葉を繰り返し積極的に使い続けると自分を取り巻く環境が好転し、幸運がもたらされるようになったという体験が述べられている。

 日本語は人を罵り、罵倒する語彙が英語、中国語、韓国語に比べて格段に少ないと聞く。良い言葉を使うことは、日本の良き伝統であり、良き習俗であり、立派な倫理であるとの自覚をもって生きていきたい。

令和2年12月1日

第65回 偉大な弘法大師空海

 弘法大師空海(774-835)は、昔より「お大師さん」として日本の庶民に親しまれ、信仰されてきた平安時代の高僧である。日本の仏教は一般的に鎌倉時代になって法然、親鸞、道元、日蓮などによって仏教として成熟し(鎌倉新仏教)、庶民に広まったとされ、それ以前の仏教は鎮護国家思想としてあまり高く評価されずにきた。

 しかし私は、平安時代の弘法大師空海こそ釈尊以来仏教史に出現した世界的な巨人で、日本仏教の到達した最高の人であったと思う。

 空海は日本真言宗の開祖であるが、空海の偉大さは一宗派の開祖にとどまらない。釈尊の始めた仏教は発展して数百年後に大乗仏教を生んだが、インドにおける大乗仏教の最後の発展形態が密教であり、空海は密教の完成者であった。

 空海の教えの中心は、「即身成仏」思想とその実践体系にある。即身成仏とは親からもらった身体のままで仏になることである。仏になるということは、「さと(覚)る」ということ。「覚り」を得て煩悩、苦しみから解脱する教えが仏教であるが、覚者となった釈尊のあまりの偉大さゆえ、凡夫が覚りを得るには無限の時間の修行を要し、生きているうちに覚者になるのは事実上不可能との考えが、密教以前の大乗仏教で支配的となっていた。これに対し、密教では誰でも生きている身体のまま速やかに覚者(仏)になれると説き、その実践方法を述べている。

 空海は、人は三密業によって即身成仏するという。三密業とは、身密(身体の活動)、語密(言葉の活動)および意密(精神の活動)である。実践者は、身密、語密、及び意密を大日如来(仏)になったように実践する。すなわち、手に印契を結び、口に真言を唱え、仏と同じように瞑想すると、大日如来と自己との間で加持が働き、成仏する。加持は、大日如来の慈悲と自己の信心との共鳴である。

 文藝春秋社の創始者で作家の菊池寛は言う。「日本の精神界の偉人として、また故国讃岐の大先覚者としての弘法大師の事績に親しんでいるうちに、だんだんその教理方面にまで心が引き入れられてきた。その教理の骨格をなす即身成仏ということばほど、大きな自尊心を人間に与えるものはあるまいと思う。文芸も宗教も科学も、一切がここに落ちつくような気がする。浄土教では極楽に行ってから成仏すると教えるそうだが、現世で成仏する方が、我々には意義深い。この即身成仏思想は、仏教を最も偉大な宗教にしている。その意味で弘法大師の教義は実に雄大だと思う」。

 空海の密教思想は、遠い平安時代の昔より、現在に至る日本人の宗教意識に大きな影響を与えてきた。密教では、現実世界(自然)は宇宙仏たる大日如来を象徴するものとして聖化される。宇宙は大日如来の身体であり、自然は大日如来の聖なる生命の充満する世界である。こうした密教思想が、自然を生命にあふれる世界と見る日本人の意識を育んできた。

 空海は万能の天才であった。空海の衆生済度活動は宗教にとどまらず、四国満濃池の築堤、庶民のための最初の学校である綜芸種智院の創設などに及んでいる。

 弘法大師空海は日本文化の恩人であり、日本の誇りである。空海の思想と事績は我々を勇気づけ、我々に限りない可能性があることを教えてくれる。国力低下の懸念される令和の日本に希望と力を与えてくれる。

令和2年11月15日

第64回 石坂泰三の気骨と教養

 石坂泰三(1886-1975)は、戦後日本経済が力強く高度成長を始める頃の1956年から12年間、経団連会長を務めた。石坂は自由主義経済を信奉し、大局観をもち、産業界、政界に歯切れよく言いにくいことも言う、存在感のある日本経済のリーダーであり、人は彼を財界総理と呼んだ。

 石坂は明治19年の東京生まれ。旧制一高、東京帝国大学法科を卒業して逓信省の官僚となった。しかし、4年後退官し、当時業界13番目くらいの小さい保険会社だった第一生命に入社した。石坂は矢野社長とともに第一生命を育て、石坂が社長になった1938年~1947年の頃には、第一生命は日本生命とならぶ、日本を代表する保険会社に成長していた。

 終戦後浪人中の石坂は、三井銀行頭取の佐藤喜一郎と東芝社長の津守豊治の強い要請を受け、1949年再建ために東芝社長に就任する。東芝は当時、大労働争議のため労使が激突し倒産の危機にあった。石坂は、真正面から組合と交渉し、6千人を人員整理、東芝再建に成功する。

 1956年70歳の石坂は第2代経団連会長に就任した。石坂は国家による経済の統制や産業保護政策に反対で、資本・技術の自由化を進め、日本経済は力強く成長した。1965年79歳のとき大阪万博の会長を引き受けた。大阪万博は史上最多の入場者と史上初の黒字を計上して閉幕した。石坂は1975年(昭和50年)89歳で死去したが、その頃日本は世界第2位の経済大国になっていた。

 石坂は気骨ある自由人だった。終戦後日本を統治したGHQは日比谷の第一生命ビルをオフィスとして使用したが、マッカーサーはここをいたく気に入り、かつてオフィスの主人だった第一生命の社長に会いたいと思うようになった。マッカーサーの意向を忖度する者より、この意向が事実上の出頭命令のように石坂に伝えられた。石坂は、「行かねえよ」、「用事があれば、こっちへくればよい」とにべもなく言い、出頭することはなかった。

 池田内閣時代の高度成長が過熱気味になったとき、日銀総裁山際正道は、企業経営者たちを集めて、設備投資の一割削減を要請する講演を行った。これが石坂の癪にさわった。石坂は、「自由経済の下では、設備投資をどうするかは、われわれ経営者が考えればいいことで、政府が決める問題ではない。ましてや、日銀総裁の仕事なんかじゃない。日銀総裁は金融政策に取り組み、公定歩合をどうするかだけ考えればいい。むしろ、コンピューター君を総裁にすればいいんだ」と言い放った。

 こうした剛直で気骨ある経済人石坂泰三は、和漢洋の深い教養をもつ人だった。子供の頃から和漢の古典を読み、一高時代からは、テニスン、カーライル、エマーソン、バイロン、スコット、シラーなどに親しんだ。石坂は外国の要人に尊敬され、信頼された国際人だった。同時通訳の村松増美は、「財界人の中で、格調高く教養がにじみ出る英語を使う点では、石坂さんがナンバーワンだった」との言葉を残している。

 石坂に最も深く信頼された第4代経団連会長土光敏夫は石坂を、まれに見るほど純真な明治生まれの人で、心が大きく、堂々として、決断力に富み、澄み切った自由の精神で戦後の日本経済を指導した、と評した。

 国力の興隆は人に依る。石坂は日本の国力が興隆する昭和の日本人の力を象徴する。令和の日本にも、石坂泰三ほどの卓越した総合力をもった経済人がいるのだろうか。

令和2年11月1日

第63回 保科正之と江戸城天守閣

 保科正之をご存じだろうか。徳川光圀、池田光政と共に江戸時代初期の三大名君といわれた、会津の初代藩主である。しかし、保科正之は光圀や光政をはるかに超える名君だったように思われる。

 保科正之(1611-1673)は2代将軍徳川秀忠の庶子として生まれた。7歳のとき信州高遠藩主保科正光の養子となり、信州で育つ。21歳のとき養父正光が死に、3万石の高遠藩主となった。秀忠を継いだ3代将軍家光は、異母弟である正之の謙虚な人柄と優れた能力を認め、正之を取り立てていった。1636年、正之26歳のとき出羽山形領20万石を与え、高遠から転封させた。さらにその7年後、陸奥会津に国替えを命じ、正之を奥羽地方の要所23万石の会津藩主に据えた。

 家光は1651年に死ぬが、臨終の時、最も信頼する正之を枕元に呼び「家綱を頼むぞ」と、11歳の幼いわが子家綱を正之に託した。以後正之は4代将軍家綱の後見人として、家綱と幕府に尽くす。当時の老中等幕閣は極めて公正な判断力をもつ正之を深く信頼したので、正之は彼らの上に立つ幕府の大老のような存在として幕政に参画した。

 正之の数ある善政から幾つか拾うと、正之はまず末期養子を認め、社会の安定化を図った。末期養子とは、跡継ぎのいない大名が死の間際に養子を迎えてお家の存続を図ることで、幕府はこれを禁じ、跡継ぎのいない大名を多く取り潰してきた。結果、浪人が全国にあふれ、社会不安を起こしていた。

 次に正之は殉死を禁止した。主君が死んだとき、特に恩顧を受けた家臣が主君に殉じて切腹する風習は、戦国時代に発し、江戸時代には忠義の美風として暗に賞賛される傾向さえ生じていた。正之は、これを悪習と断定。まず国元の会津藩で殉死を禁止。続いて幕政においてもこれを禁じた。

 1675年江戸は史上空前の大火災に見舞われた(明暦の大火)。江戸市街の6割が焼き尽くされ、焼死者10万人に及んだ。正之は江戸の復興にリーダーシップを発揮。江戸市民の家屋の再建費として16万両の拠出を決した。巨大な出費で幕府の金庫が空になると恐れる幕閣に、官倉の蓄えはまさにこのような時に使うためにあると言った。また、正之は火事で焼け落ちた江戸城天守閣の再建をさせなかった。市民の救済対策、都市整備等民政を優先した。

 以来今日に至るまで江戸城(現皇居)に天守閣は再建されていない。石垣の天守台があるだけである。最近宮内庁が天守閣の30分の1の復元模型を公開した。民間の一部に、東京の観光拠点として天守閣を再建する運動があるが、私は反対する。天守閣が再建されなかった歴史に意義があると思う。天守閣のない石垣の天守台こそ、保科正之の事績を知り、江戸・東京の歴史を知る深みのある観光資源である。

 晩年正之は会津藩主として、「他藩がどうであろうと、会津藩は将軍家へ絶対的に忠誠を尽くすこと」、「政事は、利害をもって道理を曲げてはならない」、などから成る『会津藩家訓15箇条』を定めた。この家訓は代々受け継がれ、会津藩の憲法となった。この家訓のゆえ、幕末の動乱期に会津藩は佐幕の雄藩となり、戊辰戦争で薩長と戦い、敗れ、薩長の維新政府から朝敵として迫害される悲哀を味わった。しかし会津は、後に東大総長(2回)・京大総長などを歴任する山川健次郎や、北清事変で世界的な名声を博した軍人柴五郎をはじめとする多くの卓越した日本人を輩出した。こうした人の中に、藩祖保科正之の敷いた会津士魂が見いだされる。

令和2年10月15日

第62回 台湾と日本

 台湾が新型コロナウィルス対策に成功し、世界の民主主義国から賞賛されている。

 台湾はどのようにして成功したか。それは感染症対策の常道である検疫(水際対策)と隔離を、迅速に徹底して行ったことに尽きる。昨年12月武漢市で新型の感染症が発生したらしいという情報を得た台湾は、12月31日より武漢市からの直行便の乗客に対する厳しい検疫を開始した。今年1月の始め専門家2名を武漢に派遣して調査、危険な感染症であることを確信した。そして1月26日には湖北省から来る中国人の入国禁止、2月6日には中国全土からの入国の全面禁止に踏み切った。

 3月中旬から欧米で爆発的に感染が拡大した。台湾は入国制限を順次拡大し、3月19日にはすべての外国人の入国を禁止した。台湾人の帰国はピーク時一日数千人に達したが、帰国者に対する検疫と隔離を徹底して実行した。最大時で5万人に達した管理対象者の健康状態を追跡し、感染者とその濃厚接触者の特定と追跡(疫学調査)を徹底した。こうして台湾は新型コロナ感染第二波の押さえ込みにも成功した。9月17日時点で感染者累計503人、死亡者7人に過ぎず、新規感染者は4月中旬以来ほとんど発生していない。なお、世界の感染者累計数は約3千万人に達し、死亡者94万人、日本の感染者累計7万7千人、死亡者1,482人でまだ増え続けている。

 台湾は、民主主義でコロナ禍の非常事態にも行政がよく機能する、立派な国になったと思う。台湾は中国の圧力で、世界の主要国から国家として認められていないが、台湾こそ国家らしい国家である。国民の政治参加の意思は極めて高く、2020年1月の総統選挙の投票率は75%を超えた。日本と違い、若者の投票率が高い。

 台湾の「国家」の歴史は紆余曲折している。中国は「台湾は中国の不可分の領土であり、中国は一つしかない」と主張するが、中華人民共和国の台湾支配を正当化する歴史的根拠があるわけはない。また、李登輝が総統になった頃から台湾人の自己認識が変わった。1992年、自分を台湾人と自己認識する人は17.6%、中国人と認識する人は25.5%、台湾人でもあり中国人でもあるとする人は46.4%であったが、2019年の調査では、台湾人と認識する人58.5%に増加、中国人と認識する人3.5%、台湾人でもあり中国人でもあるは34.7%となっている。若い人ほど台湾人であると認識する比率が高い。こうした帰属意識調査をみると、台湾は中国とは別の独立した国家と考えるのが自然である。

 コロナ禍で、アメリカだけでなく、ヨーロッパでも嫌中国、親台湾の感情が生じている。チェコ上院議長ビストルチルらの台湾訪問はその現れである。訪問に反対する中国の外相王毅の「深刻な代償を払わせる」といった発言に、ヨーロッパ各国が反発している。

 台湾と最も連携すべきは日本である。台湾はかつて日本の統治下にあった。日本の統治のすべてを悪とするような韓国人と異なり、台湾人は日本の統治の非は非とし、是は是とする。客観的な評価をする人たちである。その結果、日本をよく理解する希有な親日国となっている。現総統蔡英文は「日本と安全保障などについて話し合いたい」と言っている。日本は価値観を共有する台湾と連携を深めるのがよい。日本はすでに中国から国家の存立を深刻に脅かされていると知るべきである。

令和2年10月1日

第61回 天安門事件と日中関係

 新型コロナウィルスがパンデミックを引き起こし、中国が世界から非難されている。これに関連して、私は31年前の天安門事件を思い出す。

 1989年、民主的な改革を進めようとしていた総書記胡耀邦が死去し、学生・青年らが北京天安門広場での追悼集会に集まった。集会は50万人にも膨らみ、民主化要求のデモとなった。最高指導者鄧小平はこれに危機感を抱き、軍隊を投入してこれを弾圧。人民解放軍戦車が広場に入り、集結する学生・青年に銃口を向け、乱射した。党は学生らの死亡数を319名としたが、世界のメディアは3千人にのぼる学生らが殺されたと見ている。

 欧米諸国は中国を非難し、天安門事件に対して経済制裁で応じた。日本もこれに参加したが、一年で制裁を解いた。日本の海部首相は西側首脳として事件後初めて訪中し、ODAを再開した。そして宮沢内閣は1992年天皇陛下の訪中を実現させた。

 天安門事件後の後遺症を克服するために、1992年、鄧小平は市場経済の大幅な容認政策を打ち出した。これは共産党の独裁のもとで、中国が資本主義国となるのを認めるようなもので、中国は以後大きな経済発展を遂げることになる。

 中国経済は1992-2011年の20年間は年平均10%、その後2019年まで年平均7%の高成長を遂げた。GDP(名目)は2019年には14兆ドルに達し、1992年の28倍となった。日本を抜いて世界第2の経済大国となり、2019年には日本のGDPの2.7倍に達している。

 軍備の増強も著しく、中国の軍事費は2018年には2億5千万ドルまで増大、アメリカ(6億5千万ドル)に次ぐ軍事大国となった。中国の軍事費は1992年から2018年まで26倍となったが、この間日本の軍事費の増加は1.14倍に過ぎない。科学技術力も、軍事、宇宙、通信、情報等の分野において日本を大きくリードしている。

 天安門事件から31年、日中の力関係は全く変わった。日本は今、強大化した覇権国家中国の脅威にさらされた、弱小国である。天安門事件の頃のように、西側諸国に対して中国を弁護するような力は今の日本にはなく、またそんな必要もない。

 中国はかつてのソ連や今の北朝鮮と同様、非常に問題のある国である。民主主義で国を治めることができない。中国共産党による独裁は、統治のために人権を平然と無視する。経済成長で自信をつけた中国は、民主主義を西欧の思想にすぎないと、確信をもって否定するようになった。

 今回のコロナ禍で世界、特に西側民主主義国は中国の異質性をはっきり知ったと思う。真実を隠蔽し、プロパガンダに長け、不都合な事実は平然と否定し、ウソを言う。習近平の中国は自由と民主主義に挑戦して、世界を変えようとしている。

 安倍首相退任を受けた新政権の最大の課題は中国との関係である。天安門事件後のように日本が中国にすり寄れば、西側民主主義国に軽蔑され、日本は孤立し、日米同盟にも亀裂が入るだろう。民主主義国と中国との対立は、普遍的な価値観にかかわる対立である。日本は自由と民主主義の国として誇りをもち、毅然として中国とは一線を画した関係に終始すべきである。

令和2年9月15日

第60回 李登輝と武士道

 台湾の元総統李登輝が今年の7月30日死去した。97歳だった。李登輝は台湾が日本の統治下にあった1923年台北州に生まれ、旧制台北高校卒業後、京都帝国大学に進学し農業経済学を学んだ。1944年学徒出陣により出征し、陸軍少尉として終戦を迎えた。戦後台湾にもどり、台湾大学を卒業。その後二度にわたってアメリカに留学し、1968年コーネル大学で農業経済学の博士号を得て帰国。台湾大学教授兼中国農業復興聯合委員会(農復会)技師に就任した。

 1971年蒋経国に勧められて、国民党に入党。蒋経国が行政院長に就任すると農業専門の政務委員として入閣した。1984年には総統に就任していた蒋経国より、副総統に指名された。1988年蒋経国総統の死去に伴って、1990年から2000年まで、2期にわたり、台湾出身者として初めての総統となった。

 李登輝は台湾の民主化を積極的に進めた。その民主化は静かな革命だった。1996年、総統直接選挙を実施し、台湾史上初めて台湾人が自ら選ぶ総統となった。中国は、李登輝の主導した一連の政治改革や直接選挙の実施が台湾独立につながると反発し、台湾周辺海域にミサイルを発射して威嚇したが、李登輝はこうした中国の圧力に毅然と対応した。

 李登輝は総統退任後、台湾独立の姿勢を強めた。「台湾は主権国家」だと発言し、台中関係を「特殊な国と国との関係」とする二国論を展開した。2012年以降民進党の蔡英文(現総統)を支持した。蔡英文は李登輝の死去に際し、「台湾の民主化における貢献はかけがえのないものだった」と述べた。

 「22歳まで僕は日本人だった」、「僕は戦後の日本人が失った純粋な日本精神を、今も持ち続けている。だから政治の苦難も乗り越えられた」と言う李登輝は、戦前の日本の良き教養教育が生んだ最高の人格であったとの思いがする。

 李登輝は『武士道解題』という著書を残しているが、これを読むと、李登輝の教養の広さと深さに驚嘆する。李登輝は旧制中学及び高校時代、西田幾多郎(『善の研究』)、阿部次郎(『三太郎の日記』)、カーライル(『衣装哲学』)、カント(『純粋理性批判』、『実践理性批判』)、ゲーテ(『ファウスト』)、鈴木大拙(『禅と日本文化』、『教行心証』の英訳)、倉田百三(『出家とその弟子』)、新渡戸稲造(『武士道』)などを熟読して、人格を形成した。

 李登輝は言う、台湾の総統時代の12年間、いかなる思いで「公」のために奉じてきたか、そして何の未練もなく後進に道を譲ったのか、これらの答えはすべてかつての「日本の教育」に土台を置いた「大和魂」すなわち「武士道精神」にこそあった、と。

 李登輝のような親日的な台湾要人の日本訪問を、日本政府は、中国の圧力に屈してしばしば拒んだ情けない歴史をもつ。1994年、広島でのアジア大会に招待された李登輝が出席を表明すると、中国から日本に猛烈な圧力がかかり、招待は取り消された。また、2001年李登輝が心臓病の治療のために来日を希望したが、当初日本政府は中国に忖度してビザ発給を認めなかった。これには反対論があり、最終的には人道的措置としてビザが発給されたが、こうした日本政府の対応は、三流国と言わざるを得ない。

 李登輝は戦後の日本が自信を失い、卑屈になったと憂慮していた。李登輝は、「日本には武士道という世界一すばらしい精神的支柱がある」、「日本人よ武士道を忘れるな」と繰り返し述べている。

令和2年9月1日

第59回 日本人の国家意識の欠如

 外交評論家加瀬英明は、国民の国家意識の欠落こそがわが国の危機であると言う。そして、国家意識が希薄になっているのは、日本にふさわしくない憲法を戴いてきたためで、国民に日本が国家であるという覚悟がないから、国民が憲法に真剣な関心をいだくことがない、と言う。

 また、中国から日本に帰化した石平は言う。日本には法務局や国籍管理の法律はあっても、肝心の「国家という意識」が完全に欠けている。日本という国家の重み、国家としての尊厳は一体どこにあるのか。世界中のどこの国にとっても一番大切なものだが、日本にだけは欠けている。しかし、このままでよいとは思わない。

 また、元衆議院議員の北神圭朗は、私たちは国家としての自分を見失っています、いや、「国家」という言葉さえ、違和感をもたれていますと言う。北神氏は、子供の頃からアメリカで生活し、旧大蔵省に入り、国会議員として政治活動をしてきた人であるが、米国以外の様々な国の人たちとの交流を振り返っても、やはり、わが国にはあまりにも「国家の物語」が欠落していると言わざるを得ません、と言っている。

 私が新たに言うまでもなく、日本が国をあげて戦った大東亜戦争での徹底的な敗北が、日本人に国家否定の感情をもたらした。戦後教育界に根強く存在した国旗(日の丸)と国歌(君が代)を否定する勢力は、この感情を象徴している。GHQは、軍国主義と「極端な国家主義」を鼓吹したという理由で、修身、歴史、地理の3教科を学校教育で禁じた。そして、東京裁判によって日本人は軍の指導者とともに日本の国家が裁かれたと感じた。

 国家とともに悲惨な戦争を経験した日本人は、国家意識即戦争という呪縛に陥った。本格的な国家論を避けるようになり、国家意識などもたずに生きる道を選択して、それが現在まで続いている。しかし、私も冒頭の識者が言うように、これでいいとは思わない。国家意識は日本の国の独立と生存の根本にかかわることだからである。

 かつて、社会の生産力の発展とともに国家は消滅するという社会科学の理論があった。また、経済のグロバリゼーションの進展とともに国家の役割は減るとの見方があった。しかし、昨今、グローバリゼーションはむしろ後退し、主権国家のナショナリズムがより強く出る世界となっている。

 今年コロナウィルスの拡散が世界にパンデミックを起こしているが、この対策に責任をもったのは、国連WHOでもなく、EUでもなく、各国の政府、すなわち主権国家である。どの人間集団でも生存が脅かされれば、それを救うのはその集団の属する主権国家の政府であるという当たり前のことが起きている。

 今後国家の役割と重要性が減ることはない。人類は国家を形成し、国家とともに、国家の中で生きてきた。国が乱れれば国民の生活は脅かされる。国が他国に支配されれば国民は忍従を強いられる。国民の権利、生命、財産も蹂躙され、国土は荒廃する。国が滅べば国民の歴史、文化、伝統も失われる。国民は国家と運命を共にするのである。

 戦後75年、われわれ日本人の国家意識の欠落が今なお続いているのは異常と言わなければならない。現在の日本をとりまく国際環境は、戦後間もない頃から大きく変化し、むしろ日本の国家の存立が深刻に脅かされた江戸末期の頃に近くなっている。

令和2年8月15日

第58回 松下幸之助の叡智

 松下幸之助(1894 -1989)は「経営の神様」といわれた昭和を代表する実業家である。1918年(大正7)創業した松下電気器具製作所を、一代で日本を代表するような大企業(現パナソニック株式会社、従業員数26万人、売上高7兆5千億円)に育て上げた。また戦後まもなくPHP研究所を設立して倫理教育に乗り出し、晩年は松下政経塾を立ちあげて、政治家の育成に情熱を傾けた。

 生家が破綻し小学校4年までしか行けず、丁稚奉公からスタートした松下の94年の生涯は、波乱に富んだ成功の立志伝である。松下電器産業は、戦前すでに日本を代表する企業の一つとなっていたが、戦後さらに成長した。1950年以降松下は長者番付で10回全国1位を記録している。最晩年には民間人として異例の勲一等旭日桐花大綬章を受賞した。

 松下の成功は、経営の神様といわれた松下の経営哲学の正しさを証明する。それは一見平凡にみえるが、本当の実践知であり、奥深い叡智であった。以下、そのいくつかを拾ってみる。

 寝ても覚めても一事に没頭するほどの熱心さから、思いもかけぬ、よき知恵が授かる。万策尽きたと思うな。なすべきことをなす勇気と、人の声を私心なく耳を傾ける謙虚さがあれば、知恵はこんこんと湧き出てくるものです。失敗することを恐れるよりも、真剣でないことを恐れたい。よく人の意見を聞く、これは経営者の第一条件です。私はどんな話でも素直に耳を傾け、吸収しようと努めました。逆境もよし、順境もよし、要はその与えられた境遇を素直に生き抜くことである。素直な心になれば、物事の実相に従って、何が正しいか、何をすべきかかということを、正しく把握できるようになる。志低ければ、怠惰に流れる。こけたら、立ちなはれ。むつかしいことはできても、平凡なことはできないというのは、本当の仕事をする姿ではない。人の長所が多く目につく人は幸せである。叱るときは、本気で叱らんと部下は可哀想やで。世の為、人の為になり、ひいては自分の為になるということやったら、必ず成就します。百人までは命令で動くかもしれないが、千人になれば頼みます、一万人になれば、拝まなければ人は動かない。企画したことが全部成功したら危ない、3度に1度失敗するくらいがちょうどいい。鳴かぬならそれもまたよしホトトギス。誠実に謙虚に、そして熱心にやることです、等。

