第三章 武士道における美意識

 第2章で日本人の美の倫理を形成したものとして、まず神道について述べた。本章は武士道について記述する。武士道がまた日本人の美の倫理の形成に大きく与っている。

 日本は12世紀末から19世紀後半に至る700年間、武士の支配する世だった。発生以来戦闘者として生きてきた武士は、独特の慣習と作法を発達させた。それは「弓矢取る身の習い」と称され、戦場で勇猛果敢に、卑怯な振舞なく、討ち死にを覚悟して戦うことを基本とした。「弓矢取る身の習い」には戦闘者としての武士の行動の美学が凝縮している。

 「弓矢取る身の習い」は、平和な時代になっても武士道として存続した。それは支配階級としての「ノーブレス・オブリージュ」を含み、広範囲な倫理・道徳を含むものとなっていった。

 「花は桜木、人は武士」という。桜の花の美しさと武士をたたえた俚諺である。庶民は武士に敬意を払った。武士が支配する時代、武士道は武士の間だけでなく、庶民の生き方に大きな影響を与えた。武士の美意識を根底にもつ武士道は、武士階級が消滅したのちも、日本人の倫理となって生きている。

名誉に生きる

 武士道は名誉の掟であると言ってよい。武士道とは、つまるところ武士はいかにいきるべきか、個々の状況下でいかに振る舞うべきかの教えに他ならないが、その行動を律する基本原理は名誉であった(文献23、p.84)。名誉は名であり、面目であり、外聞である。武士は何よりも名を重んじた。武士にとって最大の恥辱は名を汚すことだった。

 武士が名誉を重んじ、恥かしいことは絶対にしないという教育は、幼少の頃から徹底していた。「そんなことをして恥ずかしくないのか」という、名誉に訴えるやり方は子供の心の琴線に触れたと新渡戸稲造は述べている。武士の子は名を勝ち取るためにいかなる貧困をも甘受し、肉体的、あるいは精神的な苦しい試練にも耐えた(文献22、p.78)。

 武士道はもともと戦闘者として生きた武士の倫理である。それは武士発生以来、「弓矢取る身の習い」と称された。「弓矢取る身の習い」は、戦場における武士の作法であるが、名誉の観念がこれを支配していた。武士は戦場で勇猛果敢に敵に立ち向かい、敵方の大将や名の聞こえた武将の首級を得るのが最高の栄誉だった。そして死が逃れえぬものであるなら、大勢の敵を引き受けて、奮戦敢闘の末に潔く討ち死にすることを理想とした。武士は名誉のためにいつでも命を捨てた。戦場で命を惜しむ、卑怯な振る舞いを認められた武士は、その恥辱の中で、武士として生きていくことができなかった。

 名誉を原理とする「弓矢取る身の習い」は、戦乱の終わった江戸時代も武士道の根幹として存続した。平和な社会で、武士がその戦闘者としての名誉をかけて闘う行為が喧嘩である。喧嘩、果し合いの場において相手を討ち果たした武士には、刑罰としての死が待っていた。しかし、名誉を侵害されたときは喧嘩の禁も打ち破って相手を討ち果たさなければならないのが、武士の名誉感覚であった(文献23、p.86)。受けた恥辱に対しては、生命を賭してまでリアクション(報復など)をとり、名誉を守ろうとした。これは「武士の一分」と言われた。

 自己の属する共同体が受ける恥辱も、武士は座視できなかった。ある時、肥前唐津藩主・寺沢広高(1563-1633)の嫡子と、薩摩藩主・島津家久(1576-1638)の娘との間に縁談の話が持ち上がった。寺沢家は島津家の使者・伊勢平左衛門貞真を心から歓待した。しかし、酔っぱらった伊勢平左衛門は、この縁組は不釣り合いであると寺沢家を大いに侮辱した。この時、寺沢家の天草城代を勤めていた高畠新助はこれに我慢できず、刀を抜くや、伊勢平左衛門の頭を真っ二つに叩き斬った。そして返す刀で切腹して果てた(文献64、p.107)。武士にとって主家の名誉は命より重かった。

 戦国時代に来日したヨーロッパ人が、日本人の名誉心の強さに驚愕している。繰り返すが、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(1506-1552)は、「(日本人は)驚くほど名誉心の強い人々で、何よりも名誉を重んじます。大部分の人々は貧しいのですが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉とは思っていません。(日本人は)侮辱され、軽蔑の言葉を受けて黙って我慢している人々ではありません」と書簡に残している。また、同じくイエズス会の巡察師ヴァリニャーノ(1539-1606)も、「日本人は、全世界でもっとも面目と名誉を重んずる国民であると思われる。すなわち、彼等は侮蔑的な言辞は言うまでもなく、怒りを含んだ言葉を堪えることができない」と報告している(文献64、p.102)。

 「弓矢取る身の習い」に発する武士の名誉心ははなはだ強く、恥辱に対して病的なほど敏感であり、平和な時代になっても、侮辱を受けたと言うささいな理由から抜刀に及ぶ喧嘩が発生した。しかし新渡戸は、名誉の感覚は人間の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含み、名誉に対する武士の極端な感覚の中に、私たちは香り高い徳の素地を認めることができると言う。

 まさに名誉心こそが人を道徳的に振る舞わせる根源である。以後論じていくが、武士道の重要な道徳は、嘘を言わない、利を軽んじ義を重んじる、卑怯なふるまいをしない、死を覚悟した勇気をもつ、などである。このような道徳を支える根本に名誉心、あるいは名誉心と不可分な自尊心がある。嘘をつくこと、利欲に負けて不正を行うこと、命を惜しんで卑怯にふるまうことなどは、何より大切な名誉を失う行為である。それは武士の強い自尊心の容認しないところであった。そして武士は子弟に対して、それは道徳に反するからいけないと言うのではなく、そんなことをして恥ずかしくないのかと、自尊心と名誉心に訴える教育を行ったのである。