 松下は最晩年(昭和の終り頃)『崩れゆく日本をどう救うか』という著書で、日本の根本的問題として(イ)日本人がお互いに誰が悪い、かれが悪いと非難ばかりするようになった、(ロ)誰かが何とかしてくれるだろうと、他に頼り、自分の力でやるといった自主性、独立心が薄くなった、(ハ)福祉の向上は結構だが、政府に打ち出の小槌があるわけではなく、みな国民が営々と働き、生み出した税金によって賄うのである。国民が政府にあれこれして欲しいと要望するのは本末転倒。(ニ)日本は国民の国家意識が世界で一番といってよいくらい薄い。政治が力強い指導性をもって国民の間に正しい国家意識を培養していくことが必要。政治に指導性がないのは国家百年の計を生み出すような方針、すなわち哲理がないからではなかろうか、などを挙げ、昭和の日本が行き詰まっていると述べている。

 松下が昭和の終わりに指摘した日本の問題は、平成の30年間そのまま持ち越され、令和の今深刻化している。

令和2年8月1日

第57回 渡辺和子さんと父渡辺錠太郎氏のこと

 渡辺和子さん(1927-2016)は、二・二六事件(1936)で暗殺された陸軍教育総監渡辺錠太郎の次女として生まれ、戦後、聖心女子大学卒業後、29歳のときノートルダム修道女会に入会。アメリカに派遣され、ボストンカレッジ大学院で教育学博士号を取得して帰国。1963年、36歳の若さで岡山県にあるノートルダム清心女子大学の学長に就任。長年にわたって教壇に立ち、学生を指導した。1990年学長を退任後も、2016年89歳で帰天するまで、理事長として同学園の教育に献身した。

 渡辺さんは、230万部を超えるベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』を始めとして、『面倒だからしよう』、『どんな時でも人は笑顔になれる』、『幸せのありか』などの珠玉のエッセイを残している。

 エッセイは、「時間の使い方は、そのままいのちの使い方なのです」、「与えられる物事一つひとつを、試練さえも、ありがたく両手でいただく」、「神は力に余る試練を与えない」、「不機嫌は環境破壊。笑顔でいると相手も自分も心豊かになり、不思議に物事が解決することがある」、「つらい病気をして、今まで気づかなかった他人の優しさと自分の傲慢さに気づいた」、「老いて人はより柔和で謙虚になることができる」など、カトリックのシスター(修道女)として信仰と教育に生きた渡辺さんの人格から発せられたすばらしい言葉に満ちている。

 そして渡辺さんが9歳のとき二・二六事件で殺された父錠太郎氏について、「父は9年間に一生分の愛を注いでくれた」と記している。1936年2月26日早朝、陸軍青年将校と兵士30数名が渡辺邸を襲撃したとき、父はそばで寝ていた和子さんを壁に立てかけてあった座卓の陰にそっと隠してくれた。和子さんはそこから父が機関銃で撃たれ、惨殺されるのを見た。血の海の中で死んだ父の情景は自分の目と耳に焼き付いているという。

 50歳の頃、二・二六事件で殺された側の唯一の生き証人としてどうしてもテレビに出て欲しいと頼まれ、テレビ局に行ったところ、自分に何の断りもなく、父を殺した側の兵卒が出演するため呼ばれていた。和子さんは驚き、相手側との会話もなく、テレビ局が気を利かせて出したコーヒーを「これ幸い」と思って飲もうとしたが、一滴も飲めなかった。非常に不思議な体験で、そのとき自分は今まで父を殺した人たちを恨んでいないと言ってきたが、本当は心から許していないのかもしれないと気づいた。言葉で言えても体がついていかないことがあり、「汝の敵を愛する」ことの難しさを知ったと記している。

 二・二六事件で殺害された斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、及び瀕死の重傷を負いながら奇跡的に快復した鈴木貫太郎侍従長は、皆当時の日本の第一級の人たちである。生きのびた鈴木は1945年首相となり、昭和天皇の聖断によって戦争を終結させる。

 渡辺錠太郎は読書をよくする学者武人であったが、当時の青年将校の政治化する傾向と下克上の風潮を否定し、軍人は本来職務に忠実たるべしとの強い信念をもっていた。そして軍隊は強くなければならないが、戦争だけはしない覚悟が必要であると考えていた。陸軍皇道派の青年将校らはこのような良識派の渡辺を邪魔とし、葬ったのである。惜しんで余りある死であり、愚かとしか言いようのないテロであった。

令和2年7月15日

第56回 「草木国土悉皆成仏思想」を考える

「草木国土悉皆成仏」という世界観が、日本仏教の中心思想であり、日本文化の本質をなすと昨年93歳で死去した哲学者・日本学研究者梅原猛は言う。

 「草木国土悉皆成仏」とは、人間や動物はもちろん、草木や国土も仏性をもち、成仏できる(仏になる)という思想である。梅原猛は、日本思想の原理について50年近く考え続け、80歳近くになって、それは鎌倉新仏教以来の「禅」ではなく、平安時代末期に完成した「天台本覚思想」と、その端的な表現の「草木国土悉皆成仏」であると思うに至ったという。そして梅原は、この思想が西洋哲学の限界を超えて、人類哲学の根本となりうると説く。

 「天台本覚思想」とは、天台宗が密教を取り入れて完成させた思想で、人は本来悟っており(仏であり)、現実のありのままの現象世界がそのまま仏の顕現した世界であると見る。これを一歩進めると、全ての有情(人や動物)、非情(木石など)が仏になるという「草木国土悉皆成仏」思想となる。

 「草木国土悉皆成仏」思想はインドの仏教にはない。中国で生まれ、日本で深化した。インドの本来の仏教は、草木に仏性の存在を認めない。しかし、中国天台宗の湛然は、『摩訶止観』にある「一色一香中道でないものはない」の解釈をめぐり、中道に仏性を読み込んで、非情(木石など)にも仏性があるとした。

 最澄によって日本天台宗が開かれたが、最澄の後継者たちは、非情(木石など)にも仏性がある思想を発展させ、「山川草木悉有仏性」、「草木国土悉皆成仏」といった天台本覚思想を発展させた。天台座主を務めた忠尋(1056-1138)は、「草木国土悉皆成仏」について、(1)草木は仏智の相分として、そのままで清浄、当体常住であり、仏そのものである、(2)自己の心身と国土(環境、自然)は不二一体であり、切り離せない(つながっている)。ゆえに仏身を生じれば(自己が仏となれば)、仏国土も生じて(国土が成仏)、そこに草木も成仏する、と説いている。

 「草木国土悉皆成仏」思想は、日本人にはきわめてすなおに肯定された。室町時代に始まる能や謡曲に「草木国土悉皆成仏」という言葉は頻繁に出てくる。この思想は日本の風土と日本人の感覚によく合い、日本文化の基層となってきた。

 梅原猛は、「草木国土悉皆成仏」は日本の縄文文化の伝統の上に成立したという。縄文文化は日本の豊かな自然の中で発達した高度の漁労採集文化で、なお日本文化の基調にあるという。私は日本の神道も縄文由来で、「草木国土悉皆成仏」思想も、自然を畏敬し自然を神とする神道の影響下にある思想ではないかと思っている。神道は自然道であり、起きてくる全ての現象を自然(=神)の顕現としてそのまま肯定する。

 「草木国土悉皆成仏」の根底に地上の万物、すなわち人間を含む動物、植物、さらに山、川、海、石などの自然物もすべて生きている(生命すなわち霊性をもつ)存在と見る思想が横たわっている。この伝統的な日本人の感覚の上に、自己は万物とつながって存在している、すなわち自己と環境は不二一体であるという仏教思想が加わって、「草木国土悉皆成仏」思想が深化した。

 人類が深刻な地球環境問題に直面する現在、環境(自然)は生きており人間と一体であるとする「草木国土悉皆成仏」思想は、人類のもつべき良き哲学たりうると考える。

令和2年7月1日

第55回 フランシスコ・ザビエルの書簡より

 フランシスコ・ザビエル(1506-1552)は、日本に初めてキリスト教を伝えた人である。ナバラ王国(現スペイン領)の貴族として生まれ、イグナチオ・ロヨラらと共にイエズス会を結成(1534)、キリスト教の世界宣教を目指した。インドのゴアで日本人アンジローを知り、日本への宣教を決意した。

 1549年、鹿児島に到着、宣教活動を開始した。以後、山口を中心に、平戸、京都、大分にも足を伸ばした。日本の宗教がシナ(中国)由来で、日本人のシナへの敬意を知ったザビエルは、シナへの布教を決意。1552年日本を去り、広東近くの上川島に到着して入国の機会を待ったが、病を得てここで没した。

 ザビエルはローマのイグナチオ・ロヨラを始め、ポルトガルやゴアにいるイエズス会神父らに、布教の様子を克明に知らせる書簡を多く送っている。書簡にはザビエルが当時の日本人をどう見ていたか、日本人がキリスト教をどうとらえたか、などが記されており、それを読むと日本人は470年前とほとんど変わっていないこと、キリスト教と日本人との接点において生じる本質的な問題は、全く変わっていないことがわかる。

 ザビエルは、日本人が知識欲旺盛なこと、盗みを極度に嫌うこと、道理(理性)に従うこと、名誉心が非常に強く、貧乏だが武士も平民も貧乏を恥辱だと思っていないこと、武を重んじること、たいていの日本人は字が読めること、自分が遭遇した国民の中では日本人が一番傑出している、などと記している。

 特に理性に従うことについては、「日本人は驚くほど理性に従います。ここの国民は、恥知らずの行いをしていることを知りつつ罪を犯す他の国々の者と違い、理性に反して手に負えない悪徳にふけるようなことはしません」、などと記している。理性は愛と並び、西洋で非常に重視される精神である。ザビエルは当時の日本人を理性に従う人々と見た。また、異常なくらい名誉心が強い、貧乏だがそれを恥辱と思わない、なども強い印象だったのだろう。

 ザビエルは、宇宙にはたった一人の創造主(神)がおられ、天、地、海などの自然、及び人間を含む万物をその方が創造したのだというキリスト教の教えを聞いて日本人が驚いている、なぜなら日本人はそういうものは自然に生まれてきたものだと思っているから、と書いている。そして、創造主は至高の善であり、悪はみじんもない、という教えに多くの日本人は納得しなかったと記す。日本人は、至高の善なる神がすべての創造主だとすればなぜ悪が存在するのか、なぜ人間をこれほど弱く、罪から逃れられないように創造したのかと言い、人間が救いのない地獄に投げ込まれることもあるという考えに納得しなかった。

 また、ザビエルは信者になった日本人が大きく悲しむことの中に、地獄に落ちた人はもはや全く救われないと知ったことがあると書いている。キリスト教を知らずに、すでに死者となった自分の両親や祖先が地獄に落ちている場合、神はこれを救えないのかと聞き、救える方法はないと言うザビエルの答えに信者は泣いて悲嘆した、と記している。

 日本人がキリスト教に接したとき感じる最大の問題点が、ザビエルが布教を始めた時点で、すでに表れている。私は当時の日本人に健全な理性を感じている。

令和2年6月15日

第54回 日本語の良さ

 自国に自信を失うとき、日本語否定論が現れる。明治の始め、文部大臣森有礼が英語を国語にすべきと唱え、終戦後、憲政の神様といわれた尾崎行雄が同様の主張をしている。戦後はまた、小説の神様といわれた志賀直哉が、フランス語を国語にしたらよいなどと発言している。

 私自身は学校で日本語が優れた、良い言葉であるなどとは教えられなかったと思う。社会に出てからも、日本語は論理的でない、主語がなかったりしてあいまい、といった否定的な日本語論を散見した。

 かつて、「日本語は悪魔の言語だ」といった欧米人によるひどい評価があった。これは戦国時代日本に来たカトリックの宣教師が、日本語を習得できず、かんしゃくを起こしてローマに報告したことに発している。日本語とヨーロッパの言葉は、言語の構造にかけ離れた違いがあるため、お互いに習得するのが難しい。

 私はある程度年をとって、日本語が優れた、良い言葉だと強く思うようになった。

 日本語が論理的でないという欧米人や、それを真に受ける日本人もいるが、そんなことはない。言語は人間のコミュニケーションの手段であって、論理のないコミュニケーションなど成立しない。日本語は完全な論理をもち、完全なコミュニケーションが可能な言語である。日本語は論理的記述に適した言語のトップ集団に分類されるという、外国人言語学者の研究もある。

 日本語があいまいで明晰でないといった評価もあるが、明晰に表現しようとすればいくらでもできるところを、微妙で繊細な情感を伝えるために、わざわざあいまいにしているのである。日本語は繊細な感情を含む豊かな思想を、よく伝達できる成熟した言葉である。

 平安時代初期に起こった「仮名」の発明こそ、日本文化史上最大の出来事だったと私は思う。我々の祖先は、表意文字の漢字から表音文字の仮名をつくり、さらに漢字の訓読みを生み出した。漢字仮名混じり文は、日本語によくフィットした非常に良い表記法だと思う。日本語を仮名だけで表記することもでき、同じ表音文字のアルファベットで記述することも可能だろうが、漢字仮名混じり文の読みやすさと伝達力に及ばないだろう。

 漢字は日本語になかった抽象的な概念を多くもたらし、高度な概念を簡潔に表現することを可能にした。漢字はもともと外国語であるが、今は完全な日本語の一部である。日本語はやや堅い感じのする漢字と、やわらかい和語とのハイブリッドな構造になっており、この点、英語に似ている。英語は和語に相当するアングロサクソン系の言葉に、外来語であるフランス(ラテン)系の言葉が大量に入った混成語である。

 日本語は語彙が豊富というのも大きな特色である。ヨーロッパの言葉は5,000語も覚えれば文学作品が読めるが、日本語では10,000語必要だという調査研究がある。語彙が豊富ということは、表現が豊かな言語であることを意味する。

 日本語は、人が感じ、思い、考えるための豊富な語彙としっかりした論理性をもち、繊細に表現できる良い言語であるが、戦後の日本語は劣化してきているかもしれない。国民が国語を粗末にすれば、国の独立を失う。我々は日本語の良さをよく知り、日本語を大切にして世界の中で生きていきたい。

令和2年6月1日

第53回 学びの日本文明

 以下、粗雑な文明論であるが、日本文明は学びの性向を強くもつ文明であるように思われる。

古くは中国文明に学び、近代は西欧文明に学んだ。日本は古来世界の先進文明に学び、吸収して文明を豊かにしてきた。日本文明は学び、吸収する文明で、大文明として外に広がることはほとんどなかった。

 こうした日本文明の学び、吸収する性向は、日本が島国の後発文明であり、先進文明は常に大陸からもたらされてきたという地理的、歴史的条件が生んだものであろう。

 世界史を見ると、強力な大文明は圧倒的な影響力をもって広がるのが常であり、そのため滅んだ弱小文明も多い。日本文明が消滅せず独自の発展を遂げてきたのは、日本が島国であり、大陸の動乱の影響を蒙らなかったことが根本だと思うが、学びの精神が旺盛で、漢字から表音文字の仮名を創作したことに代表されるように、学んだことを換骨奪胎して優れたものを生み、文明を豊かにしてきたことも大きいと思う。

 しかし、他文明から優れた、進んだものを学び、吸収する日本文明の大きな長所の裏はそのまま短所ともなる。

 一つは、日本では海外のものを崇拝するあまり、自国のものをけなす軽薄な傾向がよく発生する。国を挙げて西洋文明を学んでいた明治時代、福澤諭吉が『学問のススメ・第15編』でこれを指摘している。「開化先生と称する輩は、口を開けば西洋文明の美を称し、およそ知識道徳の教えから、治国、経済、衣食住の細事に至るまでも、西洋の風を慕ってこれに習おうとする。日本の旧習を厭うて西洋の事物を信じるのは、軽信軽疑の譏(そしり)を免れない。彼(西洋)の風格が悉く美にして信ずべきでもなく、我が(日本の)習慣が、悉く醜で、疑うべきものでもない」と。ものの良し悪し、価値評価の基準を自分に置かず、外国に置くという、特に知識人に見られる傾向である。

 また、海外の文明を学ぶとき、書物で学ぶゆえ、海外の文物、思想を理想化し、現実の日本と比べるという現象がよく発生する。現実ではない海外の理想の方が現実の日本より良く見えて当然である。かつて中国に対する日本人がそうだった。漢籍により中国を知る日本の知識人は、聖人を生む文明国としてこれを尊崇してきたが、明治の開国後中国社会の現実を知った。また、西洋を崇める近代日本の知識人の多くが、マルクス主義を尊崇し、ソ連を理想化した。マルクス主義国家に対する幻想は、1991年ソ連の崩壊によって消滅した。

 日本の、優れた文明から謙虚に学ぶという良き特質を、これが短所とならないように維持するには、良いものは誰が何と言おうと良い、悪いものは悪い、といった他に依存しない個人の確固たる価値基準をもつことが根本だろう。西郷隆盛はあるとき、「西洋は野蛮だ」と言った。驚いて、「西洋は文明だ」という識者に対して、西郷は「西洋が本当に文明ならば、未開の国に対して慈愛を本とし懇々と説諭して開明に導くべきであろうが、実際は未開の国に対するほどむごく残忍なことをして、自国の利益を図るのは野蛮だ」、と言って譲らなかったという逸話が伝わっている。西郷は、自己の文明評価基準をもっていたのである。

 文明を評価するとき、他文明をよく知り、自文明をよく知って、これをつぶさに比較し、すなおな目で判断することが重要であると思われる。                   

 令和2年5月15日

第52回 ヤルタ会談の歴史的評価

 第43代アメリカ大統領ブッシュ(Jr)は2005年、ラトビアの首都リガで、「ヤルタでの合意は、安定という目的のために小国の自由を犠牲にし、欧州大陸に分断と不安定をもたらした。中欧・東欧の何百万という人々を囚われの身としたことは、歴史上最大の誤りの一つとして記憶されよう」と、ヤルタ協定を批判する注目すべき演説を行った。

 ヤルタ協定は、ルーズベルト大統領(米)、チャーチル首相(英)、スターリン元帥(ソ連)が、第二次大戦における連合国の勝利がほぼ確定した1945年2月、クリミヤ半島のヤルタで行った首脳会談での合意である。

 このヤルタ会談で、国際連合の設立、ドイツの分割、ポーランドの国境確定、バルト三国のソ連併合を含む中・東欧諸国の戦後処理などが取り決められた。大戦後、中・東欧諸国が共産化され、欧州が東西に二分される体制となって、冷戦が始まった。1991年ソ連が崩壊し、中・東欧諸国はソ連の支配から解放された。ブッシュは、中・東欧諸国の自由を束縛し、歴史上最悪の出来事をもたらしたとしてヤルタ協定を批判したのである。

 ブッシュ(Jr)は歴代アメリカ大統領の中で評価はきわめて低い。一方ヤルタ会談の当事者であったルーズベルト大統領の評価は非常に高い。しかし、私はヤルタ会談に関してはブッシュを大いに評価したい。

 大戦後の世界秩序を三人で決めたヤルタ会談であったが、ここではソ連スターリンの主張がほぼ貫徹された。その背景に、苛酷な独ソ戦を戦い抜き、最大の犠牲を払って(2,700万のロシア人が戦死したといわれる)ナチスドイツを破ったのはソ連だとの自負があったが、もう一つ、ルーズベルトの親ソ連、親スターリンの感情があった。チャーチルはソ連の勢力拡大を警戒したが、英国の力は米ソに及ばず、ルーズベルトとスターリン両巨頭の後塵を拝した。

 ルーズベルトはこのとき健康を悪化させており、体力、判断力が明らかに落ちていた。スターリンを信頼し、スターリンと争うことなくヤルタ会談を終え、二ヶ月後に死去した。ルーズベルトは容共の大統領だった。彼のニューディール政策は社会主義的だったし、ルーズベルト政権内には、スパイを含む共産主義者が少なからずいたことが知られている。

 人類は壮大な実験を経て、共産主義は人類に幸をもたらさないとの評価が確定している。ヤルタ会談は、アメリカがソ連と組んで共産主義を世界に広める結果をもたらしたとして、私は否定的な歴史評価を下したい。

 ヤルタ会談は日本にも大きな災厄をもたらした。ルーズベルトはヤルタで、日本の北方領土をソ連に献上する密約をスターリンと取り交わした。スターリンは対日参戦をするに当たって、千島列島のソ連への引き渡し、南樺太の返還、満州におけるソ連の優先的利益の保護などを要求したが、ソ連の参戦を急ぐルーズベルトはこれをすべて認めた。協定のこの部分は秘匿され、公開されたのは戦後の1946年2月だった。

 ロシア(ソ連)は、北方領土はソ連が第二次大戦の結果承認された正当な領土であるとするが、この主張の根拠にヤルタにおけるルーズベルトとの密約がある。しかしアメリカ国務省は1956年、ヤルタでの密約はルーズベルト個人の文書で、無効であるとの公式声明を出している。

 ソ連による北方領土の占領は、ポツダム宣言を受諾して停戦した後の日本に対して、一方的に行われた。日本は北方領土返還の主張を決してやめてはならない。

令和2年5月1日

第51回 日米戦争の開戦責任

 1941-1945年、日本は米国と戦い(太平洋戦争、大東亜戦争)、徹底的に敗れた。敗戦は国力の喪失だけでなく、日本人の誇りを失わしめた。日本に未曾有の苦しみをもたらしたあの戦争はどうして起きたのか。

 戦勝国による秩序のなかで成立した戦後の歴史は、ほぼ一方的に日本の侵略戦争に原因があるとする。軍国主義化した日本がアジアを侵略。米国は日中戦争を戦う蒋介石を支援。米の支援を絶とうとする日本の動きに対して、米は1939年日米通商航海条約を廃棄。翌年には、武器・軍需品(機械・ガソリン)の対日輸出を許可制とし、また屑鉄・鉄鋼の輸出を禁止。そして1941年7月日本軍の南部仏印進駐を見て、在米日本人資産を凍結し、石油の対日輸出を禁止した。12月日本はハワイ真珠湾を奇襲。日米戦争が始まった。

 開戦したのは日本だが、Ch.A.ビーアド著『ルーズベルトの責任』、フーバー著『裏切られた自由』等の著作(注)は、ルーズベルト大統領が日本を開戦に追いつめていった歴史を明らかにしている。

 1939年9月よりヨーロッパで第二次世界大戦が始まっていた。ルーズベルト大統領はどうしてもこれに参戦したかったが、なかなかできなかった。1940年11月の大統領選でルーズベルトは史上初の三選を果たしたが、選挙戦で「アメリカは参戦しない、アメリカの若者を戦地に送らない」と公約していたからである。アメリカ世論の圧倒的多数は、ヨーロッパの争いに介入することに反対だった。

 ルーズベルトは、ラジオの炉端談話でナチスドイツの恐怖を国民に語りかけた。大西洋をパトロール中の米国の駆逐艦がドイツの潜水艦に攻撃されたと発表し、ドイツを非難した(ドイツは攻撃を否定)。しかし、ルーズベルトが期待したような参戦の世論は盛り上がらなかった。ルーズベルトは、ドイツと同盟関係にある日本を追いつめ、日本に最初の攻撃をさせて、第二次世界大戦に参戦する戦略に切り替えた。ルーズベルト政権は、日本を敵視する外交をエスカレートさせ、1941年7月には日本の在米資産を凍結し、8月には石油の対日輸出を禁じた。

 アメリカとの戦争を絶対に避けたい日本は、必死の歩み寄りをみせた。しかし戦争を望むルーズベルト政権に拒絶された。11月26日、ハル国務長官は野村大使に覚書き(ハル・ノート)を手交した。これは、「日本は中国からすべての陸海空軍の兵力および警察力を引き揚げるべし」といった、交渉経緯を無視した要求で、事実上の最後通告(Ultimatum)だった。ハルはこれが事実上の最後通告と認識しており、日本が遠からず米国を攻撃してくると確信していた。

 日本政府もこれを最後通告と受け止めた。窮鼠と化した日本は一か八かの対米開戦を決意し、真珠湾を攻撃した。ルーズベルトは議会で「日本と平和の維持を見据えた交渉中の米国(これはウソだが)が、日本の海軍と空軍によって突然の、卑劣な攻撃を受けた」と怒りの演説を行い、議会の宣戦布告をとりつけた。こうしてルーズベルトは念願の第二次世界大戦への参戦に成功したのである。

 私は日本の開戦責任を免責したいわけではない。陸軍に支配され、日中戦争を収束できなかった日本の指導者の責任は非常に重い。ただ、日米の開戦に一方的に日本に原因があるといった史観は正さなければならないと思う。一国だけでなく、戦った両国の歴史と事実をつぶさに見て判断しなければならない。

注)渡辺惣樹著『誰が第二次世界大戦を起こしたのか』、加瀬・藤井・稲村・茂木著『日米戦争を起こしたのは誰か』

令和2年4月15日

第50回 新聞記者は出て行ってくれ-佐藤栄作

 昭和の佐藤栄作首相は、1972年(昭和47)6月17日、長期政権(7年8ヶ月)の退陣を発表したが、記者会見の席で、「新聞記者は出て行ってくれ、偏向している新聞は嫌いだ、私は直接国民に語りかけたい」と言い、記者たちが憤慨して出ていった会見場で一人テレビに向かって語り続けた。

 翌朝の新聞は、囂々たる佐藤栄作非難記事に満ちていた。私は当時、社会人3年目の若造であったが、佐藤首相の行動は非難されるべきで、新聞の方が正しいと思っていた。しかし、社会人として経験を重ね、新聞がいかに真実を伝えないかを知るにつれて、佐藤首相の方が正しいと思うようになった。佐藤首相は、何かにつけて曲げて報道する新聞に我慢ならなかったのである。

 新聞はしばしばウソを報道する。いわゆる虚報である。二、三例を挙げる。

 1982年(昭和57)6月26日、日本の各紙が、「文部省の検定によって日本軍の中国への『侵略』が『進出』に書き換えられた」と報じた。後で判明するがこれは大誤報であった。事実は、検定によってそのような書き換えを行った教科書は一つもなかったのである。しかしこの報道は重大な外交問題を生んだ。中国・韓国は日本に抗議し、教科書の書き換えを強く求めた。当時の日本政府は、「政府の責任において教科書記述を是正する」、「検定基準を改め、アジアの近隣諸国との友好、親善が十分実現するように配慮する」という宮沢喜一官房長官談話によってこの外交問題を収めた。この談話は、その後の日本の歴史教科書に大きな負の影響を残した。

 今、韓国が従軍慰安婦に関するウソで固めたプロパガンダを世界に拡散しているが、その発端は、朝日新聞が吉田清治という人物の「私は慰安婦狩りをした」というウソを、長期間にわたって報道し続けたことにある。

 また朝日新聞は2014年5月、事故を起こした福島第一原発職員の行動に関し、ウソを世界に流した。朝日は、福島第一原発職員の9割が2011年3月15日の朝、吉田昌郎所長の命令に違反して、原発から撤退した(命令に背いて原発から逃亡した)、と報道した。しかしこれは虚報だった。事実は、福島第一原発の原子炉事故が進展する中、第一原発には総勢700人の関連職員がいたが、事故対応に必要な最少人員の数十名を残し、それ以外は安全な福島第二原発に待避せよ、という吉田所長の指示どおりの行動だった。朝日の報道に、これが虚報と知らぬ世界のメディアは大きく反応した。朝日は虚報によって、日本人を貶めたのである。  

 日本の新聞の特徴は、社是、特定のイデオロギー、主義主張に沿う事実だけを見つけて報道することにある。そして主義主張に不都合な事実は、報道しない。上から目線であり、事実を真摯に発掘する姿勢に欠ける。特定の主義主張の運動体のようになった一般紙に、果たして存在意義があるのかと私は思う。

 戦前、満州事変以降、日本のほぼ全紙が戦争を煽った。新聞を信頼する国民は戦争を支持し、悲惨な敗戦を経験した。新聞とラジオしか情報源がなかった戦前に比較すると、現在はインターネットで個人が自由に発信する情報にアクセスできる。ネット情報は玉石混淆であるが、中には新聞が報道しない情報や、新聞に見られない良質な情報もある。我々は複数の情報源に目を通し、正しい情報を獲得していきたい。

令和2年4月1日

第49回 日本・トルコの友好史―エルトゥールル号遭難(1890)とトルコ機によるイラン在住日本人の救出(1985)

 トルコは親日的な国であるが、それは明治にさかのぼる。

 1890(明治23)年、トルコの使節団が軍艦エルトゥールル号で日本を親善訪問。親善の全日程を終え、帰国の途についたが、9月16日の夜、艦船は和歌山県南端の大島沖で台風に会い、岩礁に乗り上げて大破。五百数十名の乗組員が死亡または行方不明となったが、大島樫野地区の村民が懸命の救助活動を行い、69名のトルコ人の命を救った。

 日本海軍の巡洋艦で無事本国に送りとどけられた69名の生還者は、自分たちに対する日本人の献身的な行為を伝え、深くトルコの人々の胸を打った。エルトゥールル号の遭難事件はその後トルコの教科書にも載せられ、トルコ人の親日感情の源となった。

 その後百年近く経った1985年3月17日、イラン・イラク戦争が激化する中、イラクのフセイン大統領は、イラン上空を戦争空域に指定し、48時間の猶予期間以降イラン上空を飛ぶ飛行機は無差別に攻撃すると宣言した。イランに住む日本人以外の外国人は、自国の航空会社や軍の派遣した輸送機で次々と脱出していったが、日本人を救出する飛行機は日本から来なかった。

 在イラン野村日本大使は本省に救援機派遣要請をしたが、本省から「イランとイラク両国から安全保証の確約を取れ」と、取り付け困難な訓令を受けた。政府は日本航空にチャーター便の派遣を要請したが、乗組員の安全が保証されないといった組合の意見などにより事実上拒否された。また、当時の自衛隊法は外国における活動を想定しておらず、政府専用機もなく、自衛隊の派遣はできなかった。在イラン日本大使館は救援機を派遣した各国に在留日本人救出を依頼したが、自国民優先で、拒否された。

 そんな中、伊藤忠のトルコ・イスタンブール所長森永堯は、本社の要請を受けて、旧知であるトルコ首相のオザルに、トルコ人救出のための救援機に日本人を乗せてくれるよう必死で依頼した。そしてオザル首相より奇跡的な「イエス」の返答を得た。トルコ航空の2機がイランに派遣され、無差別攻撃のタイムリミット直前の3月19日の夕方、215名の日本人をテヘランから脱出させた。

 テヘランにはまだ多数のトルコ人がいたが、2機の特別機への搭乗は日本人が優先された。500人以上のトルコ人がやむなく陸路(車)で帰国した。これに関し、政府を非難したトルコ人は一人もいなかった。トルコ航空ではオザル首相の決断を受けてただちにミーティングを開き、特別機への志願者を募ったが、その場にいたパイロット全員が志願した。

 なぜトルコは日本に対してそこまでしてくれたのか。後日、駐日トルコ大使は「エルトゥールル号の借りを返しただけです」と言ったと伝えられる。

 この日本・トルコの交友関係の歴史を見て強く感じるのは、立派なトルコ人と明治の日本人、そして情けない現代の日本の姿である。

 その後、自衛隊法が何度か改正され、2015年の安全保障関連法の成立によって、在外邦人の保護措置として自衛隊による「警護」と「救出」が可能となった。しかしその実行には非常に難しい条件が付されている。海外での邦人救出を今後も外国に多くを依存すれば、それは日本がこうした国と対等に付き合えないことを意味する。国家の独立に係わる非常に重い課題である。

令和2年3月15日

第48回 日本文化考-神仏儒の習合

 日本の精神文化の大きな特色として、神道、仏教、儒教の習合があげられる。キリスト教国をはじめとする世界のほとんどの国で、異なる宗教が習合して存在することはない。

 日本では神と仏をまとめて「神仏」と言う。神仏に祈り、祖霊と仏様を同一視して祭る。神棚の前で柏手を打ち、仏壇で手を合わせ、正月は神社に参詣し、葬儀は仏式で行う。神仏習合であるが、これに儒教も加わって日本の習合文化が形成されている。

 世界的にユニークな神仏儒習合は、日本の長い歴史の中で形成されたが、その成立に聖徳太子の存在が大きい。聖徳太子は日本に仏教が伝わって間もない頃、摂政の地位にあった為政者である。仏教を深く理解した聖徳太子は、仏教によって国を治めようとし、十七条憲法を定めた。この憲法で太子は、すべてのものの最後のよりどころ、究極の規範として仏教を尊崇せよと説く。また和を貴しとし、仏教の根源的な人間洞察にもとづく教えと同時に、儒教的な教えも随所にある。十七条憲法は仏教思想と儒教思想が併存している。

 一方、太子は日本古来の神道祭祀を廃止することなく、そのまま維持した。太子が摂政であった時期、朝廷は「敬神の詔」を出している。太子は外来の仏教、儒教と古来の神道をそのまま信奉、尊重してよしとした。日本で普通のこととなっている神仏儒の習合は、聖徳太子が自覚的に制度の中に神仏儒を問題なく併存させて生まれたといえる。こうした神仏儒習合に宗教的体系はなく、便宜主義ともいえるが、良いものは否定しない、一宗教を絶対化しない、共同体の和を好むといった日本人の良識でもあると考えられる。

 以後、日本の神仏儒習合が成熟していくが、平安時代に本地垂迹説という神仏習合思想が現れた。これは、本地としての永遠なる仏・菩薩が歴史的に具体的な形で各地に現れるが(これを垂迹という)、日本に現れた垂迹が神であるとする思想である。例えば伊勢神宮天照大神の本地が盧舎那仏(大日如来)、熊野本宮の本地が阿弥陀仏とされる。これは普遍宗教の仏教にとって変な思想かもしれないが、故渡部昇一教授は、もし仏が永遠普遍の真理ならば、世界各地に現れるに違いない、日本では神の形で現れたのだという考えは十分一般性があると評価している。

 江戸時代、神仏儒習合の文化から生まれた特筆すべき思想家に石田梅岩がいる。石田梅岩は、神仏儒の教理を自在に用いて実践道徳の体系(石門心学)を構築し、庶民を教化した社会教育家である(注)。梅岩は商人の利潤の正当性を認め、商人蔑視の社会風潮を否定、士農工商は人間としての上下ではなく、社会における職分と説いた。石門心学は町人を中心として庶民に広がり、今日まで日本人の道徳意識や商業倫理に影響を与えてきた。

 石田梅岩は、儒教でいう「理」が人間に内在する「性」の何たるかを仏教の禅的体験によって悟ることができた。また梅岩は神道を信仰し、日本人としての自覚があった。梅岩の学問において神仏儒の三教は併存していながら、根底においてつながっていた(注)。

 かつて神仏儒の習合を浅薄な文化として否定的に見る識者も散見されたが、こうした日本文化を日本人の良識が生み出した豊穣な精神文化として積極的に肯定していきたい。

(注)黄海玉『石田梅岩の神儒仏習合思想に関する一考察』佛教大学大学院紀要 第39号(2011年3月)より

令和2年3月1日

第47回 平成時代の日本経済の凋落

 日本の経済力は平成時代に凋落した。日本のGDPは1995年(平成5年)5兆4,500億ドルに達したのち、全く成長していない。2018年(平成30年)4兆9,710億ドルである。この間、米、英、独、仏、中国といった主要国は順調に成長している。米7兆6,400億ドル(1995年)→20兆5,800億ドル(2018年)、英1兆3,360億ドル→2兆8,280億ドル、独2兆5,880億ドル→3兆9,510億ドル、仏1兆6,020億ドル→2兆7,800億ドル、中国7,370億ドル→13兆3,680億ドルとなっている。1995年アメリカの70%に達していた日本のGDPは、2018年アメリカの24%にまで低下した。1995年日本の13%に過ぎなかった中国のGDPは、2018年日本の2.7倍となり、今や世界第2位の経済大国である。

 1995年世界第3位だった日本の一人当たりのGDPは、2018年第26位まで凋落した。そして28位には韓国が迫っている。1995年、日本の一人当たりGDPは、米、英、独、仏を超え、米の1.5倍、英の1.9倍、独の1.4倍、仏の1.5倍に達したが、その後再び米、英、独、仏よりも小さくなり、2018年には、米の0.62倍、英の0.92倍、独の0.82倍、仏の0.91倍となっている。より実質的な豊かさの比較ができる購買力平価ベースで一人当たりGDPランキングを見ると、日本は1995年の18位から、2018年31位にまで転落している。平成時代、日本の豊かさは、世界の中で実質ベースでも凋落したのである。平成時代は日本経済の「失われた30年」であった。日本は今決して豊かな国ではない。

 平成時代、日本経済はどうして凋落したのだろうか。エコノミストが言うように、1990年以降世界経済が大きく変化する中で、日本の産業が競争力を失ったことが決定的に大きい。日本の産業は、特にIT(情報技術)のイノベーションによって生み出される先端サービス産業の世界的競争に敗れた。

 1990年代、中国などの工業化が進展し、工業製品の低価格化が進んだ。日本の製造業は新興国との競争によって疲弊。新しい産業を生み、産業構造を変える必要があったがこれができなかった。米国のアップルなどは、水平分業型のビジネスモデルに転換し、製造工程以外に集中することによって競争力をもった。

 米国企業の時価総額トップランキングにはグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンといったIT関連企業が並ぶ。これらの企業は20年前には存在しなかった(存在しても小企業だった)が、ITによる新しいビジネスを創造し、急成長した。アメリカの経済がこうした新産業によって支えられた。中国にもテンセント、アリババ、バイドゥーといったIT企業が成長している。新しい産業が次々に誕生し、これが急速に市民生活に浸透して中国社会を変えつつある。

 平成時代、日本の電子産業の国際競争力は大きく低下した。今やスーパーコンピュータ、半導体、液晶、太陽光電池など、かつて世界有数のシェアを誇った日本製品は見る影もない。

 経済力も人である。ビジネスをイノベーションする力が経済力を支配する。ビジネスのイノベーションは技術革新だけでなく、制度を含むシステムの総合的なイノベーションである。それを達成する力は、芸術を含む文化の総合的な知力、感性と創造力である。日本人もその力を十分もっていると私は思うのだが。

令和2年2月15日

第46回 日本の民主主義の伝統

 日本の民主主義は戦後始まったと思っている日本人が時々いるが、実は戦前の日本も立派な立憲民主制の国家だった。

 近代憲法(大日本帝国憲法)が1889年(明治22)制定されており、1890年選挙が実施され、同年より国会(帝国議会)が開かれた。国会には立法権と国の歳入・歳出の審議権が与えられていた。戦前日本の、民より選ばれた議員が衆議院で国政に参加する民主政治の実績は決して小さくない。

 大正になって、民衆の政治への関心が高まり、政党の力も強まった(大正デモクラシー)。1918年(大正7)、立憲政友会総裁原敬は、陸・海軍大臣など一部を除く閣僚をすべて立憲政友会党員から選ぶ本格的な政党内閣を組織した。1925年(大正14)、満25歳以上のすべての男子が選挙権をもつ普通選挙法が成立した。その後、犬養内閣が1932年(昭和7)五・一五事件で倒れるまでの8年ほど、衆議院に基礎をもつ政党が交代で内閣を組織する「憲政の常道」が実現していた。

 1931年(昭和6)満州事変以降、軍部が力をもち国政を牛耳るようになった。1940年(昭和15)、大政翼賛会が結成された。政党ではなく、政府の方針に協賛する官製の組織だった。日本はこの時期、戦争遂行を至上目的とする軍部の支配する国家となっていた。

 欧米の民主主義は市民革命で進展した。明治維新は市民革命という見方も十分できる。維新政府の施政方針は次の「五箇条の御誓文」に示されている。一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。一、上下心を一にして盛んに経綸を行うべし。一、官武一途庶民に至る迄各(おのおの)その志を遂げ人心をして倦まざらしめん事と要す。以下省略するが、十分民主的な国家の基本方針といえる。

 明治日本の民主的傾向は、欧米諸国の影響が大きかったが、日本の伝統にないことではなかった。外国と比較すると、日本は独裁を嫌う歴史・文化をもつことがわかる。大事なことは話し合って、衆議によって決める。江戸時代、独裁者として振舞う藩主はほとんどなく、藩政は家臣の衆議によっていた。政治は武士による専制だったが、農工商における自治は、集落や団体での集会と決定など、民主的に行われていた。

 日本の民主主義には長い歴史がある。聖徳太子の定めた十七条憲法の、「一に曰く、和をもって貴しとなし、---上和らぎ、下睦びて、事を論(あげつら)うにかなうときは、事理おのずから通ず---」、「十七に曰く、夫れ事は独り定むべからず。必ず衆とともに論うべし。小事は是軽し。必ずしも衆とすべからず。唯、大事を論うにおよびては、もしくは失(あやまち)あらんことを疑う。故に衆と相弁(わきま)うるとき、辞(こと)すなわち理(ことわり)を得ん」は、立派な民主主義思想である。憲法の最初の条と最後の条に、(特に大事は)必ず衆議によって決めよと言っている。

 戦後日本の民主主義はアメリカによったが、それが定着したのは日本に民主主義の伝統があったからである。それにしても、日本の現国会はあまりにも些末な質疑が多い。そして今後の国政を左右する肝心な法案の審議には、野党が出席拒否したりする。せっかくの民主主義制度である。われわれ選挙民の責任でその運用を改善していきたい。

令和2年2月1日

第45回 北条泰時の「道理」

 物事の道理を考える能力、道理に従って判断し行動する能力のことを「理性」という。人は感情的になって理性を失ってはならないなどという。

 西洋において「理性」はギリシア以来重視されてきたが、西欧社会が中世から近代に脱皮する過程でその傾向が強まった。理性に従い、説得力ある理由・根拠にもとづいて事柄に対処する行動・思考様式を「合理主義」というが、ルネッサンス、科学革命、社会革命を経て近代社会を生み出した西欧の原動力に「近代合理主義」があった。

 欧米の理性重視の精神は現在なお健在で、欧米社会の良識となっている。それは、説得性のある論理的主張、科学的判断、原理原則の希求と、同時に存在するプラクティカルな判断などに見られる。

 日本はどうだろうか。日本人の心(大和魂、和魂)は理よりも美と情緒に傾斜し、「理性」に欠落するゆえ日本は真に近代化していないといった粗雑な日本論がかつてみられたが、日本史をよくみると日本も十分理性尊重の歴史をもつことがわかる。

 鎌倉時代(1185-1333)、武士による統治で最も重んじられたのは「道理」だった。鎌倉幕府第3代執権・北条泰時は、1232年武家社会の法典「関東御成敗式目(貞永式目)」を定めた。この法典は、武家社会の慣習を根拠としつつ、御家人同士や御家人と荘園領主間の土地紛争を公平に裁くよりどころなどを明らかにしたものであるが、この法典の制定と運用の理念が「道理」であった。

 泰時は、貞永式目について「式目の立法上の根拠などはなく、ただ評定衆13人の多数決で理非を決断し、道理のあるところを記したに過ぎない」と言う。執権を含む13人の評定衆(幕府の最高議決機関)は、貞永式目の運用にあたって、「およそ評定の間、理非においては親疎あるべからず、好悪あるべからず、ただ道理の押すところ、心中の存知、傍輩を憚らず、権門を恐れず、詞(ことば)をだすべきなり」という起請文を神に捧げた。

 幕府の評定衆には、自分や一族の利害、権門との関係などの雑念を一切絶ち、道理によって理非を決断するのは容易ならざる業務であるとの自覚があった。そのゆえ彼らは神に誓ってこれを行おうとしたのである。

 泰時は、裁判の際には「道理、道理」と繰り返し、道理に適った話を聞けば、「道理ほどに面白きものはない」と言って感動し涙まで流したと伝えられる。その「道理」とは武家の慣習を基本としつつ、欲心をなくして見いだす道徳法則であり、自然的秩序であった。仏教では「正しきということは無欲なり」、「よきというのも無欲なり」と教える。華厳宗の高僧・明恵上人に私淑する泰時は、私心・私欲を去って真摯に「理非」を決断しようとした。

 貞永式目は、日本人の手になる最初の日本人の法であった。その法を支配する理念が「道理」だったことの意義は大きい。武家法として定められた貞永式目が、その後日本の基本法または道徳律のようになって庶民まで深く浸透し、以後数百年常識の基準となった。江戸時代寺子屋の教科書としても用いられ、日本文化の形成に重要な役割を担い続けたのである。

令和2年1月15日

第44回 八田與一のこと

 台湾の教科書に載り、台湾で非常に尊敬されている日本人・八田與一については、司馬遼太郎の『街道を行く』で紹介され、古川勝三の『台湾を愛した日本人』などで、だいぶ知られるようになったが、戦前の日本人が立派であり、我々はそれをよく知る必要があると強く思う私も、八田與一についてここに一文を記す。

 八田與一(1886-1942)は東京帝大土木工学科を卒業して台湾総督府に奉職、技術者として台湾の開発と近代化に生涯を捧げた。八田は不毛の地・嘉南平原15万ヘクタール(香川県の面積)を耕作地にする大規模な灌漑工事計画を立案。総督府の容れるところとなり、数多くの困難を克服し、着工以来10年の歳月を経て、1930年これを竣工させた。

 事業はまず、嘉南平原の北を流れる濁水渓から取水して5万ヘクタールを灌漑する。次に、官田渓の上流「烏山頭」にフィルダムを築き、ここに官田渓の水に加えて流量豊富な曽文渓の水を流域変更(そのための隧道工事を行う)して導き、烏山頭の1億6,680万トンの人造湖(珊瑚潭)に貯め、平原の残りの10万ヘクタールを灌漑する。烏山頭フィルダムは高さ56メートル、堰堤長1,273メートルの規模(東洋一)で、嘉南平原を灌漑する給排水路の総延長は、16,000キロメートル(万里長城の6倍)にも達した。総工事費は7,500万円(現在換算6千億円)を超える大事業であった。

 灌漑開始後、不毛の地・嘉南平原(嘉南大圳)は台湾最大の穀倉地帯に変貌した。農家の収入は増え、農民の生活は大きく向上した。天然湖と見まがうばかりに美しい珊瑚潭に貯められた水は、今なお嘉南大圳を潤し続けている。

 台湾の人々は今もなお、5月8日の八田の命日に、烏山頭にある八田與一・外代樹夫妻の墓の前に何百名も集まり、八田の恩を偲び、感謝する墓前祭を毎年行っている。

 八田には最初に工事ありきではなく、水不足、洪水、塩害に苦しむ農民のためという思いがあった。烏山頭に置かれた事業主体である嘉南大圳組合の烏山頭所長として、八田は日本の統治下にある台湾で、日本人と台湾人の区別を一切せず平等にあつかった。八田は日本人台湾人の全従業員から尊敬された。

 1930年、工事完了後八田は総督府に復帰した。1942年八田は陸軍省より南方開発派遣要員の命を受け、フィリピンに向かうが、乗船した大洋丸が5月8日アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈み、死亡した(56歳)。絶望した八田の妻・外代樹は、日本の敗戦後1946年、烏山頭ダムの放水口に身を投げた。

 戦前の日本を全否定する傾向の続いた戦後社会の中で、立派だった戦前の日本人の生き方が忘れられてきた。1980年から3年間台湾に住んだ古川勝三は、「あなたは日本人だから日本精神をもっていますよね」と台湾人に聞かれ、「日本精神?それはどういうことですか」と聞き返すと、「日本精神はね、『嘘をつかない』『不正なお金は受け取らない』『失敗しても他人のせいにしない』『与えられた仕事に最善を尽くす』の四つです。今日の台湾の発展はこの日本精神のおかげです」と語るのを聞いて、返す言葉を失ったという。そして、今日の日本人に求められる資質は、八田與一の考え方や生き方の中にあるように思えると述べている。

令和2年1月1日

第43回 中曽根康弘元首相の逝去

 中曽根康弘元首相が11月29日、亡くなった。101歳だった。国に貢献した非常に立派な政治家だったと、国民の一人として深い敬意を表明したい。

 中曽根康弘は戦後まもない1947年、28歳の若さで群馬3区から衆院選に立候補して初当選。以来連続20回の当選を重ね、政治家の道を歩んだ。1959年岸内閣で科学技術庁長官に初入閣して以来、運輸相、防衛庁長官、通商産業相、行政管理庁長官などを歴任。1982年自民党総裁となり、内閣総理大臣を3期5年間つとめ、1987年退任した。

 首相在任中の実績としては、行政改革を推進し、国鉄、日本専売公社、日本電電公社の三公社の民営化を行った。また、日米安全保障体制の強化につとめ、レーガン大統領と親密な信頼関係を構築して(「ロン・ヤス」関係)、良好な日米関係を築いた。防衛力強化政策の仕上げとして、防衛費の予算計上額をGDPの1%以内にとどめる三木内閣以来の方針を撤廃し、長期計画による防衛費の総額明示方式に切り替えた。

 中曽根内閣は「戦後政治の総決算」を掲げた。その眼目は戦後吉田茂首相の敷いた安全保障政策の是正にあった。彼は言う、「吉田首相はマッカーサーを相手に戦後日本を立て直した偉大な功労者であるが、自国の軍事、防衛、安全保障を軽視して、米軍に依存した。当時はそれでやむを得なかったかもしれないが、いずれ国は自ら守らなければならないと、国民を訓すべきだった」と。

 中曽根康弘は憲法改正を悲願とした。曰く、「現憲法はマッカーサーからのお下げ渡しで、日本人が自らつくったものではない。千数百年続いてきた日本の歴史、伝統、社会規範、発展への共通の理想、世界人類の未来を見据えた決意を入れるというのが憲法というものである。それは自ら国会でつくるしかない」。

 中曽根は新保守自由主義を唱えた。それは歴史と伝統を共有する共同体(国家、民族)基盤の上に、歴史、伝統のよいところを守り、科学技術を駆使して創造力をもって時代を切り開く新保守主義と、小さな政府、規制排撃、個人・人権の尊重、市場の重視、地方分権を指向する自由主義を実現運用しようとするものである。

 中曽根の政治思想は、歴史、哲学、思想、宗教に関する深い教養に裏打ちされていた。そして日本の歴史、伝統、宗教を深く理解し、日本の文化を尊重した。戦後の社会問題やその他の様々な問題の根本に、社会に生きる理念や哲学と、国や郷里の伝統と歴史を失わしめた戦後教育の誤りがあると考えていた。

 中曽根康弘は最期まで政治を考え続けた人だった。勉強家であり、読書家だった。そして常に国家への思いがあった。彼は戦後教育に最も欠落しているのは、国家論であるという。占領政策と猖獗をきわめたマルキシズムの影響によって国家論がタブー視され、国家論が欠落しているゆえ非常に空疎な社会論や平和論が生まれていると言う。

 「賢者は歴史に学ぶ」、「政治家の資質の第一は歴史観である」と語る中曽根康弘は、風見鶏やパフォーマンスの人ではなく、背骨のまっすぐ通った重厚な思想家だった。

令和元年12月15日

第42回 福澤諭吉の「独立自尊」

 福澤諭吉が明治時代に説いた「独立自尊」は、開国165年となる現在、日本の人と国のあり方として、ますます重視されるべき価値になっていると信じる。

 福澤の生きた幕末・明治の時代、国際環境は苛酷であった。科学革命と産業革命を経て強大化した西洋列強がアジアを侵略し、アジア諸国は次々と植民地化された。日本がそうなってはならない、この強い思いが福澤のすべての活動の源泉となった。

 福澤は日本が独立国として生きていくためには、西洋並の文明国になるしかないという明確な結論に達した。福澤の旺盛な啓蒙・教育活動は、常に日本の独立のためにという思いがあった。福澤は主著『文明論の概略』で、「文明は人間の知徳の進歩であって、至大至高、人間万事この文明を目的とせざるものなし」と説くが、同著の終章で「国の独立が目的で、文明はこれを護るための手段である」と結論する。福澤はこれほど国の独立が至高であるとしたのである。

 福澤は、「東洋の儒教主義と西洋の文明主義を比較して見るに、東洋になきものは、有形においては数理学(科学のこと)、無形においては独立心と、この二点である」と、西洋文明の中核にある精神を看破。西洋人の旺盛な独立心が国の独立を支えていると見抜いた。

 そして福澤は「一身独立して一国独立する」と言う。国民一人ひとりが独立不羈の気力をもち、個人としての独立を達成して初めて一国の独立が達成される。福澤の『学問のすゝめ』は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」で名高いが、この書は一身独立の達成を目的とした実学を奨める啓蒙書に他ならない。

 福澤は日本の歴史を顧みて、日本が今まで独立してきたことに関し、「我が日本に外人のいまだ来らずして国の独立したるは、真にその勢力を有して独立したるにあらず。ただ外人に触れざるが故に、偶然に独立の体を為したるのみ」と『文明論の概略』で述べる。そして、「余輩のいわゆる自国の独立とは、我が国民をして外国の交際に当たらしめ、千磨百錬、ついにその勢力を落とさずして、恰もこの大風雨に堪ゆべき家屋の如くならしめんとする趣意なり」と、今後の独立の維持が重要であると述べる。

 その後日本は富国強兵の道を歩み、苛酷な国際社会で独立国として歩むことができたが、ついに日米戦争に突入。敗れて米国に占領支配され、独立を失った。1951年の講和条約により独立を回復したが、同時に日米安全保障条約を締結し、米国に軍事を依存する国として国際社会に復帰した。

 その後改正された安全保障条約に定める軍事協力を核とする日米同盟は、今日まで日本の国の存立基盤であり続けているが、こうした日本をどう評価するか。まともな軍事力をもたない国は独立国と呼べないという考えは十分あるが、私は日本が日米同盟の中、独立国としての責任と誇りをもって国家を運営するとき、立派な独立国であると言ってよいと思う。そして、安全保障条約はあくまで手段であり、自国は自ら守るという当たり前の国民の意識が決定的に重要である。

 現在、日本を取り巻く国際環境は、福澤の時代に似てきている。日本は絶対に独立を維持しなければならない。福澤が唱えた「独立自尊」は、一国独立をもたらす一身独立の精神として、その価値がなお色あせることはない。

令和元年12月1日

第41回 伊藤仁斎 すばらしい日本の儒学者

 江戸時代前期の儒学者伊藤仁斎(1627-1705)をご存じだろうか。当時の儒教の本流である朱子学を批判し、『論語』、『孟子』に孔子の教えの本来の意義を見いだす「古義学」を提唱した。生涯市井の儒者として、京にあって『論語古義』などの著述につとめ、塾「古義堂」において多くの門弟教育にあたった。

 儒教は中国に生まれ、日本を含むアジアの周辺国に広がったが、本場中国および韓国における儒教と、日本の儒教とは違っていると私は以前から感じている。

 孔子を開祖とする儒教は、秩序ある社会を実現するため、仁、孝、義、礼、信、修己といった道徳を重んじる実践的な教えであるが、これが宋の時代に哲学的に深められ、南宋の朱子によって壮大な形而上学体系として集大成された。中国では、この形而上学の体系(朱子学)が、国教としての儒教の正統の地位を獲得し、国家の体制教学となった。

 日本では江戸幕府を開き、統治の安定を望む徳川家康が林羅山を登用して儒教を導入し、広めさせた。しかし、羅山が導入した朱子学主体の儒教は、幕府公認の地位を獲得したものの、日本の儒教は中国・朝鮮と異なり、決して朱子学一辺倒になることはなかった。朱子学を批判する者、あるいは否定する学者が多数現れた。その代表的存在が伊藤仁斎である。

 形而上学としての朱子学の根本は、世界の普遍的な原理、宇宙万物の存在根拠として「理」を立て、「理」は客観的な自然法則であるだけでなく、人間の本然的な秩序感覚にもとづく倫理的な当為法則も「理」であるとする。そして「理」は人間に内在し、人間の内奥に善の原型として潜む(これを「性」という)。従って朱子学では、人は心を静かにして、欲望と感情を律し、精神を集中させ、内奥にある「理」を実現することを理想とする。

 仁斎はこうした朱子学の「理」を認めない。人間の内奥にあるとされる「理」を実現する実践は、必然的に公式主義、厳格主義、教条主義となり、「理」は「残忍酷薄」を生むと批判する。

 仁斎は孔子の「仁」が儒教の根本であり、「仁」は「愛」以外の何ものでもなく、すべての善の基本であると強く主張する。仁斎は若い頃朱子学に傾倒したが、実践して疑問に感じ、30代後半以降孔子に回帰して愁眉を開いた。仁斎は『論語』を「最上至極宇宙第一の書」という。『論語』は孔子の卑近な日常の言行録にすぎないが、仁斎は、日常の卑近で平明な教えこそ真実の教えであり、朱子学のような高遠で思弁的な形而上学は、かえって道徳の退廃を招くという。

 伊藤仁斎は京都の裕福な町人の出である。私は、この時代に仁斎のような町人の学者が出現したことに、日本近世の近代性、多様性、および豊富な可能性をみる。また、朱子学の「理」を否定し、「愛」と卑近な日常の中に道があるとする仁斎に、大陸とは異なる、多元的で情緒性豊かな日本の精神風土を感じている。

 倫理学者相良亨は、仁斎の思想を、日本人の伝統的な倫理感覚を踏まえつつ、儒教的教養によってこれを高めたものと評価しているが、深く同感する。

令和元年11月15日

第40回 不世出の偉人徳川家康

 「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座りしままに食うは徳川」といった江戸期の落首(匿名の狂歌)がある。徳川家康は「狸親仁(たぬきおやじ)」といわれ、江戸幕府を開いた神君家康も、日本の庶民の人気と評価は、英雄信長、秀吉に及ばないようである。

 しかし、私は徳川家康こそは不世出の偉人であり、世界的水準の偉大な軍人政治家だったと思う。

 家康は戦国時代の無秩序に終止符をうち、太平の世を開いた。家康がつくりあげた統治システム(多次元の幕藩制複合国家)はその後長期にわたって有効に機能し、日本は270年に及ぶ戦争のない持続的な安定した社会を謳歌した。

 江戸は繁栄し、元禄の頃(17 世紀末)には人口100万を擁する都市となった。同じ頃ロンドンは46万、パリは18世紀末で55万人に過ぎなかった。江戸は、治安の良さと公衆衛生の先進性で世界の都市を凌駕していた。東京(江戸)の基礎は、埋め立てや上下水道整備を含めた家康の都市計画によって造られた(注1)。

 日本の社会は安定し、人口が増えた。日本の人口の世界シェアが最高になったのは元禄の頃であり、5%に達していた。卑弥呼の弥生時代は0.3%、現在は2%である。磯田道史は、おそらく将来、江戸時代は日本の栄えた時期として、憧憬の念をもって回顧されるだろうと言う(注2)。

 家康は「海道一の弓取り」といわれるすぐれた武将だったが、信長や秀吉と異なり好学の人で、歴史や哲学の書に親しんだ。知識欲と独創性があった(注3)。

 山内昌之は、家康ほど多彩な人材の登用にたけた政治家は歴史に類を見ないと言う(注4)。配下の武将は皆家康に心服していた。家康が登用した人材の中には、外交政策のアドバイザーとなったイギリス人ウイリアム・アダムス(三浦按針)やオランダ人ヤン・ヨースティンらもいる。家康は、「人の価値がわからないのは、すべて自分の智が明らかでないからだ。才能や知恵ある者を使いこなすことができず、役に立たない者とのみ国政を議論してはならない」と言う。衆に抜きんでた智慧と人間力をもつ者のみが人を使うことができる。家康はそういう人だった。

 家康は次のような言葉を残している。「人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくが如し。いそぐべからず」、「不自由を常と思えば不足なし」、「堪忍は無事長久の基(もとい)、怒りは敵と思え」、「勝つことばかりを知りて負くることを知らざれば、害その身にいたる」、「おのれを責めて人を責むるな」、「最も多くの人間を喜ばせた者が、最も大きく栄える」、「大事を成し遂げようとするには、本筋以外のことはすべて荒立てず、なるべく穏便にすますようにせよ」、「及ばざるは過ぎたるより勝れり」。何という深い智慧に満ちた言葉かと思う。特に、「及ばざるは過ぎたるより勝れり」に家康の深遠な経験知をみる。

 家康は晩年、皇室と西の勢力が結びついたとき徳川幕府は倒れると予言した。250年後、歴史はまさにそのように進行した。家康の叡智にはそれが見えていたのである。

 江戸時代、近代科学はないものの、文化、社会は成熟し、近代が静かに準備された。江戸と明治は連続している。近代日本の起点を明治維新ではなく、むしろ家康の開いた近世の江戸システムに求める見方に共感する。

注1、3、4 『日本近現代講義』山内昌之・細谷雄一編著より

注2 『日本史の内幕』磯田道史著 より

令和元年11月1日

第39回 日本人の神道的感覚

 神道は日本の民族宗教である。われわれにあまり自覚はないが、日本人の基本的なものの考え方、生活、倫理に神道が横たわっている。

 ビートルズのジョン・レノンは、常々「okagesamade(おかげさまで)」という言葉が、世界の中でもっとも美しい、と言っていたと伝えられる。日本人が平素口にするこの「おかげさまで」という言葉は、自分が今日あるのは皆様のおかげ、そして神様のおかげという思いを含む感謝の言葉で、神道に発するといってよい。

 神道は感謝教(有難教)である。神に感謝し、大自然に感謝し、先祖に感謝し、周囲に感謝し、有難い、おかげさまでという思いで生活する。神道の祭りは、神や先祖に対する感謝の念を表明する儀式である。また、神道は神の前で祝詞をとなえる。祝詞とは神をたたえ、神に感謝する言葉である。祝詞の核心は祈願ではなく、神への感謝である。

 次に、日本人の清潔好きは世界的に知られているが、これも神道から来る。神道は清浄の美を根底におく宗教である。神は清浄を好み、清浄なところにまします。ゆえに神道は心身の清浄と環境の清浄を尊ぶ。逆に神道は汚れや、汚いことを好まない。汚れは穢れ、穢れは気枯れであり、人の活力を低下させると考える。

 日本人はよく掃除をし、入浴を好む。また、工場やオフィスに3S(整理、整頓、掃除)や5S(整理、整頓、掃除、清潔、躾)の標語をかかげてこれを推進する。これなど、神道の清浄の思想の実践である。近年、サッカーW杯で日本人サポーターたちがごみ拾いして帰ることが、世界の話題になっている。神道に発する日本の掃除文化が海外に進出している。

 また日本人は、ものごとをあえて「言挙げ」せず、言葉による説明や申し開きを外国人ほど重視しない性向があるが、これも神道の感覚である。「お天道様はすべてお見通し」という神道において、立言は重要でない。神道は「言挙げ」しない宗教である。

 神道が理想とする人のありようは、「清・明・正・直」、すなわち、「清く」、「明(あか)く」、「正しく」、「直く」あることである。そして「清明」と「正直」は密接につながっている。伊勢神道の大成者・度会家行(1256-1351)は「およそ神は正直をもって先となし、正直は清浄をもってもととなす」という。「正直」の基礎に「清浄」があるといっている。「正直」はもと「正直(せいちょく)」で、「神に対して曇りのないありのままの心」であり、伊勢神道で最も重視される。

 菅原道真は「心だにまことの道にかないなば祈らずとても神や守らん」と詠む。まことの道とは「うそのない、正直なこと」である。正直者の頭に神が宿り、正直には神の加護がある。私は日本人の多くが、無自覚ながらこうした正直教ともいえる神道の信者だと思う。

 最後に、日本人は「作る論理」でなく「自然に成りゆく論理」を好むが、これも神道の感覚である。神道は自然道であり、自然が神である。成り行く自然をそのまま肯定し、作為は好まない。日本人は、「作る論理」にしばしば人の作為と独善性が現れるのを警戒する。人間の理性を絶対視するようなイデオロギーなどを疑問視する。

令和元年10月15日

第38回 聖徳太子でなければならない

 文部科学省が2017年、小中学校の学習指導要領の改定案として、聖徳太子の名前を、小学校では「聖徳太子(厩戸王)」、中学校では「厩戸王(聖徳太子)」と表記することにし、パブリックコメントを求めた。多くの国民から反対意見が寄せられて、文科省はこの案を取り下げ、従来通り「聖徳太子」の単一表記となった。

 国民の良識が、文科省の愚行を阻んだと私は考える。文科省の改定案の根拠は、「聖徳太子は当時おそらく聖徳太子とは呼ばれておらず、厩戸王と呼ばれていたと推定される」といった、あやふやなものであり、改正の必然性は全くない。国民はこの改定案の背景に、日本の歴史から聖徳太子を抹殺し、日本の歴史を貶めようとする勢力(左翼、および中韓)の存在を感じたと思う。

 田中英道と伊藤隆は、日本国史学会誌(第十号、平成29年)で、聖徳太子の名が厩戸王のあとカッコで付けられる表記は誤りであると、以下のように明確に述べている。

 『日本書紀』(720年)においては皇太子と書かれているが、706年においては、「上宮太子聖徳皇」と書かれ、一般にそれまで「聖徳」の名が使われていたことを証拠立てる。『日本書紀』の敏達天皇の条に、娘が「東宮聖徳」に嫁すと書かれており、当時から「聖徳」の名が使われていることを示唆している。また法隆寺金堂の薬師如来座像の光背銘に、「聖王」と書かれ、その造像記には、推古15年(607年)とされているから、その年代から「聖王」と呼ばれていたことがわかる。厩戸王を支持する学者たちが間違っているのは、『日本書紀』に書かれていることは皆、捏造だという戦後の歴史学者の、天皇・藤原権力の維持のために『記・紀』が書かれたという偏見に基づいているからである。仏教の注釈書『三経義疏』も聖徳太子自身が書いたことは実証されているし、『十七憲法』も聖徳太子の編纂によるものであることは明らかである。聖徳太子は生前より深く尊敬されており、「聖徳」の名は当時から言われていた「上宮法王」や「豊聡耳命」に合致するもので、厩戸王などと書く必要は全くない―――。

 聖徳太子は類まれなる聡明な人で、人の意見を聴いて直ちに深い理解を示す、日本人が最も尊敬した指導者であった。聖徳太子は日本で初めて国家理念を明確にもち、太子の定めた十七条憲法の第一条「和を以って貴しとす」は、日本の国のかたちとして現在もなお生きている。

 十七条憲法はすばらしいが、特に第十条はこの憲法の白眉である。「十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。彼是とすれば、我は非とす。我是とすれば彼は非とす。我必ずしも聖にあらず。彼必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理、詎(た)れかよく定むべけんや。相共に賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきがごとし。ここをもって彼の人は瞋(いか)ると雖も還って我が失を恐れよ。我独り得たりと雖も、衆に従い同じく行え」

 個人は皆違っており、違いはその人の尊厳そのものである。他の意見を尊重し、自己の絶対性を否定する。民主主義の基本となる考え方を、聖徳太子は実に美しい達意の表現で述べている。

 日本人は聖徳太子を聖者とみなし、太子を信仰する態度は歴史の早い時期に成立した。こうした歴史的事実を軽んじてはならない。

令和元年10月1日

第37回 韓国の国体としての反日イデオロギー

 日本との関係においては国家間の条約をも無視する、韓国という異常な反日国家はどのようにして生まれたのだろうか。

 韓国(朝鮮)は歴史的に中華文明圏の国として生きてきた。1392年より朝鮮半島を支配した李氏朝鮮も、中国(明、清)に臣従していたが、中華が文明であり、周辺は野蛮国とみる華夷文明秩序意識を強く持ち、日本を野蛮国と蔑視して、自国は日本よりも「上国」との誇りを抱いていた。

 1895年、日清戦争で中国(清)が日本に敗れたのち、朝鮮は中国の支配を脱したが、その後1910年日本に併合され、35年間日本の統治を受けた。1945年日本が日米戦争に敗れ、日本は朝鮮半島から撤退。1948年、南は米国の指導で韓国が、北にはソ連の指導で北朝鮮が建国された。

 韓国が現代のような反日国家になったのは、この後である。韓国は日本と戦って独立を勝ち取ったわけではなく、日本と共に戦い、敗戦国となった。このような韓国が戦後の国際秩序の中で生きていくためには、自国を百パーセント日本の被害者の身に置き、日本を悪の加害者として非難し続けるしかなかった。それはまた韓国が日本の上国であるとの誇りを取り戻すことでもあった。

 韓国は、日本支配の35年が抑圧、搾取、収奪の時代であり、日本人がいかに邪悪な支配者であったか、韓国人がいかに日本人と闘って(抗日)独立していったかという、事実と大きく異なる歴史をつくりあげていった。

 一例をあげると、日本の収奪の中で特に強調される土地収奪である。教科書には「総督府は1910年から土地調査事業を推進したが、これは農民から土地を取り上げるたくらみだった。手続きを複雑にして農民が所有の証明に失敗するように仕向け、農地を奪い取って日本人に安く払い下げた」などと記すが、ほとんどでたらめである。申告がなかった土地は実際に所有者がいなかったと思われる墓地などが大半で、全体の0.05%という微微たるものだった。総督府は8年かけてこの事業を実施したが、申告漏れがないように丁寧に指導し、盗奪を防ぐために啓蒙を繰り返しおこなった。この調査の目的は近代的土地所有を確立し、資本関係が農村に浸透する条件を整えたこと以外にない。同じように日本の統治下にあった台湾の学校では、土地調査事業を土地所有権を確立した改革として平明に教えている(注1)。

 日本の統治は、韓国の教科書で描くようなものではなかった。終戦直後韓国人歴史家がイギリス外交官に、日本の統治時代をそれまでの朝鮮史で唯一の安定した時代だったと回顧し、日本の施政下で朝鮮人は平穏と豊かさを享受し、日本人は賢明、親切で、住民の福祉に骨折ったと語った、と言う記録がイギリス外務省の文書に残されている(注2)。

 反日は親から子へ口伝えで伝えられた民族の体験ではなく、国家が子供の白紙の心に植え付けた教義だった(注3)。実際にあったことを知る世代がなくなって世代交代が進み、反日教育が日本統治時代の事実を抹消し、反日を国体とする現在のイデオロギー国家がつくられた。

 韓国の反日イデオロギーに、朱子学の観念的大義名分論と同じようなものを私は感じている。韓国人は大義名分の前には事実を無視あるいは軽視するが、これは儒教文明国の宿痾のように思える。

(注1、注2、注3、松本厚治著『韓国「反日主義」の起源』による)

令和元年9月15日

第36回 楠木正成の家訓

 楠木正成(1294-1336)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。後醍醐天皇を奉じて幕府軍と戦い、後醍醐による建武の新政(建武中興)に大きく貢献した。

 正成が千早城に立てこもって鎌倉幕府の大軍を相手に一歩も引かずに奮戦している間、各地に討幕の機運が広がり、足利尊氏が京にある幕府の六波羅探題を攻め落とし、新田義貞が鎌倉を攻め滅ぼした。建武中興の失政をみとった足利尊氏はその後、後醍醐に反旗をひるがえした。正成は義貞や北畠顕家らと合流し、京に迫った尊氏軍と戦った。尊氏はいったん九州に逃れ、九州を制覇して勢いを盛り返し、十万を越える大軍をもって上京した。義貞とともに尊氏を迎え撃つよう命じられた正成は、天皇と朝廷は比叡山に避難し、京に入った尊氏軍を兵糧攻めにして討ち取る戦略を進言したが、朝議で容れるところとならず、死を覚悟して湊川(兵庫県)で尊氏の大軍と戦い、最後は自害した。

 楠木正成は、軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦をいくさに導入した革新的な軍事思想家で、日本史上最高の軍事の天才との評価をうけている。『太平記』で中心的人物の一人として描かれ、頼山陽も『日本外史』で正成の知略、勇敢、皇室への忠誠を称賛している。頼山陽は言う。正成は、義貞では尊氏に勝てないことも、当時の朝廷が国を支配できる器ではないことも見抜いていた。すべてを承知しながら、おのれは命を捨て、子孫には最後まで朝廷を守ることを託したと。こうした正成は戦前忠臣の代表として国民に喧伝された。

 私は楠木正成についてこのようなイメージしかもっていなかったが、最近、正成の遺した以下の家訓を読んで、正成が人間として真に偉い人だったと思うようになった。家訓の序にある「非理法権天」とは、非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たずという意味で、正成が旗印としたものである。

 非理法権天

一、 極楽を願わんより地獄をつくるな。一、誉を求めんより恥をいとえ。一、立身を思わんより御恩を忘るるな。一、上に諂い下を卑しむな。一、足る事を知って及ばぬ事を思うな。一、忠を安んじて死を怖るる事なかれ。一、手柄せんより気たがうな。一、身のために身を損んずな。一、人我の心深うして、人に勝らん事を思うな。一、ただ今日無事ならんことを思え。一、万物一体の理を守らざる故万病生ず。一、金銭をためるよりは借銭するな。一、人は名利につかわれて一生苦しむ。一、礼厚くして人の非をとがむるな。一、おのれが分をよく知れ。一、身をはたらけば食あまし。一、薬を好めば困多し。一、珍敷(めずらしき)ことに実少なし。一、酒は飲むとも飲まるるな。一、慈悲するともかわりをとるな。一、人は空言世は無常。一、一得あれば一失あり。一、物毎に肝要を知れ。一、着類は寒くないほど。一、食物は腹一ぱい。一、居所は風雨を防がんため。一、物言は聞こえる様に言え。一、物書は読めるように書け。一、ものかたりより塩梅(あんばい)。一、矢石(やだま)はあたるがよし。一、刀は切るるが重宝。一、学文は理を知るため。一、懈怠の者は永く貧なり。一、僧は菩提をもっぱらにして、世事を次にすべし。一、俗は家職を専一にして、後世を次にすべし。一、生ある物は必ず滅す。一、唯一心の要を恐れよ。一、善にも着(じゃく)すれば悪敷(あしき)也。以上(一部省略)。

令和元年9日1日

第35回 鎌倉武士の女性尊重

 鎌倉武士北条重時(1198-1261)の遺した家訓から、この時代、武家において女性が尊重されていたことがうかがえる。北条重時は鎌倉幕府3代執権北条泰時の弟で、京都にある六波羅探題の北方(長官)を務めるなど、兄を補佐して幕府の要職を歴任した。この重時が「極楽寺殿御消息」という家訓を遺している。

 この家訓で重時は「妻は一人を定めるべきである。一夫多妻は罪深いことである」と言う(要点のみを現代語訳)。一夫一婦は現代では当たり前であるが、当時の東アジアにおいてはそうではない。貧しい平民(匹夫匹婦)は一夫一婦であったが、上流階級は一夫多妻が当たり前であった。日本でも公家は一夫多妻であった。しかし重時は家訓として一夫多妻を禁じている。

 また家訓に言う。「女性は成仏し難いなどというが、そんなことはない。法華経に女性が成仏した例はたくさんある。特に女性はこころ深いので、一心に念仏すれば極楽往生することは間違いない」。重時は、女性はこころ深い(思慮深い)と言っている。

 また、言う。「妻子の言うことはよくよく聞くべきである。道理に合わない場合は、女わらべのならいと思い、道理を言う場合は、以後このように何事も聞かせよ、と励ますのがよい。女わらべといやしんではならない。天照大神も女体である」。

 こうした家訓から北条重時の、現代の日本の男をはるかに上回るフェミニストぶりを感じるが、こうした精神はひとり重時のものだけではなく、鎌倉武士に共通していた。源頼朝とともに鎌倉幕府をつくりあげた妻・北条政子は、頼朝が他に女性をもつことを許さなかった。頼朝は武家の棟梁とはいえ貴種であり、一夫多妻に何の抵抗ももたなかった。しかし東国の武家で育った政子は、武家たるものは一夫一婦たるべしという、ゆるぎない規範意識をもっていた。

 鎌倉時代、所領の相続に関し、女性は法的に男性と同等の権利が与えられていた。当時の法である関東御成敗式目(貞永式目)は、女子の相続権についての次のように定めている。「男女は異なるといえども、父母の恩は同じである。女子は所領を持参して他家に嫁ぐことがあるが、男子と同様に女子にも所領の相続を認める。そして親は生きている間、相続者が息子であろうと娘であろうと、譲った所領に対して「悔いかえし」する権利をもつ」。「悔いかえし」とは、譲った所領を思い直して取り上げることである。

 また、妻が夫から所領を相続する場合もある。夫が譲状を妻に渡したあと、離婚した場合、夫は「悔いかえし」ができるか。この場合貞永式目は、妻の方に重要な過失等があって離婚になった場合は別だが、そうでない場合、夫による「悔いかえし」はできないと定めている。そしてこうした妻の権利は妾にも認められていた。

 鎌倉時代、所領の相続に関し男女同等の権利を保証した貞永式目は、古代の律令や現在の日本国憲法などと異なり、外国由来ではなく、当時の日本の武家社会の慣習、規範、生き方から生まれた純粋な日本人の法である。

 女性の地位について考えるとき、鎌倉時代という中世において、日本は世界的に女性の地位の高い社会だったとの思いをもつ。

令和元年8月15日

第34回 徳と知と――日本文化考

 ギリシアの哲人ソクラテスは「徳は知なり」と言った。人間の道徳も結局、人間の知、すなわちそれを知っているか、知らないかに帰着する。不道徳は無知のゆえであり、知者ならば、自然に徳ある人となる。

 日本人の多くはそう思わないのではなかろうか。日本文化には伝統的に徳と知は別だとする考え方がある。知者は必ずしも徳ある人ではない。また仁者(徳ある人)であって知者でない人もいる。そして、大切なのは徳であって、徳は知よりも上位にある精神的価値である。

 福澤諭吉は『文明論の概略』で、文明の進歩は人間の知と徳の進歩であるが、日本は伝統的に徳に重点が置かれてきたと言う。そして、今(明治時代)日本の文明の知は西洋に及ばないので、知の進歩を重んずるべきであると述べた。福澤は、日本史上初めて知の重視を説いた精神的指導者だといわれる。

 日本は歴史の中で、徳を知の上に置く文化を培ってきた。知ある人をよく「才ある人」と言い、徳ある人ほどは尊敬しない。「才知」ということばもある。儒教の影響で、人を君子と小人に分け、徳ある人が君子で、才があっても徳のない人は小人である。日本で理想とされる指導者は知の人でなく、徳望の人である。大局観をもち、細かいことは知らなくてよい。部下に任せ、そして責任をとる。いわゆる能吏、技術者、スペシャリストは、徳望の人の下で働くのがよい、とする文化である。

 戦前の日本の軍部も、日本のこうした文化に支配されていた。陸軍は日露戦争を戦った大山巌満州軍総司令官と、総参謀長児玉源太郎のコンビを理想化した。西郷隆盛の従弟である大山巌は茫洋とした人物で、部下に一切を任せ、責任を取るタイプだった。児玉源太郎は陸軍きっての知謀の人。大山に一切を任されて日本軍を指導、ロシア軍と戦い、そして勝った。

 この成功体験の影響は大きかった。陸軍の軍人は地位が上がるほど、知よりも徳望を重視した。中堅将校の声望を担うような徳望のみの人物が昇りつめた。陸軍は反主知的、精神主義的な組織となった。物理学者中谷宇吉郎は、陸軍には科学精神が全くなかったと明言している。

 しかし歴史をつぶさにみると、大山巌と児玉源太郎の実像は陸軍が単純化したようなものではなかった。大山はもともと大変な知の人で、茫洋とした人格は、意識的につくりあげられたものだった。児玉は大山が本来細かい知の人であることをよく知っていた。

 そして天才的な知力をもつと評価される児玉は、まれにみる徳望の人だった。日露戦争で命を使い果たし、戦後急逝したが、存命ならば必ず総理大臣になっただろうと言われている。『坂の上の雲』で児玉源太郎を生き生きと描いた司馬遼太郎が、日本の文化の中で、児玉のような知徳を高度に併せもった人格は珍しいと述べていたと記憶する。

 しかし私は、知と徳は児玉のように一人格の中に両立するものだと思う。ソクラテスの言う「徳は知なり」に共感する。知と徳は二項対立するようなものではなく、日本の徳重視の伝統は良いが、徳には知が伴わなければならないことを強く思う。

令和元年8月1日

第33回 トインビーの文明史観と日本近代

 アーノルド・J・トインビー(1889-1975)はイギリスの歴史家、20世紀最大の文明史家といわれる。該博な知識と巨視的な文明史観をもって世界の文明の興隆と衰退を研究。これを大著『歴史の研究』に著した。

 トインビーは、人間の文明は、過酷な自然環境や人間環境から様々な挑戦を受けて苦しみ、これに応戦することによって発生するという。そして挑戦に対する応戦の成否が文明の興亡を決める。逆境が文明を生み、困難な挑戦に対する創造的応戦が文明を成長させるが、順境、安逸と成功体験による創造的応戦の喪失が文明を挫折させ、衰退させる。そして創造的応戦力を喪失させるものは、成功体験の偶像化であり、これを先導するのは驕慢であるという。

 トインビーは世界史の数多くの文明の興亡を研究して、こうした文明興亡の様相が普遍的にみられることを説いている。日本の近代の盛衰もトインビーの文明史観で説明できる。

 幕末、ペリーの来航(1853)に始まる西欧文明の挑戦は、日本に未曾有の困難をもたらした。アジア諸国は次々と植民地化された。科学革命と産業革命を経て近代化し、強い軍事力をもつ西欧列強に対して、攘夷など不可能であり、日本が生き延びるには、開国して西欧並みの強い近代国家になるしかないと信じ、富国強兵の国家目標に邁進したのが日本の応戦であった。日本の渾身の応戦は成功だった。日露戦争(1904-1905)に勝ち、不平等条約の改正にも成功し、日本は列強の一員の地位を得た。

 日露戦争後日本はつまずき、転落していく。日本のつまずきは、5大国となった絶頂の日本が北京政府に突き付けた対華二十一箇条要求に始まる(1915、大正4)。

 昭和の始め頃より日本は軍部に国政を支配された。満州事変(1931、昭和6)、国際連盟からの脱退(1933)、1937年から始まる日中戦争の泥沼化、日独伊三国同盟の締結(1940)、すべて軍部に引きずられた結果である。そして日米戦争に行きつき、徹底的に敗北する。軍部は日露戦争での成功体験を偶像化し、創造的応戦ができなかった。そして軍部には驕慢な精神が横溢していた。

 1945年、敗戦、廃墟、欠乏という挑戦に対する戦後の日本人の応戦は必死だった。必死で働き、懸命に産業を興した。高度成長を実現し、1968年にはGDP世界第2位の経済大国となった。一人当たりのGDPも1980年頃には欧米先進国並みとなった。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という著書も現れた。戦後に始まる昭和の後半(1945-1989)の日本は国力が興隆した成功の時代だった。

 1989年から始まる平成の時代は日本が国力を落とした30年と評価される。日本経済の国際的地位は継続的に低下した。日本は冷戦終了後(1989~)の世界の大きな変化に対応(応戦)できなかった。成功体験がこれを拒んだ。日本の電子機器産業は情報産業に脱皮できなかった。安全保障に関する世界情勢の変化にも日本は対応できなかった。それは湾岸戦争における日本の失敗に現れた。日本は平和憲法を偶像化した。

 日本は少子高齢化、厖大な国債発行など、国内からも困難な挑戦を受けている。日本は豊かさを維持できないかもしれない。令和の時代は真に創造的な応戦が求められる。イノベーションを創造する若い世代の知力と人間力を期待したい。

令和元年7月15日

第32回 日本の国の誇り

 フランスの詩人、劇作家で外交官だったポール・クローデルは、「私がどうしても亡びてほしくない民族がある。それが日本だ。あれほど古くからの歴史があり、そのまま今に伝えている国はない。彼らは貧しい、しかし、高貴である」と言った。ポール・クローデルは、駐日フランス大使として1921~1927年日本に住んだ。この言葉は、帰国後、第二次世界大戦中の1943年、パリの夜会での彼の発言である。

 私は年とともに、こういった日本評価が正鵠を得ており、我々の先祖、先輩が築きあげてきた日本が立派な国であることがわかるようになった。

 クローデルは「貧しいが高貴である」と言ったが、日本には善悪を美しいか否かで判断する「美の倫理」が存在している。日本には火事場泥棒を最も恥ずべきとする倫理が定着しており、被災地に略奪は起こらない。しかし世界的にはそうでない。戦国時代に来日した宣教師ザビエルは、「日本人は驚くほど名誉心が強く、武士もそうでない人も貧しいことを不名誉だと思っていない」と記している。  

 日本人は正直と誠実を最も好み、術策を嫌い、人を信じようとする。日本の倫理における正直と誠は、神から見て曇りのない清らかな心のあり方といった宗教的な高みに達している。日本が長い歴史の中で培い、クローデルが高貴だと感じた日本の美の倫理は、明治の開国後も存続し、令和となった現在も消えていない。

 1945年、太平洋戦争における敗戦が日本の伝統的倫理に衝撃を与えた。一民族が戦争に敗れて、他民族に支配されると致命的ともいえる大きな影響を受ける。日本人は敗戦後日本という国に、そして伝統的な倫理道徳に自信を失った。GHQは占領政策として「ウォー・ギルト・インフォメーションプログラム」という、日本人に戦争の贖罪意識を植えつける教育プログラムを実施した。修身や歴史の教育が禁止され、日本は侵略戦争した悪い国だという観念を身につけさせた。そして日本の子供は日本の国に対する誇りがもてなくなった。中江藤樹、上杉鷹山、二宮尊徳などの偉人伝も学校教育から消えた。

 チャーチルは日本の戦後を見て、日本は敗戦の影響を百年受けるだろうと予言したが、戦後74年経った今なお日本は敗戦の精神的影響を清算できていない。マスメディア、教育界、左翼政党において、戦後を支配した精神的傾向はなお色濃く見られる。「愛国心」、「国家」、「国防」といった言葉に否定的に反応し、国の安全保障に関する議論がまともに行われない。倫理道徳といったことがらに対して、虚無的に反応し、真面目な議論を避ける。戦後の教育空間で、子供は日本をよい国だと思ってはいけないといった考えを身につけて社会人となった。

 歴史家が言うように、国が誇りを失うと亡国の道を歩むだろう。日本が誇るに値する国だと思わないのは、日本を知らないこと、日本の歴史に対する無知からくると私は思う。日本の歴史を素直に知れば、日本が誇るに足る国であることがわかってくる。日本をつくりあげてきた先祖、先輩に感謝の気持ちがわいてくる。我々は国に誇りをもち、日本の伝統と文化を若い人に伝えつつ、自信をもって世界の中で生きていきたい。           

令和元年7月1日

第31回 日本の経済道徳思想 二宮尊徳と渋沢栄一

 二宮尊徳は「経済なき道徳はたわごとであり、道徳なき経済は犯罪である」と言った。また渋沢栄一は「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は永続することができぬ」と、『論語と算盤』で説いた。

 二宮尊徳(1787-1856)は江戸時代後期の農政家。荒廃する農村の復興事業に生涯を奉げた。尊徳が手がけて再建された関東東北の農村は600余村に上る。渋沢栄一(1840-1931)は明治時代を代表する実業家。第一銀行、王子製紙、大阪紡績をはじめとする企業の設立および経営に深く関与し、その数は470社に及ぶ。日本資本主義の父と称される。

 日本のこうした大実業家が、経済と道徳は一体である、一体でなければならない、と説いている。

 このような日本の大実業家の思想を、現代の経済学者はどう評価するのだろうか。あまりにも当たり前で、学的研究の対象にならないとされているのだろうか。尊徳については、さらに報徳思想や推譲の思想がある。大多数の日本人が共感するこうした経済道徳思想こそ、経済学や倫理学で深く研究すべきだと信じる。

 二宮尊徳と渋沢栄一は生きていた時代も、また行った事業も異なるが、両者には大きな共通点がある。まず二人とも実業に生きた人であり、実践の人だったことである。尊徳は学者と坊主が最も嫌いだと言っていた。これは学者と坊主が実践の伴わない教えを説くのを軽蔑した言葉である。道徳と経済に関する二人の主張は徹底した実践知だった。

 次に二人ともひたすら社会に尽くした実業家だったことである。尊徳は篤農家であり農村指導者であるが、同時にスケールの大きい実業家、商人、政治家の面をもっていた。彼が農村復興でなく、自分の財産形成のために事業を行っていたなら、莫大な富をもつ資産家、あるいは何万町歩の大地主になっていただろうと言われる。しかし彼はそうしなかった。渋沢栄一も同様である。渋沢は「わしがもし一身一家の富むことばかり考えたら、三井や岩崎にもまけなかったろうよ。これは負け惜しみではないぞ」と子供たちに語ったと伝えられている。

 そして私が両者の伝記を読んで最も強く感じる点は、二人とも、非常に進取の気性に富み、卓越した知力をもった合理主義者だということである。これは、尊徳については一般にイメージされている人間像とは違うかもしれない。尊徳の農村復興事業は、必ず農民と武士の取り分である分度を明確に決めて実施したが、分度の決定にあたって、過去数十年にわたる農業生産の実績を数字で示し、適確な分度決定に導いた。また、尊徳は商人的な鋭い金銭感覚をもち、米経済から貨幣経済に移行する世の動きを敏感にとらえていた。

 渋沢栄一も並外れた先見性と合理性の持主だった。彼は幕末の動乱期に青年時代を過ごし、外国(フランス)にも行き、移り変わりの激しい明治時代に壮年期を過ごしたが、新しい知識を実に偏見なく受け入れ、自分の考えを柔軟に変えていった。頑固な信念に固まるタイプからほど遠い合理的なプラグマティストだった。

 尊徳晩年の幕末期の日本と、渋沢最晩年の昭和初期の日本は、地方の疲弊、行政の硬直化、閉塞感など、現代の日本と共通している。偉人二宮尊徳と渋沢栄一の思想と行動から、時代を切り開く叡智と実践力を学びたい。

令和元年6月15日

第30回 日本の仕事の思想

 今はもう昔のこととなるが、日本の経済力が世界を席巻していた昭和の頃、欧米人から日本人は働きすぎだと非難された。外国からの批判に極端に弱い日本人は、その気になって、自国のすぐれた勤労文化に自信を失い、経済の沈滞を招いている。欧米人のこうした批判に対しては、日本の伝統文化の仕事の思想に自信をもち、しっかりと反論しておけばよい。

 欧米には労働苦役思想が存在している。聖書によると、神の命に背いたアダムは、「一生苦しんで土より食物を得よ」と楽園から追放された。土から食物を得る労働は懲罰であった。欧米も宗教の近代化とともに、次第に労働観も進歩したが、なお労働苦役思想は根強い。スペインに「カスティガード」という言葉がある。これは「神に罰せられた人」という意味で、くそ真面目に働いている人を嘲笑した言葉である。

 これに対して日本は働くことに非常に大きな価値を見出す文化を培ってきた。日本の伝統文化である神道には労働を苦役とする思想はない。神道では神々も働き、労働は神事である(労働神事説)。労働することは神に仕え、神と共に働くことである。ゆえに働くことは無条件に善である。

 西洋のキリスト教と同様、日本も宗教(仏教)が労働観を深化させた。江戸時代の初期、鈴木正三(1579-1655)は「職分仏行説」を説いた。これは、人は日々の仕事に専念することがそのまま仏道修行になるという教えである。士農工商のいかなる人も職業に励めばそれが仏道修行となり、成仏できる、すなわち救済される。

 現代日本を代表する経営者稲盛和夫の仕事の思想は、鈴木正三の延長にある。曰く、「ひたむきに自分の仕事にうちこみ、たゆまず努力をかさねていくこと、---それが修業となって人間を成長させてくれるのです。---働くこと自体に試練を克服し、人生を好転させるすばらしい力があるのです---」。稲盛さんは、人は働くことによって救済されると説いている。

 日本人の仕事の思想は日本の歴史の中で深められ、仕事が喜びであり、仕事の中に人間の尊厳を見出す高みに到達している。いい加減な仕事や、労働を切り売りするといった発想を日本人は好まない。満足のいく仕事、良い仕事は自己の尊厳そのものである。日本人のこうした仕事の思想は、日本に住んだ多くの外国人の目にとまっている。戦後日本を統治したGHQのマッカーサーは、極東政策をめぐる証言で、「日本人の労働力は質的にも量的にも優秀であるばかりか、遊んでいるときよりも働いているときの方が幸福であるという、いわば労働の尊厳を見出している」と述べている。

 人が職を失うとしばしば自尊心も失うことは、世界的に認められている。従って仕事に自己の尊厳を見出すのは日本が特殊というわけではなく、世界共通だと思う。ただ日本では、尊厳といった難しい言葉以前に、国民一般に、良い仕事をしなければ人間として満足しない感覚があり、これが日本のすばらしさである。

 途上国における国際協力プロジェクトにおいても、日本は必ず実行しやり遂げる、と評価されている。こうした日本人の姿勢は日本の仕事の思想が生んだものである。日本に対するこうした評価は、平成の時代に少し落ちたような気もするが、先人が築きあげてきた仕事に対する姿勢はまだまだ健在だと思う。

2019年6月1日

第29回 竹山道雄 真の知識人

 竹山道雄(1903-83)をご存じだろうか。戦後児童文学の傑作『ビルマの竪琴』の著者として知られている。しかし、竹山は児童文学の作家というより、戦前、戦中は旧制一高のドイツ語教師であり、戦後は論壇で時代に迎合しない存在感を示した知識人であった。戦前、戦中、戦後も一貫して自由な精神をもって日本と世界をみつめ、「反時代的」であることを恐れず、その考察をすぐれた文章であらわした。

 戦前日本がドイツになびき、ドイツ研究の専門家までがナチス礼賛に向かっていたとき、竹山は敢然とナチスドイツを批判した。ナチスのドイツにおいては、真理とは国家であり、民族であり、これを保証する権威は党政治である。そうして個人や、その自由や、その知性――すなわちルネッサンス以来のヨーロッパ人本主義の原動力となった原理――が否定されている、と。

 竹山はドイツがどうしてこのように急変したかを、ドイツ人の国民性にまでさかのぼって考える。曰く、ルネッサンスに続く啓蒙思想に最も深く触れてこれを指導原理としたのは英仏であり、ドイツにおいてはその影響は比較的少なく、社会は封建の形を多く残している。ドイツ人ははなはだしい主観の人で、観念的である。我々日本人は観念的すなわち論理的・合理的かつ明確と考えたがるが、ドイツ人は観念的でありながら不明晰である。主観的――これがドイツ人の精神の竜骨である。その叙情味も、憧憬も、非合理主義も、狂信熱も、内面性も、非造形性も、音楽もことごとくこれに源を発している。近世ドイツ精神の高揚は、西欧の合理主義・啓蒙思想への反発に由来する。ドイツ人は「心は東に向きながら、頭だけが西に向いている」のである、と。

 そして竹山は、このことだけははっきりしていると言った。「思考の自由という一点に関する限り、英仏側が勝てば、少なくとも我々の生きている間位は、何等かの形において救われ得る。ドイツが勝てば、そんなものは立ちどころに根底的に奪われるであろう」と。

 戦後になって竹山を困惑させたものは、流行するマルクス主義史学による昭和史の解釈であった。竹山は、昭和の日本が戦争し敗戦したのは、史実を見るとき、マルクス主義史学者が主張するような、封建制の残滓としての絶対主義的天皇制、官僚制、そして重臣と軍部とが、国民を道連れにしてファシズムに転落していった、というようなものではなかったと言う。

 革新派青年将校が国家社会主義イデオロギーにとりつかれ、機関説的天皇制とその君側の奸を打倒して、統帥権的天皇の親政を樹立しようとした。代々の内閣の首相、陸海相、外相らは、この軍部革新派の狂気の暴走を抑えようとして抑えきれず、抑えるために妥協を重ねるうちに、大陸の戦線は拡大し、国民の愛国主義的感情は高揚して知性は劣化、ついに太平洋戦争という冒険に突入してしまった。

 日本の陸軍は無形無名の下剋上のうちに政治化し、中堅将校が統帥権と「軍の総意」を盾に国家の決定を支配した。当時の日本には統一された最高指導者は存在せず、軍の下剋上が国を引き回した。

 竹山のこうした見方は、いま昭和史の定説になっていると思う。ものの本質をみる、竹山のぶれない高い知性は、令和となった今の日本をどう見るだろうか。

2019年5月15日

第28回 小泉信三  天皇の師、勇気ある自由人

 4月30日平成の時代が終わった。平成の世を顧みて人々は、天皇陛下が立派な人で良かったと思うのではなかろうか。天皇は、無私、誠実の極にあるような人で、「陛下のご君徳」といったありきたりの言葉では言い表せない人格と識見の持主だったと私は思う。

 世界史をみて、国の統治形態は立憲君主制が最も良いと私は思っている。日本の天皇は世界で最も古い歴史をもつ君主で、こうした皇室の存在自体が、世界から敬意を払われているが、さらに、その地位にある象徴としての天皇が人間的に立派であることは、日本を大きく裨益するものである。

 退位された天皇のご人格について考えるとき、皇太子時代の師だった小泉信三のことを我々は思い出す。

 小泉信三(1888-1966)は福澤諭吉の高弟・小泉信吉を父として生まれ、慶應義塾で学んだ。経済学を専攻し、マルクス主義を強く批判する自由主義経済学者として知られるようになる。1916年慶應義塾大学教授となり、1933年(昭和8)から戦争をはさんで1947年(昭和22)まで慶應義塾塾長。1949年(昭和24)、強く請われて東宮御教育常時参与に就任。皇太子の教育全般を担う役職についた。皇太子のお妃選びにも深く関与し、1959年(昭和34)正田美智子さんとのご成婚となった。1966年(昭和41)、心筋梗塞により急逝した。

 1976年(昭和51)、明仁皇太子は記者会見で、子供の教育に関し、「私の場合、小泉(信三)先生、安部(能成、学習院)院長、坪井(忠二、東大教授)博士と三人いました。小泉先生とは常時参与という形で----。私はその影響を非常に受けました」と語っている。

 小泉は、将来の君主である皇太子に対して、君主の「人格その識見」は自らの国の政治に影響し、勉強と修養は日本の明日の国運を左右するものであると説いた。

 小泉は『ジョオジ5世伝』をテキストに選び進講した。イギリスの王ジョージ5世(在位1910-1936)はエリザベス2世の祖父。彼は英雄でも天才でもなかったが、謹厳実直で、立憲君主制における君主のあり方の奥義を身につけた名君であった。国民はジョージ5世が王位にあることによって堅固と安全を感じた。第一次世界大戦後、激変するヨーロッパで、立憲君主国イギリスの安定はきわだっていた。

 小泉信三は自由主義者であった。マルクス主義が時流の学会にあって、一貫してこれを批判し続けた。資本主義から共産主義への発展、社会主義計画経済、剰余価値説、唯物史観などに関する小泉の批判を今読むと、小泉がいかに当たり前の正しいことを言う、良識ある学者であるかがわかる。

 日本が独立を回復する1951年のサンフランシスコ講和条約で、小泉は自由主義諸国との間で講和し、できるだけ早く独立を回復する単独講和を支持した。当時、南原繁東大総長をはじめ、ほとんどの知識人が共産主義国との講和を含む全面講和論を展開した。私はここに小泉の「学者バカ」ならぬ良識をみる。

 小泉信三は勇気ある自由人だった。氏は福澤諭吉と同様、武士的な道徳的背骨をもつ、最高レベルの知識人だったと思う。                                  

2019年5月1日掲載

第27回 脱亜論―福澤諭吉の絶望と慧眼

 明治を代表する思想家・福澤諭吉が、明治18年(1885)『脱亜論』を説いたことはよく知られている。曰く、「日本は西洋文明の東進に接し、国の独立を全うするため、体制を変革して国家国民的規模で西洋文明を受け入れた。しかし、近隣のシナ(中国)、朝鮮の二国は、百千年の古風旧慣に恋々とし、改進の道を知らない。日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。教育は儒教主義で、一から十に至るまで外見の虚飾のみを事とし、実際においては真理原則の知見もなく、道徳も地に落ち、なお傲然として自省の念がない。この二国は文明東進の情勢にあって、独立を維持することはできないだろう。しかるに西洋人は、日本、シナ、朝鮮の三国を同一視し、シナ、朝鮮の評価で日本を判断する。その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となることは少なくない。日本は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる余裕はない。むしろその仲間から脱出し、西洋の文明国と進退を共にし、シナ、朝鮮に接する方法も隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するようにやればよい。悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。自分は心の中で東アジアの悪友を謝絶する(以上要点のみ)」

 福澤の脱亜論は、アジア蔑視論として当然中国、韓国に極めて不評であるだけでなく、戦後の日本の歴史家もこれを批判している。しかし、実際、この脱亜論は、朝鮮の近代化を積極的に支援してきた福澤の、挫折と失望の表明であった。福澤は近代化を進めようとする朝鮮の金玉均、朴泳孝などの改革派官僚に様々な支援をしていたが、改革派によるクーデターは、清国(中国)軍によって鎮圧され(甲申事変)、改革派官僚はその三親等に至るまで残忍な方法で処刑された。

 福澤は朝鮮とシナの固陋に深く失望し、朝鮮の近代化支援を断念した。そして、西洋列強の野望渦巻く過酷な国際情勢下で、日本が共にアジアを興す余裕はなく、日本の独立を全うするために、シナ、朝鮮と袂を分かつべきだという脱亜論となった。

 福澤はその後明治30年(1897)、朝鮮について「事実を見るべし」として時事新報社説に書く、「本来朝鮮人は数百年来儒教の中毒症に陥りたる人民にして、常に道徳仁義を口にしながら、その衷心の腐敗醜穢、ほとんど名状すべからず。上下一般、共に偽君子の巣窟にして、一人として信を置くに足るものなきは、我輩が年来の経験に徴するも明白なり。さればかかる国人に対していかなる約束を結ぶも、背信違約は彼らの持前にして豪も意に介することなし。すでに従来の国交際上にもしばしば実験したる所なれば、朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して、事実上に自ら実を収むるの他なきのみ」、と。

 現在、韓国が慰安婦問題や徴用工問題で、また北朝鮮が拉致問題で国家間の約束を平然と無視することに日本はいらだっているが、今から120年前の福澤の文章に接して、福澤の慧眼に驚くとともに、朝鮮(韓国、北朝鮮)は全く変わっていないことに気づく。

 絶望した福澤が、日本の独立を全うするために結論した朝鮮との付き合い方は、現在でも有効ではなかろうか。福澤の時代もそうであったように、朝鮮半島・中国との関係は、日本の国の安全保障に直結している。今も日本に求められる最も大切なことは、ゆるぎない自国の独立である。

2019年4月15日

第26回 在日外国人のメッセージ

 日本に長く住む外国人が現在の日本をよく見ている。

 以下、『ニッポン人はなぜ美しい習慣を捨てるのか』と題する本に載せられている在日外国人の意見をいくつか拾ってみる。

 「日本は第二次世界大戦に負けて以来、自信をなくした。自信をなくした人たちが子供を育てる際、伝統を否定し、アメリカを偶像化した。その結果、日本は次第に悪くなった」、「日本人は戦後信じるものをなくして、その傷はなお癒えていない。それは日本人の多くが自分の国を卑下し、自分の政府を信用しない点に表れている」、「日本人が自分の国の良さを知らないのは、教えられていないというのが最大の理由である」、「今の日本人、特に若い人は儒教を知らない、仏教を知らない、神道を知らない、武士道を知らない、日本の古典を読んだことがない、文化面で空洞化している」、「江戸時代の日本は世界のどの国と比べても圧倒的に豊かで知的だった。そして国として自立していた。今は国も国民も自立していない」、「日本人にはもっとしっかりしてもらいたい、私は世界に日本よりいい国があると思わない」(以上ビル・トッテン、米国)。

 「20年前の日本人にはエネルギーが感じられた。今の日本人はマイナス思考になっている」、「日本にはすばらしいものがいっぱいあるのに、若者のそれへの関心が失われつつあるのが残念だ。若い人たちには、自国の良さを知ってほしい」、「今の日本語の乱れ、あるいは衰亡は民族としての日本人の存亡の危機につながるのではないか。僕は今の現象を日本語のタガログ語化と言っている」(ピーター・フランクル、ハンガリー)。

 「“はしたない”が死語になって寂しい。初めて来日した頃に比べると日本はオープンになったが、マナーは悪くなった」、「かっての日本人は一生懸命仕事をしているという印象があった。今は一生懸命を嗤うような感じがある。なぜそうなったのだろうか」(ダリオ・ポスネッスィ、イタリア)。

 「今の日本の若者は自国の歴史や文化を知らないし、極端に言うとそれを恥じているように思える。日本の歴史や価値観が遅れたものであるかのように思っている。ちゃんと日本の文化や歴史を正しく教えて、それが誇るに足るものであることを認識させる必要がある」、「日本には発信する内容がないわけではなく、たくさんあるのに発信する行為がない。外のものをただ受け入れるのが国際人であるかのように思っている」(郭洋春、韓国)。

 「親殺し、子殺しを平気でやる日本。最近の子供は命あるものを知らない。日本は危ない方向に向かっている」、「20年前初めて来た頃の日本と今の日本は全然違う。今の日本人は動物人間になっている。美しい国で親切、勤勉な国民はどこに行ったのか」、「それでも日本は世界の中でうんと安全な国であることに変わりはなく、平等で、環境もよい理想の国である」(孔健、中国)。

 こうした外国人に共通するのは、日本は立派な歴史と文化をもっているのに、教えられていないがゆえに、それを知らず、その結果自国を卑下し、美徳も自立心も失われているという認識である。しかし私は、若い世代はそのことに気づいており、日本の良さを知ろうとする者がふえているように感じている。

2019年4月1日

第25回 ドナルド・キーンと日本文化の普遍性

 2月24日ドナルド・キーンが亡くなった。96歳だった。

 ドナルド・キーン(1922-2019)は米国出身の著名な日本文学・日本文化研究者。コロンビア大学在学中アーサー・ウェイリー訳『源氏物語』に感動して日本研究を始めた。1953年京都大学に留学し、1960年コロンビア大学教授(日本文学)。古典から現代文学にいたるまで広く日本文学を研究して海外に紹介し、日本文学の国際的評価を高めるのに貢献した。2008年文化勲章を受章。91歳のとき東日本大震災を見て日本永住を決意し、日本に帰化した。

 日本文学と文化に関するキーンの研究業績は厖大であるが、主な英文著作に、『日本文学史』、『明治天皇』、『日本との出会い』、『百代の過客 日記にみる日本人』、『能・文楽・歌舞伎』などのほか、近松門左衛門、吉田兼好、松尾芭蕉、三島由紀夫、川端康成、安部公房らの作品の翻訳がある。また、『日本文学を読む』、『二つの母国に生きて』、『日本文学は世界のかけ橋』といった日本語の著作を残している。

 キーンの最大の業績は、日本文学と日本文化が決して特殊なものではなく、世界の誰もが理解できる普遍性をもつとのメッセージを発信し続け、日本文学と文化に関する世界の評価を変えたことにあるだろう。

 キーンが日本の研究を始めた頃、日本文学に対する偏見はなお強かった。キーンがケンブリッジ大学で初めて教鞭をとった時、英国人から職業を聞かれ、「日本文学を教えています」と言うと、一様に「どうしてサルまねの国の文学を教えるのですか」と、聞き返されたという。

 こうした偏見と無理解は、日本を自分たちの尺度でしか理解できなかった欧米人が―『菊と刀』の作者ルース・ベネディクトもその一人だと私は思う―、日本を神秘の国とか、不可解な国だと紹介したことに原因があるが、日本人自身が日本文化は特別で、外国人には理解できないと思いこむようになったことにも原因があるとキーンは言う。

 キーンは日本人をはるかに上まわる日本の古典の読解力をもって厖大な日本文学を読み、日本文化を研究。そこに見られる著しい美的趣向、豊かな感受性、比類のない多様性のすばらしさを発見した。そしてこれが決して特殊ではなく、外国人が十分理解でき、世界の文学、文化の一部となる普遍性をもつとの信念を数多くの著作で発信し続けた。現在、日本文化が世界文化の一部となっていると感じる人が増えているとしたら、それはキーンの半世紀以上にわたる世界への発信がもたらした成果だと言っては言い過ぎだろうか。

 キーンの日本文学と文化への驚嘆すべき造詣の深さは、ほんの二、三の著作を読めばわかるが、例えば「一休頂相」というエッセイからは、一休(あの頓智で親しまれた一休さん)の人間に共感するキーンの深い理解が伝わってくる。これほど卓抜した一休論を私は知らない。

 キーンは第二次世界大戦中、米海軍に情報士官として勤務、沖縄で日本人捕虜の尋問等に当たった。遺品となった多くの日記や手紙を読み、「日本人は何と内面を繊細に語るのか」と日本人に対する敬意が増したという。こうしたキーンの人間性が、日本文学と文化への深い理解をもたらした。

 キーンが日本文学と文化に関して世界を啓蒙した功績ははかり知れない。われわれ日本人は限りなく多くをキーンさんに負っている。

2019年3月15日

第24回 五・一五事件における報道の異常

 1932年(昭和7年)5月15日、三上卓、山岸宏、黒岩勇ら海軍の青年将校四名が、陸軍士官学校生徒五名とともに総理官邸を襲い、犬養毅首相を暗殺した。同時に陸軍士官学校生徒四人が牧野伸顕内大臣邸を襲ったが、牧野大臣は不在で無事。さらにもう一つのグループは政友会本部と日本銀行に手榴弾を投げ込むが、不発だった。

 この五・一五事件は、杜撰なクーデター計画であったが、このテロがその後の日本の進路に与えた影響は限りなく大きかった。

 驚くべきは、テロの実行犯である海軍の青年将校らがあたかも正義の士であるかのような世論が形成されたことである。徒党を組んで一国の首相を殺害したのであるから、重罪であり、厳重な処罰しかありえないが、事件の公判が始まって二か月も経つと、誰が犯罪者かわからないような世論が生まれていた。

 こうした空気を形成したのは当時もマスメディアだった。新聞は、「現代の社会の腐敗堕落は現支配階級の腐敗によるものだ。彼らは政治の根本義を忘れ、党略にふける選挙、議政壇上における醜態、涜職事件甚だしきは統帥権干犯まで行い、これらにより日本の腐敗が招来された」という被告人の主張をそのまま掲載し、被告人の「元老・財閥・政党等特権階級」への批判を正当化する言説を展開した。

 公判開始後一か月もすると新聞は、「五・一五被告に感激 減刑運動・猛然起る 全国在郷軍人も起つ 減刑嘆願四万突破」といった見出しで、減刑嘆願運動について語り始めた。

 『東京日日』に送られてきた次の投書が、マスメディアによって動かされた当時の世論をよく表している。「妾(わたし)は日給八十銭の女工の身で御座いますが、この間までは犬養総理大臣を暗殺した軍人方に対して妾(わたし)どもは非常に反感をもっておりましたが、今回新聞やラジオのニュースで暗殺せねばならなかった事情とか、皆さんの社会に対する立派な御考、さらに皇室に対するお気持ちをお伺いしまして、私共の今迄考えて居った事がまことに恥ずかしく感じられ---。」

 判決は、「国法を犯したのはよろしくないが、愛国の至情を諒とする」もので、首謀者の海軍士官三名が禁固一五年、一名が禁固一三年、陸軍側は最も重い刑で禁固四年であった。これは異常に軽い判決と言わなければならない。疑いなく判決は世論の影響下にあった。五・一五事件のテロに対するこの判決の軽さが、後に二・二六事件を引き起こすことになる。

 マスメディアはなぜ五・一五事件のテロ実行犯を擁護する報道キャンペーンをはったのか。まず、当時世界恐慌に端を発した大不況の中にあり、強い社会不安があった。党利党略に腐心し、財閥と結託して腐敗している(と新聞が報じる)政党政治に対する不満が国民に蓄積していた。こうした中、政治を批判し、国民の共感を呼ぶような、テロ実行犯の純真かつ悲壮な国士的精神を伝え、青年将校らの革新運動への同調的報道となった。結局マスメディアのポピュリズムである。

 しかし、マスメディアには国政に対する責任感はなかった。五・一五事件は日本の政党政治を終焉させた。以後軍部による国政の壟断が進み、最後は大東亜戦争に行きつく。五・一五事件におけるマスメディアの報道ぶりが、その後の日本の進路を誤らせた。

2019年3月1日

第23回 日本の美の倫理

 日本に長く住む、あるいは住んだことのある外国人が、日本人は善悪を美醜で判断すると指摘している。明治から大正、昭和と35年間日本に住んだイギリス人ジョージ・サンソムは、日本人の道徳の基準は、「何々すべし、すべからず」といった論理的命題ではなく、ただまことに鋭い「美醜の感覚」によって維持されてきたと言う。また、韓国で生まれ育ち、日本に帰化した呉善花は、「---日本人の行動基準を律しているのは、何が善か、何が悪かという道徳律ではなく、何が美しいか、何をするのが醜いかであり、総じてどう生きる(死ぬ)のが美しいかという美意識である---」と言っている。

 外国人に指摘されると、改めてそうだと気づかされるが、確かに日本人の善悪の判断に「それは美しいことか、汚いことか」といった感覚が横たわっている。日本人は「そんな汚いことをするな」、と子供に教える。悪とはどんなことか、感覚でわからせるようなところがある。あの男は汚いとか、薄汚い男だといえば、男の嫌悪すべき人間性がイメージされる。日本で人間が汚いという評価は、嘘つきと並ぶ道徳的にほぼ最低の評価となる。

 日本人には、総じて美しいことが善であるといった(無意識の)感覚がある。清らかなこと、純粋であること、けじめがあること、潔(いさぎよ)いこと、誠実であること、嘘をつかないこと、人を信じること、言い訳しないことなどは美しいことであり、それはそのまま道徳的に良いことである。逆に法的に問題なくても、行為に醜いものが感じられた場合、日本人の是とするところにならない。

 日本には確かに善悪を美で判断する倫理感覚が存在するが、外国ではどうだろうか。キリスト教圏にあっては、倫理、道徳の基礎にあるのは宗教であるとの確信があるだろう。そしてキリスト教倫理は美意識を根底にして成立しているわけではない。それでは日本にある美の倫理は、特殊な普遍性のないものだろうか。サンソムはこれが日本の大いなるユニークさだと言い、呉善花はこうした倫理のあり方は日本以外には見られないと言う。

 しかし、必ずしもそうではないのではないか。英米人の道徳感情の根底に「fair(公正)かunfair(不公正)か」が横たわっている(と思う)が、「fair」には「美しい」という意味もある。また、「dirty(汚い)」には「dirty trick(奸策)」といった用法に見られるように、「卑劣な」という意味もある。私は、倫理を美で判断するのは人間の普遍的な感情であるが、外国においては宗教の発達が著しく、これが完全な倫理の基礎を提供し、道徳律として論理化されたので、本来の美意識による判断が希薄化したのではないかと思う。

 日本では普遍的な美の倫理がそのまま継続して現在に至っている。それには日本の伝統宗教である神道の影響があった。神道は古来の日本人の生活感覚であるが、実は神道の根底にあるものが美である。神道には論理化された教義はないが、心身を清浄にし、「清明正直」、すなわち、清く、明るく、正しく、直く生きることを理想とする。神道は美、特に清浄の美を根底にもつ宗教であるといえる。

 真善美は一つであるという深遠な哲学的見解もある。善(よいこと)は美(うつくしいこと)であるという、日本の「美の倫理」に自信をもって我々は世界の中で生きていきたい。

2019年2月15日

第22回 鎖国考 秀吉、家康の安全保障政策

 江戸時代の鎖国は、和辻哲郎の『鎖国 日本の悲劇』に代表されるように、これを否定的にみる歴史的評価が大勢ではないだろうか。和辻は、鎖国がキリスト教と西洋の世界的視野を締め出し、そのため特に科学精神の欠如に代表される日本の文化が形成されたと嘆じている。

 しかし、鎖国に至る状況を知ると、当時の為政者の判断を簡単には否定できない。最大の問題は、キリスト教という一神教の広まりが、国の安全を脅かす危険性があったことである。

 1587年、豊臣秀吉は九州一円の征服後に、主として西九州の有馬・大村領において、また長崎において、イエズス会の勢力が、まさに日本の国家主権を侵すがごとき強堅のレベルに達しているのを実見し、衝撃を受けた。キリスト教の広まりが日本の統治に深刻な問題をもたらすことを直感した秀吉は、同年6月19日、バテレンの国外追放令を発した。

 一日前の6月18日、秀吉は以下の詰問状をイエズス会支部長コエリヨに突き付けた。1.彼および彼の仲間は、いかなる権威に基いて秀吉の臣下をキリシタンになるよう強制するのか。2.なにゆえに宣教師はその門弟と教徒に神社仏閣を破壊させたのか。3.なにゆえに仏教の僧侶を迫害するのか。4.なにゆえに彼らおよびポルトガル人は、耕作に必要な牛を屠殺して食用にするのか。 5.なにゆえイエズス会支部長は、日本人を奴隷としてインドに輸出するポルトガル人の行動を容認しているのか。

 この詰問状に、他宗教と共存しないキリスト教が日本社会の安全を損なうという秀吉の為政者としての懸念と、奴隷貿易するようなヨーロッパ文明に対する嫌悪感が現れている。日本ではこの時代、奴隷制度はなく、これを合法とみる伝統もなかった。当時のヨーロッパは、異教徒や有色人種を奴隷として売買することを悪と考えていなかった。

 秀吉のバテレン追放令は徹底しなかった。キリスト教が実質的に禁じられるのは、1614年の幕府によるキリスト教禁止令以降になる。徳川家康はキリシタンが国法に従い、公序良俗を乱さぬ限りこれを容認していたが、ついに禁止に踏み切ったのは、ひとえに日本の国の安全保障のためである。

 当時スペイン、ポルトガルの力はなお大きく、世界で両国による植民地獲得競争は続いていた。そしてスペイン、ポルトガルの宣教師が、世界の植民地化の先兵となってきたことを、家康はよく知っていた。

 家康はオランダ国王から「---バイテル(イエズス会の神父)は、日本の者を次第々々に我が宗になし、他宗を嫌い、後は少々宗論仕り、大なる取り合い(戦争)もこれあるべく候。そのときはバイテルの存分次第にて候---」という警告の手紙をもらっていた。

 キリスト教を禁止し、これをもたらす諸外国との交際を絶った当時の為政者の決断を、日本の国家理性として擁護する意見がイエズス会側にもあったことは知っていてよい。「---日本人は太閤も将軍も日本の国家的理性に従ってキリシタンの反国家的言動に対処している。スペイン国王は、日本をまず内部工作により、続いて武力発動によって侵略する意図の決してないことを、行動と事実によって証明してみせるべきである---」という手紙を、日本にいる複数のイエズス会神父が本国に書き送っている。   

2019年2月1日

第21回 「言挙げ」の必要性

 日本文化の大きな特色として、「言挙げ」しないことをあげたい。「言挙げ」とは言葉に出して言い立てることである。日本の社会、文化は伝統的に言葉による強い主張を控える傾向をもつ。

 日本には「奥ゆかしい」という美意識がある。自己の能力や業績を主張するのは、はしたない。控え目をよしとする。日本で「自己主張が強い」という評価は決して称賛ではない。

 日本人は相手の非を論理的につき詰めて攻撃することを好まない。和を好む日本人の感情が理を超える。理は酷薄である、あるいは理屈は浅薄であるといった感情がある。ゆえに日本人は、概ね欧米流のディベートの敗者となる。

 日本人は話すことよりも聴くことが大事だと考える。それを教える比喩として、「口は一つだが耳は二つある」という。松下幸之助は聴くことを最も重視した経営者であった。松下はよく聴くことによって、経営の神様といわれるようになった。古来、日本人が聖者として尊敬した人は、決して雄弁な指導者ではなく、人の言うことをよく聴いて直ちに深い理解をしてくれる人であった。

 言挙げしない日本の国の伝統は古い。古代の歌人柿本人麻呂は詠む。「芦原の瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども言挙げぞ我がする 言幸く さ幸くませと―」。日本は言挙げせぬ国だが、自分はあえてすると言っている。古代、言葉には呪力があると信じられており(言霊)、むやみな言挙げは慎まれた。

 日本文化に大きな影響を与えてきた禅は、言葉によって真理の伝達が可能だと考えない。禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)である。技術での熟達、正しく生きる術の獲得、創作力といった事柄は、すべて「言葉で伝え難きもの」である。

 武士道も日本文化の形成に力があった。この武士道が多弁を嫌う。特に言い訳を最も嫌った。自己の非を認めた場合、言葉による申し開きをせずに黙って責任をとる(切腹する)のが武士道だった。言い訳をいさぎよしとしない武士道的美意識は日本にまだ残っていると思う。

 日本人は、真の認識は言葉では伝わらないと考えているところがある。そして日本の歴史の中に、「至誠」は言語を越えて通じるという信仰も生まれた。

 このように、言挙げを控える文化をもつ日本は温和で、争いは少なく、住みやすい、よい社会を形成してきた。しかし世界の国々をみると、ほとんどが言挙げする国である。ヨーロッパ、アメリカ、中国、インド、韓国などすべてそうである。言挙げする文化が世界標準であり、日本が異なっている。

 ここに世界の中で生きる日本の最大の問題がある。明治の開国から現在まで、自国が言挙げしない文化のゆえ、日本は諸外国に対して日本の主張をあまり言挙げしないできた。これが日本の国益を損なってきたと思わざるを得ない。

 日本の国益のために、そんなことは国がやるべきだなどと言わずに、国民個人が日本の主張と正当性を、世界のだれもが納得するわかりやすい良識のロジックで、いろんな機会に言挙げしていくことが必要である。そして、これを世界共通語の英語でやる必要があると思う。             

2019年1月15日

第20回 ノーベル賞は先進国の証明

 本庶祐さん(京都大学特別教授)がノーベル医学・生理学賞を受賞した。免疫を抑制するタンパク質PD-1を発見し、ガン免疫治療薬オプジーポの開発を導いた業績である。

 一日本人としてまことにうれしく、誇りに思う。私は20年ほど前、ストックホルムに旅し、ノーベル博物館を見学する機会があった。湯川秀樹以下、歴代の日本人受賞者の写真を見て、数多くの欧米人受賞者とともに日本人がこれだけいる、と誇らしい気持になったのを思い出す。

 アルフレッド・ノーベルの遺言に基いて1901年より始まったノーベル賞の受賞者数は、国別に米国271名、英国87、ドイツ82、フランス55、スウェーデン29、日本26、ロシア26、イタリア19、カナダ19、オランダ18で、日本は第6位である。そして2001年以降(ただし自然科学分野のみ)では、米国69名、日本17、英国12、フランス8、ドイツ7で、日本は第2位と健闘している。

 私はノーベル賞の受賞数こそ、日本が先進国であることの証明だと思う。

 ノーベル賞級の研究は一朝一夕には生まれない。蓄積した文化的土壌のある社会から生まれる。そのような土壌のない国に世界の先端科学技術を移植しても、ノーベル賞は容易には生まれない。数十年単位の文化的土壌の醸成が必要であろう。こうした成熟した文化的土壌をもつ国が、本当の先進国だと思う。

 ここで日本細菌学の父といわれた医学者・北里柴三郎(1853-1931)について一言。北里は維新前、熊本の庄屋の家に生まれ、熊本医学校、東京医学校で学び、ドイツに留学。ベルリン大学でコッホに師事し、破傷風菌の純粋培養や、破傷風毒素とジフテリア毒素に対する血清療法の開発に成功する驚異的な業績をあげた。帰国後福澤諭吉の支援を得て、伝染病研究所を設立。北里研究所初代所長、慶應義塾大学初代病院長、日本医師会の初代会長などを務め、日本医学の発展に大きな足跡を残した。

 この北里柴三郎が、1901年の第1回ノーベル医学・生理学賞の非常に有力な候補者だった。北里の研究業績は世界的に評価されていた。しかし受賞したのはドイツのベーリングだった。授賞理由は「ジフテリアの血清療法の研究」で、これは北里との共同研究だった。当時のノーベル財団は単独授賞しか考えていなかったようで、今の選考方法なら間違いなく北里との共同受賞になるだろうと言われている。

 北里の研究が、ドイツのコッホ研究所で開花したことは間違いない。しかし北里の生涯をみると、日本の文化的土壌を無視できない。維新前、庄屋は地方における文化の担い手だった。両親も教育に熱心で、柴三郎も医学校に入る前、四書五経などの漢学を学んでいる。

 近代的科学技術こそなかったものの、維新前から日本にはノーベル賞クラスの研究者をも生みだす文化的土壌はあったと思う。

 それにしても、ノーベル賞を創設し、国を挙げてその権威を維持するスウェーデンは立派な国だと思う。これがどれくらいこの国の威信を高め、名誉をもたらしているか、はかり知れない。                     

2018年1月1日

第19回 山岡鉄舟 すばらしい日本人

 山岡鉄舟(山岡鉄太郎1836-1888)は幕末・維新の偉人。江戸無血開城の立役者、明治天皇の侍従、剣・禅・書の達人として世に知られている。

 鉄舟は、六百石取りの旗本小野朝右衛門高富の四男として本所に誕生。父が飛騨高山の郡代に任ぜられ、少年期を高山で過ごす。父の死後江戸に戻り、剣術修業に明け暮れる。

 鉄舟は33歳の時、歴史の檜舞台に登場する。1868年、「鳥羽・伏見の戦い」で薩長の新政府軍に敗れた将軍徳川慶喜は、江戸に逃げ帰る。新政府軍は駿府に到着して江戸城総攻撃を決定。何としても朝敵の汚名を避けたい慶喜は、絶対的恭順を決意。恭順の赤心を新政府軍大総督府に伝える役を、護衛高橋泥舟(鉄舟の義兄)の進言を得て、山岡鉄舟に託す。

 慶喜に呼ばれ、主君の堅い恭順の意志を確かめた鉄舟は、決死の覚悟で駿府に向かい、大総督府の参謀西郷隆盛との乾坤一擲の談判に臨んだ。そして、城を明け渡すこと、兵器を渡すこと、軍艦を渡すこと等5箇条の恭順の実効が示されれば慶喜に寛典が下される約束を取り付け、慶喜に報告。慶喜の歓びはたとえようもなかった。

 続いて江戸に進駐した西郷隆盛と勝海舟との間で史上名高い会談が開かれる(鉄舟はこの会談に同席)。こうして江戸無血開城は、西郷と勝だけではなく、事前に鉄舟の働きがあって実現した。

 維新後徳川家は駿府藩主(後静岡藩知事)となり、旧幕臣とともに駿河国に移住する。鉄舟は藩の幹事役(後に権大参事)として、混乱する藩を治めた。旧幕臣を帰農させ、茶園の開墾などを進めた。

 鉄舟は、37歳のとき新政府の強い要請を受けて、明治天皇の侍従となった。鉄舟の人格を深く認める西郷が、若い天皇(21歳)の教育係として鉄舟を宮中に推挙した。

 鉄舟は53歳で死去した。坐禅を組んだままの大往生であった。

 山岡鉄舟は、剣と禅で人間を形成した。剣は幼少の頃より諸師について、すさまじいまでの修業に明け暮れた。鉄舟は剣に心身の錬磨と絶対的な精神の安定を求めた。そして45歳の時、大悟して一刀正伝無刀流を開いた。

 禅は、武道を全からしめるには剣と禅の修業の他なしと父に教えられ、13歳の頃から始めた。20代の鉄舟は、昼は剣術、夜は坐禅という生活だった。三島の龍沢寺星定和尚に参禅し、40歳の頃大悟、なお天龍寺の滴水和尚に師事し、45歳の時、印可を得た。

 山岡鉄舟の剣・禅の修業で到達した人間力は衆に抜きん出ていた。勝海舟は「山岡は明鏡のごとく、一点の私ももたなかった。だから物事に当たり即決しても豪も誤らない---」と評している。西郷は鉄舟のことを、「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬといった始末に困る人」と言い、「本当に無我無私の忠胆なる人とは山岡さんのごとき人でしょう」と評した。滴水禅師は鉄舟のことを、「あれは別ものじゃ」と答えるのが常だった。

 私は山岡鉄舟のような人格を生んだ、当時の日本の文明度の高さを思う。鉄舟は情の人でもあるが、たぐいまれな正直とそこから来る強靭な全人格的理性を感じる。そして鉄舟の理性は、いわゆる近代的理性を突き抜けていると思う。

2018年12月15日

第18回 日本人の正直

 日本に住む外国人、又は住んだことのある外国人の多くが、日本人が正直であることを認めている。

 日本人は「嘘は泥棒の始まり」と子供に教え、子供を絶対に嘘つきにしない教育をする。日本においては、「あの男は嘘つきだ」と言えば、男の社会的人格のほぼ全面的な否定となる。日本で「正直」はおそらく最重要道徳に位置する。

 しかし、外国では必ずしもそうではない。韓国で生まれ育ち、日本に帰化した呉善花は言う。「韓国は世界有数の嘘つき大国であると、自分が言わざるをえないことを悲しく思う。韓国でも子供に嘘をついてはならないことを教える。しかし、韓国社会には、騙される方が悪いという通念が抜きがたくある。そういうことから、日本のように嘘つきを人間的に最悪の存在とまでみなすことはない。」

 また、中国の親は子供に、外に出たら「騙されるな」と教えると聞く。これは中国社会に「騙し」が多いことを物語っている。また台湾出身で中国史に詳しい黄文雄は、日本社会は「誠」だけで生きていくことができるが、中国では「詐」でないと生きていくことができない、ゆえに中国に「詐」の文化が形成されたと言う。

 韓国と中国では、「正直」は日本のような道徳の最高位にはない。

 日本人の正直重視は、日本の長い歴史の中で培われ、現在に至っているものである。古来日本人の生活感覚から形成された神道が理想とする人間のあり方は、「清明正直(せいめいせいちょく)」、すなわち、清く、明るく、正しく、直くあることである。

 ここでいう「正直(せいちょく)」は、神に対して曇りのない、すなおな心を意味し、人に対して嘘偽りのないことを意味する「正直(しょうじき)」と完全に同じではない。しかし、江戸時代には「正直(せいちょく)」と区別なく、一般に「正直(しょうじき)」が使われるようになった。

 江戸時代、あらゆる職業で最も重視されたのが、「正直(しょうじき」であった。「嘘をつかないこと=正直」が人づくりの基本と考える思想は社会に完全に定着していた。江戸時代には一般向けの教訓書がたくさん出版されて、庶民教育に利用されたが、人の生き方として、非常に多くが「正直」を最も重視している。貝原益軒は、『和俗童子訓』に幼児教育の目標として、「幼いときから、言葉に誠を尽くし、嘘をつかないようにさせる」を挙げている。

 日本人の正直は、神に対する曇りのない、すなおな「正直(せいちょく)」の心をもって、人に対して嘘偽りなく生きる規範であって、非常に宗教的である。正直が神との関係でこのように捉えられていることから、「正直の頭(こうべ)に神宿る」となり、ゆえに正直には神の加護があり、正直こそ富と幸福の源泉であるという思想が生まれている。私は多くの日本人がこういった日本教の信者ではないかと思う。

 昨今の日本は、詐欺の増加、大手メーカーの不正など、正直の伝統の劣化を感じるものの、日本の正直の規範はまだまだ健在だと思う。世界的にはプロテスタントのキリスト教国が正直を重視する国である。日本の長い歴史の中で培われた正直の規範は、日本の最大の財産である。世界における日本の存立基盤は実に正直という道徳にあると思う。

2018年12月1日

第17回 「青年将校は卑怯に存じます」高橋是清夫人

 1936年(昭和11年)2月26日未明、陸軍皇道派の青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて決起し、岡田啓介総理大臣、高橋是清大蔵大臣、斎藤實内大臣、鈴木貫太郎侍従長、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃した。高橋大蔵大臣、斎藤内大臣、渡辺教育総監は即死。岡田総理大臣、牧野前内大臣は難を逃れたが、鈴木侍従長は瀕死の重傷を負いながら奇跡的に一命をとりとめた。

 日本史上名高い二・二六事件である。決起した青年将校は、「昭和維新、尊皇討奸」を掲げ、腐敗政治の元凶だと彼らが信じる君側の奸を排除して、昭和維新を企てたクーデターであった。

 クーデターは未遂に終わった。2月29日、戒厳令の中で決起部隊(反乱軍)に対する討伐命令が発せられ、下士官と兵は原隊に帰順、反乱軍将校らは逮捕された。

 戦前の日本を震撼させた二・二六事件については、すでに多くの歴史家や作家に語りつくされている感があるが、私も感想を二、三加える。

 まず、私は二・二六事件を起こした青年将校に全く同情を感じない。感じるのは彼らの精神の未成熟と、政治思想の幼稚さである。当時彼らの純粋性を評価する意見も存在した。しかし、重臣を君側の奸と断じ、これを殺害して理想の天皇親政を実現するといった政治思想は、あまりにも幼い。

 二・二六事件はテロである。このテロをどう評価するか。夫高橋是清を殺害された志な夫人は、「青年将校は卑怯に存じます」と言い放った。高橋大蔵大臣は国の健全財政を超える軍拡予算を認めなかったため、軍部の恨みを買っていた。それで殺されたのである。クーデターをいかに美化しても、政敵をテロで葬るのは卑怯者のすることだとの人間の根本的道義感情が消えることはないだろう。

 事件に遭遇した重臣たちの夫人はみな立派だった。内大臣斎藤實夫人春子さんは、「殺すなら私を殺してからにして」と身をもって夫をかばったが、無理やり引き離され、大臣は40数発の弾丸をうけ、即死した。侍従長鈴木貫太郎夫人たかさんは、夫が4発撃たれて倒れたところへとどめを刺そうとする将校に、「武士の情けです。とどめだけは私に任せてください」と制した。その気迫に押されて、将校はとどめを刺さずに引きあげた。そして鈴木は奇跡的に快復する。

 また、この頃陸軍がすでに相当おかしな組織になっていたことを感じる。陸軍は決起部隊に対して、当初非常にあいまいな態度をとった。事件発生当日の午後、陸軍の幹部が集まって協議し川島陸軍大臣名で、1、蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり、2、諸子の真意は国体顕現の至情に基くものと認む、(あと省略)という告示を発出した。これは決起部隊(反乱軍)を容認するような驚くべき告示である。

 これに対して、はじめから決起部隊は反乱であり、速やかに鎮圧せよと、強いぶれない意志を示したのは昭和天皇だった。鎮圧に踏みきらない陸軍幹部に、「朕が近衛師団を率いて自ら鎮圧に当たる」とまでの決意を示した。

 二・二六事件は昭和天皇の強い意志があって収束した。陸軍は下剋上の組織となっており、幹部の統率力が失われていた。二・二六事件以後、下剋上体質の陸軍による国政の壟断が一層進む。そして大東亜戦争に行きつき、大日本帝国を滅ぼす。             

2018年11月15日

第16回 子供天国だった日本―教育の伝統

 かつて日本は子供天国だった。開国後日本を訪れた欧米人の多くが、ほぼ例外なくここは子供天国だとの記録を残している。よほど印象深かったのだろう。

 お雇い外国人として東大理学部教授(動物学)を務めたアメリカ人モース(1877-79、82-83年在日)は、『日本その日その日』に記す。「ここでまた私は、日本が子供の天国であることを、くりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供の為に深い注意が払われている国はない。---子供たちは朝から晩まで幸福であるらしい。---日本人は確かに児童問題を解決している。日本の子供ほど、行儀がよくて親切な子供はいない。また、日本の母親ほど、辛抱強く、愛情に富み、子供に尽くす母親はいない。」

 また1878年来日し、東北地方を旅した英国人イザベラ・バードは『日本奥地紀行』に記す。「私はこれほど自分の子供をかわいがる人びとを見たことがない。他人の子供に対しても、適度に愛情をもって世話をしてやる。父も母も自分の子供に誇りをもっている。私は日本の子供たちがとても好きだ。私は今まで---、子供がうるさかったり、言うことを聞かなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。---英国の母親たちが、子供たちを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。」

 日本は子供をとてつもなくかわいがる社会だ。これが当時の欧米人の観察である。そしてそれゆえ日本の子供たちは、懲罰的な手段に訴えなくても、聞き分けがよく、情緒が安定していると評価した。過度の愛情が子供を害するという観察もなくはなかったが、子供は幼児期に思い切り愛情を注げば、自然に他者と共存するルールに従うようになるという、当時の日本人の体験にもとづく自信がゆらぐことはなかった。

 日本では伝統的に子は子宝であり、神からの授かりものであった。柳田国男によれば、たぶん子供の死亡率が高かったこともあるだろうが、古い日本の習慣では7歳に達するまでの子供は「神々のもの」とみなされた。

 日本は歴史の早い時期より教育の先進国だった。戦国時代(1563年)イエズス会の宣教師として来日、日本に骨を埋めたポルトガル人フロイスは、著『日本史』に記す。「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ(言葉)で叱責するのみである」、「われわれの子供はその立ち振る舞いに落ち着きがなく優雅を重んじない。日本の子供はその点非常に完全で称賛に値する」。

 この時代武士の家では、子供は自制しつつ名誉を保つ心がはぐくまれ、打って懲罰する必要はなかった。当時の子女教育の文明度は、西洋より日本に一日の長があったと思う。

 現代の日本は子供の教育に成功しているだろうか。教育問題を考えるとき、かつての日本が子供天国であり、児童問題を解決していると評された時代があったことを、われわれは忘れてはならないと思う。そして、日本は子供を本当によくかわいがり、子供への愛情の膨大な社会だったことを。昔ほどではないとしても、今なお子供をとにかくかわいがる教育の伝統は日本に健在だと思う。高い知育も徳育も結局このような伝統からはぐくまれるだろう。

2018年11月1日

第15回 武士道のリアリズム

 日本は平安朝の末期(12世紀末)から明治維新(19世紀末)までの七百年間、武士の支配する世だった。この間成立した武士の倫理規範が武士道である。それは名誉を重んじ、恥を知り、嘘を言わず、利を軽んじて義と勇と忠を重んじ、なお情けを重んじ、美しく生きる武士の生き方である。武士道は武士階級のノブレス・オブリージュ(高い身分に伴う義務)であるが、広く一般の庶民の生き方にまで影響を及ぼした。

 武士道は武士の生き方そのものであり、倫理規範として体系化されていない。しかし、優れた歴史家の研究によって武士道のエッセンスを知ることができる。

 笠谷和比古著『武士道―侍社会の文化と倫理』を読むと、「事実尊重の精神」が武士道の重要な側面をなしていることがわかる。武士の心性、武士道は空疎な観念的議論を嫌う。事実を重視し、事実認定の根拠となる証拠を重んじる。江戸時代に武士道の書として読み継がれた『甲陽軍鑑』に、そうした事実尊重の精神が顕著にみられる。

 武士道はもともと「弓矢とる身の習い」として発生した戦闘者の倫理である。戦場で生きる武士に最も必要なことは事実であった。嘘、うろんなこと、飾った言葉は戦場では一切通用しない。通用するのは疑いえない事実のみ。必要なものは、敵将は死んだはずだという言葉ではなく、敵将の首である。

 江戸時代、太平の世になっても、事実尊重は武士道の精神として生き続けた。それは事実をありのままに認め、正直で飾らず、嘘を言わないことであり、現実を直視し、結果を尊重する精神である。

 日本人は概して思弁的な形而上学的議論を好まない。そうしたものに信を置かず、原理原則論よりも現実直視の実証的な事物認識の姿勢を好む。そのような気風と武士道の証拠主義、事実尊重主義とは通底していると笠谷氏は言う。

 そして氏は、この点が儒教的ないし朱子学的思考と武士道との決定的な違いであり、儒教と武士道とはその道徳の徳目において多くの共通点をもっているが、根本のところで大きな懸隔を有していると言う。朱子学は事実尊重主義とは言えない。四書五経という書物を根本経典とする形而上学の体系である。すべて書物に文字でもって明記されており、それから逸脱したいかなる議論の余地もないという教学である。

 そして氏によると、日本の明治維新-独立した近代国家建設の成功-にこのような武士道の事実尊重、現実直視のリアリズムがあった。徹底した現実主義と結果尊重の思考が、柔軟でしたたかな戦略的行動を可能とした。一方中国、朝鮮は、あの時期朱子学の観念的、演繹的思考に支配され、リアリズムを欠いていた。

 昨今、憲法改正が活発に議論されている。改憲に反対する人びとの主張に、私はリアリズムを欠いた朱子学的観念論と同じようなものを感じている。19世紀末日本の武士は、世界の現実を直視するリアリストだった。現代日本にもリアリズムは健在で、マジョリティは私を含め、現実重視の憲法改正を是とするだろう。                 

2018年10月15日  

第14回 伊藤博文の苦心

 伊藤博文(1841-1909)は明治の元勲で、近代国家日本の建設者。初代内閣総理大臣となり、以来総理を4回務めた。大日本帝国憲法(明治憲法)を立案し、立憲国家としての「国のかたち」をつくった。

 伊藤のことを、人間が「軽佻浮薄」で大した人物ではなかったと言う歴史家がいる。そして、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允といった維新の三傑、さらに高杉晋作、橋本左内、坂本龍馬といった第一級の人物が若くして死んだため、明治維新の成果を享受して栄達の道を歩んだと。こういう評価こそ「軽佻浮薄」な評価に過ぎない。

 幕末から伊藤をかわいがった木戸孝允は、伊藤の人物を「剛凌強直」(強く厳しく正直)と評している。伊藤は性格が陽性だったが、「剛凌強直」で、理念をもち、信念を通す政治家だった。伊藤は前述の幕末維新の人物に勝るとも劣らない第一級の人物であり、世界レベルの大政治家だったと私は思う。

 伊藤の近代国家建設における最大の業績は、憲法(大日本帝国憲法)の制定である。欧米流の近代憲法をいかにして日本の伝統の中で定着させるか。日本で実際に機能する立憲政治―新しい国のかたち―をいかにつくるか。これが伊藤の最も苦心したところであった。

 伊藤は立憲国家の本場ヨーロッパで、一年半憲法を調査研究する。ウィーン大学国家学教授シュタインから憲法に関する教示を得て、これこそ日本で機能する憲法学との確信を得た。それは、憲法の上位に、より全体的な国家の制度的構造があり、憲法はその全体構造の中に位置づけられて初めて機能するという考えである。シュタインの教示は、実際の政治が機能するためには、政府の組織を固め、行政を確立することが何より重要であるとの確信をもたらした。

 帰国後伊藤はまず、内閣制度の創設をはじめとする行政制度の刷新を行う。そして1899年大日本帝国憲法を制定。翌年第1回帝国議会が開かれた。伊藤は憲法制定後日本が、漸進的に議会を中心とした統治へと移行することを理想とし、憲法によって授与された国民の参政権と議会制度が機能するためには、国民自らが政治を担う気概をもつことが求められると考えていた。伊藤にとって憲法の制定は、国制の完成ではなく、あるべき国制へのスタートラインであった。

 伊藤が明治時代に敷いた立憲国家のかたちは、平成の現在もなお生きていることがわかる。戦後憲法が変わった。しかし、行政府が国家の主体であるという国のかたちは、変わることなく続いている。国会が国権の最高機関であるとうたう現憲法のもとでも、事実上の国権の最高機関は行政府であり、法案もほとんどが行政府から提出され、議会は行政府(=立法府)に文句を言うだけの万年野党的性格が強い。

 戦後の日本は国民主権の憲法を頂き、議会制民主主義は一応機能してきた。しかし伊藤が理想とし、漸進的に実現することを望んだ議会中心の国家統治になっているとはいえない。実現しているのは、伊藤が立憲国家のスタートラインとして敷いた行政府主体の国のかたちである。日本の伝統と風土の中で、いかに議会政治を習熟させていくか。百年以上前の伊藤の苦心は、今日なお日本の課題である。      

2018年10月1日

第13回 竹内均先生の「修身」のすすめ

 竹内均(1920-2004)は地球物理学の世界的権威。東京大学理学部教授を退官後、科学雑誌『ニュートン』を創刊し、初代編集長を務めた。竹内均はライフワークとして地球物理学のみならず、広く科学一般から人間の生き方まで、極めて多岐にわたる啓蒙活動を行った。

 竹内均の450冊にも及ぶ膨大な著作の一つに『「修身」のすすめ』がある。竹内均の「修身」は、自然科学者らしく、いわゆる「善」とされる徳目を、古今東西の聖人・賢人の言葉の中から、その最大公約数として選び出した。それは、勤倹・貯蓄、正直・中庸、感謝・報恩、修身・斉家、および外柔・内剛である。そして、実行すべき徳目の順序としてまず、勤勉、正直、感謝をあげ、これを修身の根本においた。

 竹内均は言う。自分はまだ、勤勉、正直、感謝を息せききって実行している凡人である。しかし長い人生を通じ、自然科学者として理解できたことがただ一つある。それは、勤勉、正直、感謝を実行すれば必ずよい結果が得られ、この実行に欠ける場合には、それなりに悪い結果が得られたことである。それは、科学における自然法則のように狂いのない原因と結果であった。人として生まれ、自分自身や一家や国の平和や幸福を望まないものはないはずであるが、それを得る方法はただ一つしかない。それは勤勉、正直、感謝から始まる修身の実行である、と。

 また感謝に関して、我々は日本が感謝に値する国であることを知るべきだと言い、日本(竹内均がこの書を著した昭和50年代半ばの日本)が豊かであることを事実で示している。

 まず、国民一人当たりの実質収入は、米、西ドイツ、仏と並び、英を越えている。税金はこれらの先進国に比較して安い。平均寿命はスウェーデンを抜いて世界一位となった。医療制度、社会保障、及び年金制度も充実している。教育レベル(大学進学率、高校進学率)は世界一高い。犯罪は世界一少なく、安全な国である。

 私は顧みると、この時期の日本が国力の最も充実していた時期ではなかったかと思う。しかしその後バブルとなり、バブル崩壊後日本経済はほとんど成長せず、平成5年(1993)に世界第3位だった国民一人当たりのGDP順位は、2017年には25位まで凋落している。

 竹内均は本書で、ギリシア、ローマ他世界の文明と国の没落の原因を探り、文明や国の没落には、共通の特徴、経過あるいは法則が見られると言っている。

 まず大衆の側に、義務や責任を実行しないで、権利と福祉だけを要求する傾向がみられる。大衆は批判と反対だけをくり返す。次に政治家、指揮者の側に、コスト的観点を無視した機嫌取りつまり大衆迎合の特徴がある。彼らは大衆の気に入ることを並べたて、その基礎となる経済的な制約条件を人々に話さない。ここからインフレーションやスタッグフレーションが生じる。これと同様の責任者の機嫌取りが、いたるところで見られるようになる。先生が生徒の、年長世代が若年世代の、専門家がアマチュアの機嫌取りを始める。こういう傾向の基礎には、エリートや専門家を否定する、画一的で全体主義的な、誤った多数決原理がある。

 今から約40年前に竹内均が、世界の没落する文明や国家に共通して見られるとして描き出した特徴が、平成の日本にかなり見られる。                         

2018年9月15日

第12回 良寛の九十戒語

 良寛(1757/58-1831)は江戸後期の禅僧。越後で粗末な庵に住み、人に仏法を説くことはしなかったが、人々に親しまれ、人々を感化した。村の子供たちとよく遊んだやさしい良寛の姿が、人々の記憶にとどまって今日に伝えられている。

 良寛は越後出雲崎で代々名主を務める家の長男として生まれた。家督を継がず、18歳のとき出家。備中(岡山県)円通寺(曹洞宗)の国仙和尚のもとで20年近く修行した。印可を得て良寛は諸国を行脚したが、40歳のとき故郷越後に帰った。国上山の山腹の小さな草庵に住んで、子供らと遊び、詩歌を作り、書を書き、日々托鉢して暮らした。

 良寛には「九十戒」という、言葉に関する「戒め」がある。これは晩年の弟子貞心尼が書きとめたものであるが、この戒めがすばらしい。

一、言葉の多き 一、物言いのきわどき 一、話の長き 一、講釈の長き 一、差し出口 一、手柄話 一、自慢話 一、公事(訴訟)の話 一、諍(いさか)い話 一、不思議話 一、物言いの果てしなき 一、へらず口 一、人の物言いきらぬうちに物言う 一、子供をたらす 一、言葉の違う 一、たやすく約束する 一、よく心得ぬことを人に教える 一、事々しく物言う 一、引き事(見聞きした事や本で読んだ事)の多き 一、ことわり(理)の過ぎたる 一、あの人に言いて良き事をこの人に言う 一、その事の果たさぬ内にこの事を言う 一、へつらう事 一、人の話の邪魔する 一、侮ること 一、しめやかなる座にて心無く物言う 一、人の隠す事をあからさまに言う 一.酒に酔いて理(ことわり)言う 一、酒に酔いたる人に理(ことわり)言う 一、腹立てるとき理(ことわり)言う 一、親切らしく物言う 一、己が氏素姓の高きを人に語る 一、人の事聞き取らず挨拶する 一、推し量りの事を真事になして言う 一、悪しきと知りながら言い通す 一、言葉咎め 一、物知り顔に言う 一、見る事聞く事一つ一つ言う 一、説法の上手下手 一、役人の良し悪し 一、よく物の講釈をしたがる 一、子供の小癪なる 一、老人のくどき 一、若い者の無駄話 一、引き事の違う 一、押しの強き 一、珍しき話の重なる 一、好んで唐言葉を使う 一、人の理(ことわり)を聞き取らずして己が理を言い通す 一、都言葉など覚えてしたり顔に言う 一、よく知らぬ事を憚りなく言う 一、聞き取り話 一、人に会って都合よく取り繕って言う 一、わざと無造作げに言う 一、悟り臭き話 一、学者臭き話 一、茶人臭き話 一、風雅臭き話 一、さしても無き事を論ずる 一、人の器量のある無し 一、あくびとともに念仏 一、人に物くれぬ先に何々やろうと言う 一、くれて後人にその事を語る 一、ああ致しました、こう致しました、ましたましたのあまり重なる 一、俺がこうした、こうした 一、鼻であしらう (以上九十ヶ条、一部省略)

 私は、言葉に表れる人間性をこれほど広く、深くみつめた戒めを、他に知らない。これを読むと、良寛がいかに高い知性と洞察力と、繊細で鋭敏な感性をもった人であるかがわかる。素朴で、子供らとよく遊び、人々と交わり、親しまれた良寛であるが、それは良寛の人間を厳しく見つめる仏道修行であったとの思いを強くする。

2018年9月1日

第11回 二宮尊徳の天道と人道

 二宮尊徳(金次郎)(1787-1856)は江戸後期の農政家。荒廃する農村の再建救済事業に生涯をささげた。

 尊徳は36歳の時、小田原藩主大久保忠真の命を受け、大久保家の分家宇津家の所有する、荒廃はなはだしい下野国桜町領の復興事業に着手した。尊徳は、荒廃した土地の復旧、勧農、出精者の表彰などの「仕法」を進めたが、最初はうまくいかなかった。しかし、桜町の農民は次第に尊徳の仕法およびその精神をよく理解し、心から支持するようになった。

 10年後桜町領の収穫は3千俵(仕法開始前は960俵)を超え、145軒の農家は190軒に増え、荒地が開発されて用水や道路も一変し、農家収益が上がり、人心が改まって人情美しい村に変わった。

 桜町領の復興は世に広く知られた。窮迫した関東東北の諸藩が、尊徳に荒廃した農村の立て直しを依頼するようになり、尊徳は、下野国烏山藩、常陸国矢田部藩、同下館藩、陸奥国相馬藩の農村復興事業に直接、間接にかかわるようになった。

 尊徳は56歳のとき幕臣に登用された。67歳のとき日光奉行所手附となり、日光神領荒地開拓事業に取り組んだが、病を得て、70歳で没した。

 尊徳は、江戸期の日本の生んだ偉大な実践思想家である。その思想は「勤倹力行」にとどまらない。積小為大、分度、推譲、報徳、天道人道論に尊徳の思想の特色がある。

 積小為大とは、大をなそうとするなら、小さいことから始めて積み上げるしかない、ということであり、分度を守るとは、収入の範囲内で生活することである。推譲とは、分度内で生活してできた余剰を、将来に譲り、また人に譲ることである。

 報徳(徳に報いること)は尊徳の思想の帰結である。徳とはめぐみであり、恩である。人は、父母の恩、社会の恩、田畑山林の恩(祖先の恩と自然のめぐみ)に対して報いなければならないと説く。

 そして天道と人道について、尊徳は、天道は自然の行われる道であるが、人道は人為(作為)によってなされるもので、両者は別だと言う。

 東洋思想では、天道(自然の道)は絶対であって、人間社会の人道はそれに従うべきものとされる。つまり、天道と人道は一つである。しかし、尊徳は言う。田畑を作って生産し、住居を作って風雨をしのぎ、衣服を作って寒暑を防ぐのは人道であるが、手入れを怠って自然に放置すれば、すべて荒廃していく。ゆえに人はモノを作り、維持し、手入れをし、さらに教えを立て、礼法を定めるのだ。人道は怠らず努めることを尊び、自然に任せる天道とは異なる。

 尊徳の天道人道論は、近代物理学の「エントロピー増大の法則」でよく理解できる。この物理法則によると、自然は放置すると、必ずエントロピーの増大する方向、すなわち、無秩序化の方向に進み、系内の秩序を形成するには、エネルギーを投入しなければならない。尊徳の人道は、放置すれば無秩序化する自然に対して、秩序を形成する人間のエネルギーの投入に他ならない。

 人道は天道と別だと言った尊徳は、東洋におけるすばらしい独創的な思想家だと思う。             

2018年8月15日

第10回 東京裁判を考える

 太平洋戦争の勝者であるアメリカ他連合国は、戦後「極東国際軍事裁判所」を設置し、日本の政治・戦争指導者を戦犯として裁いた。およそ3年の審理を経て、1948年11月、東条英機以下7名の死刑を含む全員(25名)を有罪とする判決を下し、同年12月には死刑が執行された。

 この東京裁判をどう受け止めたらよいだろうか。今なおこれを問題とするのは、戦後の日本人が、戦前の日本を強く否定するような歴史観をもち、国家や軍事をタブーのごとく拒むようになった背景に、東京裁判があると考えるからである。

 私は、東京裁判は力の支配する国際政治そのものであって、裁判といえるようなものではなかったと思う。それは勝者による裁判で、そのような裁判に公正な判決は期待できない。

 そして東京裁判は事後法による裁判であった。東京裁判の法的根拠は、「ロンドン協定」に則ってつくられた「極東国際軍事裁判所条例」(1946年1月成立)とされる。「ロンドン協定」はナチス・ドイツを裁くために、米英仏ソの4大国が1945年8月合意した国際協定である。東京裁判は、「裁判は事後法によって行ってはならない」という、近代法の大原則を踏み越えている。

 東京裁判の最大の問題は、満州事変(1931年)以降の日本の戦争がすべて侵略戦争であり、連合国=正義(善)、日本=不正義(悪)という粗雑な善悪史観で、敗戦国日本にすべての戦争責任を負わせたことである。これは、東京裁判が勝者の裁きに過ぎなかったことを如実に示す。事実は、戦争責任は戦った両国にある。この点において、世界の歴史家は、東京裁判を連合国の世界秩序維持政治として認めつつ、裁判の正しさについては批判的に(むしろ否定的に)叙述するようになるだろう。

 東京裁判の判決は、11人の判事の中の多数派による判決であり、これに同意しない少数派4判事の意見書が提出されている。このうち最も注目すべきは、インドのパル判事の意見書である。

 パルは、裁判は実定法にのみ従うべきであり、「平和に対する罪」は事後法であって成立しないとした。また、他国を支配しようと準備することが犯罪とされるが、そんな行為は第二次世界大戦以前のあらゆる強国のやってきたことであって、日本の行為だけを犯罪とすることに反対した。

 パルは日本軍の残虐行為については、東京の閣僚に現地軍隊の管理権限はなかったこと、南京虐殺の軍司令官としての不作為責任を問われた松井被告に対しては、証拠不十分で部下の残虐行為に責任なしとした。かくてパルは、被告は全員、起訴事実すべてについて無罪と結論した。

 私は、東京裁判でパルが歴史の審判に耐えられる最も正しい判断を下していると思う。しかし、私は東京裁判を否定しない。日暮吉延教授が言うように、戦争に敗れた日本は、何らかの責任追及や痛みを避けて通れなかった。日本が世界の中で生きていくために、国際政治におけるこのような犠牲は必要だった。

 東京裁判は法的に問題の多い裁判であったが、 国際社会で生きる日本の安全保障政策として、これを批判しつつ肯定せざるを得ないと考える。      

2018年8月1日

第9回 出光佐三の「日本人にかえれ」

 出光佐三(1885-1981)は、出光興産の創業者。1911年門司で機械油を扱う出光商会として設立した出光興産を、現在従業員約9千人を擁する大会社に育て上げた。

 出光佐三の事業経営の基本は、徹底した人間尊重にあった。それは、社員を家族とする究極の日本型経営であった。佐三は、一に人、二に人、三に人であるといい、資本は金でなく、人であるとした。この経営の信念は、終戦直後出光の最も苦しい時にも発揮された。

 戦前、戦中出光は海外事業に進出していた。敗戦ですべてを失い、外地から引きあげてくる社員850人、これに内地勤務者150人を加えた千人の社員を養う仕事は、出光にはなかった。しかし佐三は社員の一人も解雇しなかった。これは驚くべき決断で、人は出光社長が正常な判断を失ったと思った。

 出光は、農業、醤油の生産、ラジオの修理、販売などあらゆる仕事に手を出した。全国8か所にある旧海軍の貯油タンクの底油をさらう仕事も引き受けた。これはGHQの指示で商工省が業者を募ったが、とてつもない困難な作業が予想され、出光以外に応募する業者はなかった。出光の社員は毎日タンクの底に降り、体を真っ黒にしてドロドロの廃油をさらった。この難事業を経験した社員は、今後いかなる困難にも耐えられる思いがした。

 1955年、佐三は渡米し、ガルフ石油と長期原油供給契約を結んだ。佐三は昼食時のスピーチで、「あなた方は、アメリカが民主主義の国であると自ら信じ、誇りにしておられるが、あなた方の民主主義は偽物である」と言った。驚いてなぜかという質問に対して答えた。「民主主義の基礎はお互いを信頼し尊敬し合うところにあると思う。ところが貴国に初めて来て、どこの会社にも入り口にタイムレコーダーを備え付けてあり、オフィスでの中では机が同じ方向に並べているのに驚いた。タイムレコーダーで社員の出勤や退社の状況をチェックし、社員を背後から上役が監督しなければならぬようなところに、どうして人間の信頼や尊厳があるというのか。信頼できぬ人間が、どうして民主主義を本当に実行できるのか、不思議でならない」。

 誰も反論できず、場内は静まり返った。一人の「それではあなたの会社はどうなのか」との問いに対し、「私の会社にはタイムレコーダーはない。机も同じ方向を向いてはいない。私は社員に全幅の信頼を置いている。45年前の創業時から出勤簿もない。首もない。定年制もない。労働組合もない」と、佐三が普段の考えを諄々に説き終わると、場内から一斉に拍手が沸き起こった。

 出光佐三の経営は、以上述べたような人間尊重にとどまらない。徹底した消費者本位の経営であり、自由な市場と自由な経営を信奉し、常に国家への貢献を考えるものだった。

 佐三は晩年「日本人にかえれ」と説いた。佐三は深い思想と哲学をもった、真に偉大な経営者であっが、彼は、「僕が日本人として育って、日本人として当たり前のことをやっているだけだ」と言った。出光佐三のすばらしさは、日本の伝統にある普遍的な道義と正義を自覚し、それをたゆまず実行して成功をおさめたところにあると思う。 

2018年7月15日 

第8回 豊かな江戸時代

 渡辺京二の名著『逝きし世の面影』に、古き良き日本が描かれている。それは江戸時代に来日し、日本に住んだ数多くの外国人が残した膨大な観察記録から、今は失われた江戸期の日本文明を浮きぼりにした著である。本書の随所に江戸時代の日本の民衆が豊かだったとの観察が記されている。

 アメリカ初代駐日領事ハリス(在日1856-1862)は日記に記す。「それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困っていない。それに家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちがよい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」。

 イギリス初代駐日公使オールコック(在日1859-1864)は著書『大君の都』で小田原近辺の様子を書く。「封建領主の圧政的な支配や全労働者階級が苦労し呻吟させられている抑圧については、かねてから多くのことを聞いている。だが、これらのよく耕作された---、非常な豊かさのなかで所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民を見ていると、これが圧制に苦しみ、苛酷な税金を取り立てられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。むしろ反対に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きのよい農民はいないし、---」。

 イギリスの旅行家イザベラ・バードは、1878年『日本奥地紀行』に米沢平野の豊かさを記す。「米沢平野は南に繁栄する米沢の町、北は人で賑わう赤湯温泉をひかえて、全くエデンの園だ。---米、綿、トウモロコシ、煙草、麻、藍、豆類、茄子、くるみ、瓜、胡瓜、柿、杏、柘榴が豊富に栽培されている。繁栄し自信に満ち、田畑のすべてがそれを耕作する人びとに属する稔り多きほほえみの地、アジアのアルカディアなのだ。---いたるところに繁栄した美しい村々がある---」。

 バードが旅行した1878年はすでに明治時代(明治11年)となっていたが、このような米沢の豊かさは明治になって生まれたのではない。

 ほんの三例だけ挙げたが、このような観察から、われわれが学校で教わった江戸時代――苛酷な封建制度のもと、「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」といった重税に苦しむ、貧しい時代――と全く異なる民衆の豊かな生活が浮きぼりにされる。

 近年は見直しが進んでいるようだが、従来の歴史記述は、明治日本が江戸の幕藩体制を否定して生まれたことと、日本の歴史家がマルクス主義史観の影響下にあって、江戸時代を前近代の遅れた封建社会とみなす強い傾向にあったことから、この時代を必要以上に暗い、遅れた時代だと記述してきたのではなかろうか。

 1904年から35年日本に滞在し、名著『日本文化史』を著したイギリス人ジョージ・サンソムは、ペリー来航以前の幕末期を、「当時の日本は上手に統治された国家で、過去の諸経験に徴して一歩に踏み切ることができるほど成熟した状況になっていた。江戸時代の歴史は国民生活のほとんどあらゆる面での真に見事な発展ぶりを示している。それはまことに偉大なる達成であった」と総括している。江戸時代の的確な評価ではなかろうか。    

2018年7月1日

第7回 戦後の歴史教育の不在

 以下、伝え聞いた話である。東大法学部を出て商社マンとなり、ロンドンに勤務した人の体験。ある時イギリス人ビジネスパートナーから東郷平八郎について質問され、何も答えられなかった。自国の歴史に対する無知は、やがてビジネスにも影響し始め、パートナーとの仕事もうまくいかなくなった。彼は帰国後、大いに反省して、母校の文学部に学士入学し、日本の歴史を学び始めた。

 この話は、戦後の日本にまともな歴史教育がなかった事実を象徴している。東大法学部卒といえば、日本の国の教育を最高レベルに身につけた人のはずである。それが自国の歴史に無知であり、そのゆえ、イギリスのビジネスマンからまともに相手にされない。

 大東亜戦争で敗北した日本人は、自国の歴史を否定的にみるようになった。これは戦勝国アメリカの意志が強く働いた結果であることを、我々は忘れてはならない。終戦の年(1945年)の暮れ、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、今後学校教育において、日本の歴史、地理、修身の三科目を廃止せよとの命令を日本政府に通達した。この三教科が、軍国主義と極端な国家主義を鼓吹したからだという。

 GHQによる占領統治の基本方針は、「降伏後における米国の初期の対日方針」の冒頭に、究極の目的として掲げられている。それは、日本国が再び米国の脅威となり、又は世界平和及び安全の脅威とならざることを確実とすることであった。

 アメリカは、日本が世界平和の脅威(米英からみての脅威)となるほど強い国になったのは、日本の教育、特に歴史、地理、修身の教育にあるとみて、これにメスを入れようとしたのである。この中で、その後の日本人の国家意識に最も大きな影響を与えたのは、歴史教育の否定だった。

 戦勝国が敗戦国に学校で国の歴史を教えてはならないという。暴挙であり、こんな指令は到底受け入れられない。しかし、日本人は黙してこれを受け入れた。それは、これに反対すれば公職追放されるほど、この政策が徹底しており、国民の大多数が未曾有の敗戦で、日本の国に自信を失う虚脱状態にあったからである。そして、社会主義や共産主義親派のインテリ、ジャーナリスト、政治家といった一部の日本人は歴史否定政策に積極的に協力した。

 日本の歴史は国史(ナショナルヒストリー)ではなく、社会科の一部として教えられるようになった。社会科は良き市民を育てる学科で、本来歴史とは別ものである。

 戦後の歴史教育の最大の特徴は、国家に対する強い否定意識にある。戦後の日本は、戦前の国家主義的思想を軍国主義として否定するだけでなく、日本の長い歴史における国家の形成の歴史を、すべて否定的に教えるようになった。

 自国の歴史を否定的に語り、外国のナショナリズムを称賛し、自国のナショナリズムを非難する。無知で、卑屈で、世界的に珍しい日本人を戦後の歴史教育は生んできた。

 西部邁が言うように、国家の根底をなす共同体は国家の歴史性ということに他ならない。これを否定的にみるような国民感情は、やがて独立した国家の喪失を招くだろう。                       

2018年6月15日

第6回 立憲君主制が良い

 第二次世界大戦末期、ドイツの戦後処理問題を話し合うために、ポツダムに集まった連合国首脳の一人アーネスト・べヴィン(イギリス外相)はこう言った。

 「先の世界大戦(第一次大戦)後にドイツ皇帝の体制を崩壊させなかったほうがよかった。ドイツ人を立憲君主制の方向に指導したほうがずっとよかったのだ。彼らから象徴(シンボル)を奪い去ってしまったがために、ヒトラーのような男をのさばらせる心理的門戸を開いてしまったのであるから」

 今日世界では共和制をとる国が大半で、君主制の国は少ない。しかし私はいわゆる立憲君主制が、歴史の試練を経た最良の国家の統治形態だと思う。

 イギリス、オランダ、ベルギー、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーなどが立憲君主制の国であるが、政治は民主主義で安定しており、豊かである。そして、スウェーデン、ノルウェー、デンマークは社会福祉の先進国である。

 ヨーロッパの大国ドイツ、フランス、ロシアもかつては君主制の国であった。ドイツの君主制(皇帝)をなくしたあとの国の変化(不安定化)に対する、政治的に成熟した目をもつイギリス人の否定的な見方は前述した。

 フランスも君主制であったが、大革命で国王をギロチンにかけ、共和制となった。しかし、革命は皇帝ナポレオンを生んだ。その後王制復古、共和制、帝政(ナポレオン3世)、共和制と移り、現在はド・ゴールに始まる第五共和政である。私は、フランスも君主制を残してイギリスのような進路をたどった方が、深い文化をもつもっと良い国になったのではないかと思っている。

 ロシアはロシア革命でロマノフ王朝を倒し、ソ連となった。しかしこの社会主義共和国は独裁者スターリンを生んだ。共産主義による統治は、人々に豊かさをもたらさず、悲惨な体験をさせ、80年経たずして崩壊した。

 君主という世襲の元首の存在は国を安定させる。これは歴史を見れば明らかである。国の統治には、国の伝統を背負い、国民がうやまい、納得する権威と尊厳をもつ元首の存在が必要である。

 イギリスは清教徒革命で17世紀半ば、一時王制を廃した。しかし間もなく王制を復活し、名誉革命で君主制を維持した議会主権を確立する。以後イギリスは興隆する。議院内閣制、政党政治といったイギリスの議会政治は、世界における立憲君主制のモデルとみなされるようになった。

 日本も立憲君主国である。日本国憲法によって天皇は、「統治権の総覧者」から「国民統合の象徴」に変わったが、天皇が君主であり、元首であることは変わっていない。天皇は戦前の大日本帝国憲法においても、実体は象徴であった。

 皇室は、日本の国に大きな安定をもたらしてきた。天皇は「立憲」君主となるはるかに昔から、日本国を体現する存在であった。天皇は歴史の早い時期に、政治的統治者の上に立つ権威となっていた。このような長い伝統をもつ存在は世界に例がない。

 日本の天皇制は、国を安定させる立派な立憲君主制である。しかし、立憲君主制の成否は、国民の議会政治での成熟度に依存する。皇室という優れた伝統を生かすために、我々は議会民主主義による国家統治の成熟した能力をもちたい。 

2018年6月1日

第5回「道のため、人のため」 緒方洪庵の美しい生涯

 緒方洪庵は幕末の蘭医学者。大阪の適塾で福沢諭吉をはじめとする、日本の近代化に貢献する多くの英才を育てた人として名高い。洪庵の生涯を知ると、医者として、教育者として、まことにすばらしい人だったとの思いを強くする。

 洪庵は今から二百年ほど前、備中足守藩(現岡山市)下級武士の子として生まれた。元服後医学に志し、大阪の蘭学者中天游に入門、続いて江戸の坪井信道のもとで修業した。さらに長崎で二年の修業を終えて二十九歳の時大阪で開業し、結婚、そして塾を開いた。

 江戸時代の習慣として、学者は自宅を塾にして、自分の学問を若い人に伝えることが、社会に対する恩返しとされていた。洪庵の適塾は、大村益次郎、箕作秋坪、佐野常民、橋本佐内、大鳥啓介、福沢諭吉、長与専斎、高松凌雲といった、日本の近代化を担う多くの俊秀を輩出した。

 洪庵は卓越した蘭医であった。開業した二年後には大阪の医師番付で前頭4枚目にランクされ、その七年後には西の大関(最高位)に番付されていた。

 開業医として往診、また宅診する毎日の中で、最新の西洋医学研究を怠らず、『病理通論』、『虎狼痢治準』、『扶氏経験遺訓』などの訳著を出版した。『扶氏経験遺訓』は、ドイツの名医フーフェランドが五十年にわたる医療経験を集大成した内科書の翻訳であるが、その巻末にある「医師の義務」に洪庵は深く感銘し、『扶氏医戒の略』としてまとめた。

 その第一条にいう。「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずといふことを其の業の本旨とする。安逸を思わず、名利を顧みず、唯おのれをすてて、人を救わんことを希ふべし。人の生命を保全し、人の疾病を復治し、人の患苦を寛解するの外、他事あるものにあらず」。洪庵は、文字通りこの医の倫理の実践に生きた。洪庵は門下生への手紙の末文をよく「道のため、人のため」と結んだ。

 蘭医としての洪庵の顕著な活動に、天然痘予防のための種痘事業がある。牛痘に対する世の偏見がまだ強い中、志ある医師と大阪商人の協力を得て、牛痘種痘を施す除痘館を設立した。除痘館設立後四年間で数万人の子供が種痘を受け、天然痘の流行から子供が守られた。

 洪庵は五十三歳のとき、幕府の奥医師に任ぜられ、江戸に発った。奥医師拝命は最高の名誉であるが、洪庵には有難迷惑であり、再三固辞したが断り切れなかった。奥医師の務めは大きなストレスだったのだろう。洪庵は江戸に住んで一年後に急逝した。

 緒方洪庵はまことに穏やかで誠実な人であった。福沢諭吉は、「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として対応倦まず、誠に類いまれなる高徳の君子なり」と記している。また洪庵は、学恩を受けた師に誠心誠意尽くし、師からも深く信任された。

 全国一の蘭学塾と評された適塾の自由闊達な学風は、諭吉の『福翁自伝』に詳しいが、その学風は、自由を尊び、寛容にして厳格な洪庵の人格の産物である。塾生は学業に没頭しつつ、師の姿から学んだ。後に近代日本の建設に邁進することになる卒業生は、師洪庵の高尚な精神を継承している。

 塾生から母のように慕われた洪庵の妻八重も美しい。塾生の面倒を見ながら、十三人の子供(内四人は夭折)を生み育て、洪庵なきあと、立派に成長させた。

 洪庵夫妻の生涯は高尚で美しい。洪庵の伝記を読むと、当時の日本人が教養豊かで、学問を尊び、ゆるがない道徳と慣習の中で、美しく生きていたとの思いを強くする。

2018年5月15日

第4回「事の外に立ちて、事の内に屈せず」山田方谷

 幕末の偉人山田方谷をご存じだろうか。

 戦後歴代首相の指南役的存在であった東洋思想の碩学・安岡正篤が、「古代の聖賢は別として、近世の偉人といえば、私はまず山田方谷を想起する。この人のことを知れば知るほど、文字通り心酔を覚える」と評した人である。

 山田方谷は備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の儒者(陽明学者)。窮状にある藩財政を見事に立て直した。江戸時代、多くの藩が窮状にあえいでいた。上杉鷹山による米沢藩財政改革が名高いが、方谷による藩政改革の成果は、米沢藩をはるかに上回る。方谷が松山藩の改革に着手したわずか七年後には、十万両の借金を返済し終えた上、十万両を貯蓄する富国強兵藩となった。方谷による藩政改革の成功は幕末全国に知られた。

 藩主板倉勝静の篤い信頼を得て藩財政の最高責任者となった方谷は、上下節約、負債整理、藩札刷新、産業振興、軍制改革といった藩政改革を次々に断行した。

 まず方谷は自分の家の出納帳を公開した。倹約令は実質の対象者を中級以上の武士と裕福な農民・商人とした。また、慣習化していた役人への賄賂と酒の馳走を禁じた。負債整理にあたっては、債権者の大阪商人に慣例を破って藩の実収をすべて公開し、返済計画の了承を得た。また、方谷は大阪の蔵屋敷を廃止し、米を藩内に保管して有利なときに販売して現金を入手する方法に改めた。

 当時、貧乏板倉(=松山藩)の藩札は信用ががた落ちしていた。方谷は、財政の苦しい中、三年かけて信用のない藩札を回収し、旧藩札をすべて領民たちの見守る高梁川の河原で焼却した。このパフォーマンスは藩の威信を回復させ、新しい藩札「永銭」は極めて高い信用を得て、他藩の領内にまで通用するようになった。

 高梁川上流は砂鉄の産地だった。方谷は鉄山開削を藩の直轄事業とし、産出する鉄の加工工場を次々と建設した。この良質の鉄を原料に、刃物、鍋、釜などの鉄器、鍬や鎌などの農具、釘などを生産し、船で大消費地・江戸に直送して販売した。特に三本歯の備中鍬と釘は大きな利益をもたらした。方谷はまた、特産品を育成し、杉、竹、漆、茶、煙草、柚餅子などのブランド化を図った。

 方谷は、軍制改革として「農兵隊」を創設した。藩内の壮健な若者を選んで銃と剣を学ばせ、農閑期には西洋銃弾の訓練を行った。幕末の封建的な身分を超えた軍組織として、長州藩高杉晋作による「奇兵隊」が名高いが、方谷の「農兵隊」の編成はその十年前だった。

 「事の外に立ちて、事の内に屈せず」。これが山田方谷の藩政改革根本の思想である。方谷は「理財論」で述べる。「---善く天下の事を制する者は、事の外に立って事の内に屈しないものだ。しかるに当今の理財の当局者は、金銭の増減のみにこだわっている。これは財の内に屈しているものである。---財の外に見識を立て、道義を明らかにして人心を正し、---賄賂を禁じて官吏を清廉にし、民政に努めて民物を豊かにし、正道を尊重して文教を進行し、士気を振い武備を張るなら、政道はここに整備し政令は明確になる。かくて経済の大道は治まらざることなく、理財の方途もまた従って通じる」。

 「事の内に屈する」。これは組織内の論理に屈することで、宿痾ともいえる日本社会の病弊である。すでに百五十年前にこの問題を洞察、「事の外に立つ」信念を実行し、財政再建に成功した山田方谷の事績は驚嘆に値する。

2018年5月1日

第3回 民主政治におけるポピュリズム

 チャーチルは、「民主主義は最悪の政治体制である、過去に試みられたそれ以外の政治体系を除けばのことだが」と言った。これは、民主主義が最高の政治体制だと言っているのだが、民主主義の問題点を熟知した発言である。

 最大の問題点は、民主主義が本質的にもつポピュリズムに支配されることだろう。古代ギリシアのプラトンは、ソクラテスを死刑にしたアテネの民主政治を衆愚政治として否定し、哲人政治を説いた。第二次大戦でドイツを破滅させたヒトラーのナチスも、議会で正当に支持されて生まれた政権だった。国民はヒトラーを熱狂的に支持した。

 実は日本の政治も、戦前からポピュリズムに支配されていた。日本のポピュリズムは、日露戦争の講和を不満とする民衆の日比谷焼き討ち事件に始まり、普通選挙の開始後本格化した。そして軍部を台頭させ、日米戦争に導いたのはポピュリズムだった。

 普選後大衆受けに腐心する政党の党利党略に幻滅した国民は、中立的な軍部、官僚を支持するようになった。しかし軍部も常に世論を意識して行動した。国民は関東軍による満州事変、満洲国建国を熱心に支持した。国際連盟を脱退して帰国した松岡洋右を、英雄として歓呼の声で出迎えた。

 政党政治を批判するばかりのマスメディアも問題だった。それは、新体制といった非民主的な体制と軍部の独走を生んだ。一番悪かったのは、日中戦争勃発後軍部が新聞報道を統制したことだったが、これに抵抗する新聞社はなく、生き残るため、自ら戦争を煽った。全紙が軍部のプロパガンダ紙と化し、発行部数を飛躍的に伸ばした。

 新聞を信頼する国民は軍部を支持し、日米戦争に行きつく。敗戦後戦争責任はすべて軍部に帰したが、責任は国民とマスメディアにもあった。戦争支持の国民的熱狂に支配された昭和の魔性の歴史をつくりだした正体は、ポピュリズムだった。

 しかし、新聞が戦争責任をとることはなく、終戦直後から「戦争は終わった、これからは民主主義だ」といった論調に豹変した。ジャーナリズムとは所詮そんなものだが、それでも戦前、軍部の弾圧に決して屈せず、自由主義的論説を書き続けた桐生悠々や、石橋湛山のような気骨あるジャーナリストがいたことを、われわれは忘れない。

 メディアによる異常な人気をもつ近衛文麿は、ポピュリストだった。戦前、議会政治が始まって以来、ポピュリズムに無縁な政治家として、原敬がいる。この大政治家が暗殺されていなければ、日本は政党政治を確立して、日米戦争の悲劇に至らなかったかもしれない。戦後の首相でポピュリズムに無縁な政治家として、吉田茂と岸信介をあげたい。

 世界でもポピュリズムが問題となっている。日本では、戦前のポピュリズムのまま今に至っており、戦前国を破滅させた政治におけるポピュリズムを、戦後日本は克服していない。ポピュリズムを克服するものは、政治家の国に対する責任感、ジャーナリストの事実と真実の報道(論評ではない)に徹する使命感、そしてわれわれ国民がそれを見抜く力をもつことしかないだろう。                         

2018年4月15日

第2回 習近平にみる中国文明の伝統

 「中華民族の偉大な復興」を唱える習近平の独裁化が進んでいる。3月の全国人民代表大会で、国家主席の任期制を撤廃する改憲が承認された。ここに、古代から続く中国文明の強い伝統が、なお現代中国を動かしているのを感じる。

 2,200年前の秦の始皇帝より、中国は皇帝の支配する世界だった。皇帝は天意を受けた天子であり、有徳の天子を優秀な科挙官僚が支えて民を統治する。これが中国文明のあり方である。毛沢東は実質的には皇帝だった。習は毛に並ぶ皇帝になりたいのである。

 古代より中国は、未開の周辺地域に屹立した文明世界だった。これが中国文明の根底にある中華意識である。中国は周辺国より文明的に上位にあり、未開な周辺国は中国皇帝に跪く。これが中国の理想とする世界秩序であり、近世になるまで中国文明の優越意識が崩れることはなかった。

 しかし、15世紀頃より西欧文明が興隆した。科学革命、産業革命、および市民革命を経て強力な近代国家となった西欧文明が、全世界に進出した。19世紀以降、文明の接触は中国文明が西欧文明の劣後にあることを示した。

 中国の近代は、西洋列強により半植民地化されるという屈辱の歴史である。そして中国の誇りを最も傷つけたのは、他ならぬ日本だった。中国文明の周辺国に過ぎない小日本が西欧文明を吸収して近代化し、日清戦争で中国を破った。さらに日本は中国を侵略した(日中戦争)。

 しかし、中国は最終的に抗日戦争に勝利した。中華人民共和国を建国し、誇りを取り戻した。

 西欧文明より受けた屈辱を克服した中国文明は今、大きく変化しただろうか。現代中国を見る限り、何も変わっていない。古代より続く中国文明の伝統のままである。

 中国文明は西欧文明から何を学んだのだろうか。19世紀帝国主義化し中国を半植民地化した西欧文明の蛮性は、中国の克服すべき課題ではなかったか。しかし、現代中国の膨張は、19世紀の列強の帝国主義的膨張と何も変わらない。

 西欧文明は帝国主義的膨張を起こしたが、それでも西欧文明を代表する英、米、仏は市民革命を経て、自由、民主主義、人権といった人類の普遍的価値とみなされる価値を具現する文明だった。現代中国の膨張にはそのような敬すべき普遍的価値はない。

 中国より文明を学んできた日本人は、昔から中国を尊敬してきた。日清戦争後、軽薄な日本人が中国を蔑視し始めたが、心ある日本人はそうではなかった。毛沢東や周恩来に深い敬意を抱く日本人は多かった。強い伝統文明をもつ中国が、西欧近代文明の限界を乗り越える文明を創造すると期待する日本人識者は、少なからずいた。

 しかし、現代中国をみると、それはできていない。古来の中国文明が、近代世界ですでに否定された帝国主義的膨張を起こしている。日本はこんな時代錯誤的膨張を受け入れてはならない。           

2018年4月1日

第1回 世界史における明治維新

 19世紀、ヨーロッパの列強はアジアを侵略した。イギリスはインドを支配、続いてマレーシア、ビルマを植民地とした。清(中国)にアヘン戦争をしかけ、中国が半植民地化する端緒を開いた。フランスはベトナムを含むインドシナ半島を植民地化した。ロシアはアムール河以北の清の領土を奪い、ウラジヴォストーク(「東方を支配する」意)港を建設した。

 こうした中、日本は開国し、1868年、明治維新を遂行した。明治維新は、列強によって日本が植民地化される危機感を背景に、強い中央集権国家を建設する、150年前の日本人の渾身の応戦であった。

 維新政府は、王政復古の大号令を出し、廃藩置県を断行し、封建的諸制度を撤廃して、四民平等とした。富国強兵・殖産興業を国家目標とし、「文明開化」が流行語となるほど、西洋を真剣に学び、吸収した。

 1889年には憲法を制定した。翌年選挙を実施し、帝国議会を開いた。日本はこの時期に、立憲政治体制をまがりなりにも確立したのである。こうして建設された近代国家日本は、日清戦争(1894)に勝ち、日露戦争(1904-1905)にも勝つことができた。

 幕末ペリーの来航(1853)に始まった強力な西欧文明の圧力(挑戦)に対する日本の応戦は、日露戦争の勝利をもって一区切りがついたとみることができる。新興の近代国家日本が世界に認められ、列強に伍する国家としてのステイタスを得た。

 明治維新を世界史からみるとどう評価されるだろうか。まず明治維新は、他に強制されることなく、日本人が自力で成し遂げた体制変革だった。あの時期、アジアで日本のようなことのできた国は他になかった。

 明治維新は下級武士の起こした革命であった。しかし、革命後成立した体制は武士階級を廃止し、四民平等とした。これなど、社会変革を階級闘争史観でみる西洋の文明史家の理解しにくいところである。しかし当時の武士は、新しい日本のために、自らの階級を否定することに躊躇しなかった。

 明治維新ができた理由として、私は当時日本が武士の支配する軍事政権だったことが大きいと思う。軍事を統治の基本に置く武家政権だったがゆえ、強大な軍事力をもつ西欧列強の脅威と、日本の危機を正しく認識できた。

 西欧文明の挑戦をうけて、明治維新を行い、近代国家の建設に成功した日本は、日露戦争をピークとして、以後失敗を重ねていく。そして40年後、太平洋戦争でアメリカに徹底的に敗れる。維新後営々と築きあげた大日本帝国を滅ぼす。

 日露戦争後日本が転落していく要因として、「日本は世界の中で生きていくしかない」という指導者の自覚が希薄化していったことを挙げたい。実はこの強い自覚こそが明治維新を引き起こした根本原因だったが、維新後日露戦争までの成功体験が、この自覚の希薄化を招いた。      

2018年3月15日