 19世紀後半、ヨーロッパ列強がアジアを侵略し、アジア諸国が植民地化されていく中で、日本は独立を維持しながら体制変革を行い、近代国家の建設に成功する名誉ある歴史をもつ(明治維新)。これを遂行したのは武士階級であった。そして明治国家を建設した原動力こそ、武士の名誉心であった。劣等国と見なされることに耐えられないという名誉心、これが動機の中で最大のものだったと新渡戸は記している。武士が自らの階級的存在を否定する体制変革を伴う近代国家建設を遂行したのは、強い名誉心のゆえであった。

 台湾の元総統・李登輝は、日本領だった頃の台湾に生まれ、日本の教育を受け、京都帝国大学で農業経済を学んだ。氏は戦前の日本の最良部分を日本人以上に深く吸収した理想的日本人のような人であるが、敬虔なクリスチャンでもあり、戦後アメリカでも学んだ国際的視野をあわせもつ偉大な哲人政治家である。氏は、戦後民主化の過程のもとに、大和魂や武士道といった伝統的な道徳規範を喪失して、さまよう日本の現状を深く憂慮している。

 氏は著書『武士道解題』で次のように言う。「この名誉というのは、少年のころから体に叩き込まれるべき最初の徳であります。それなのに、今日の日本では、戦後の教育現場が荒廃し切っていたこともあって、なかなか教えようとしません。(中略)北京政府(中国)からちょっと強硬に何か言われると、もう恥も外聞もないといった感じで何でも言うことを聞いてしまう。このような卑屈極まりない----、以下省略」(文献65、p.229)。

 李登輝は、戦後の日本人が武士道の名誉心を失い、卑屈になったと観察している。恐らくそうだろう。しかし、名誉心というものは人間の根本感情で、たやすくなくなるものではない。武士道教育を特に受けた自覚のない私にもある。私は現行の日本国憲法は改正すべきだと思うが、それは名誉心からくるものと自覚している。憲法前文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。これは日本国民の安全と生存を他国の善意に委ねたという規定であって、日本人の名誉を損なう屈辱的条項である。これを飲まざるを得なかった敗戦直後の日本の指導者の無念を思い、早く改正すべきと思う。正しくは、1951年サンフランシスコ講和条約の締結によって、日本が主権を回復したとき改正すべきだっただろう。

 こうした名誉感が歳とともに強くなってきたのは、新渡戸が「武士道は道徳の掟としては消滅するかもしれない、しかしその力は地上から消え去ることはない、(中略)その光と栄誉がその廃墟を超えて蘇生するにちがいない」と予言するように、武士道が蘇生してその香気が私にまで及んでいるのだろう。

義に生きる

 大道寺友山(1639-1730)の『武道初心集』は、「義」こそが武士道の中核をなすとして、「義をつとめて、不義の行跡を慎むべきとさえ覚悟仕り候へば、武士道は立申すにて候」と述べる。新渡戸は武士道の中で最も厳しい教えが「義」であると言う。

 「義」とは何か。「義」は正義であり、道理にかなったこと、人間の行なうべきすじみち(『広辞苑』)とされる。だが、これだけではよくわからない。実践的な武士道の「義」がどういうものかよく理解するために、いくつかの事例を見てみよう。

 新渡戸は「義」に関して、「サムライにとって裏取引や不正な行いほどいまわしいものはない」と言う(文献22、p.29)。裏取引や不正な行いが「義」に反する最たる行為だということである。新渡戸の『武士道』の原著は英文であり、裏取引はunderhand dealings、不正な行いはcrooked undertakingsの訳である。ともに、不正直、不正な手段で利益を得る行為である。

 東京大学史料編纂所教授山本博文は武士道を深く研究して、「卑怯な行動や不正な行為を恥ずべきだとする心のあり方」が、武士にとっての「義」であるとする(文献64、p.47)。今後繰り返すことになるが、武士道が最も嫌ったのは卑怯、あるいは卑劣な行為であった。

 江戸時代『海国兵談』で海防の必要性を説いた林子平(1738-1793)は、「義」を決断力であるとして、「義は、自分の身の処し方を、道理に従い、ためらわずに決断する心をいう。死すべき時に死に、討つべき時に討つことである」と言う(文献64、p.46)。

 将軍吉宗に仕えた儒学者・室鳩巣(1658-1734)は、武士は「節義」の実践者でなければならないと言い、『名君家訓』に「節義」の内容を述べる。「嘘をつかず、私利私欲に走らず、心を素直にして上辺を飾らず、作法が乱れず、礼儀正しく、上にへつらわず、下をあなどらず、自分がなした約束を違えず、人が苦しい立場に立ったときは見捨てず、期待に違わず頼もしくあって、かりそめにも下々のつまらない話に加わらず、人の悪口などは言葉の端にも出さず、そうして恥を知って首をはねられたとしても自分がしてはならないことはせず、死すべき場に立った時は一足も引かず、常に義理を重んじて、その心は鉄石のごとく強く、また一面では温和慈愛で、もののあわれを知り、他人に情けある者を、節義の武士というのである」(文献66、p.80-81)。

 「節義」と「義」は、完全には重ならないが、相当程度一致すると考えられる。この「節義」の具体例によって、武士道の「義」が何であるか概ね理解できる。

 また、「節義」について真木和泉守(1813-64)は次のよう述べている(『何傷録』)。「士の重んずることは節義なり。節義はたとえていはば人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ることをえず。手も物を取ることを得ず。足も立つことをえず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことは事かかぬなり」(文献22、p.29)。節義が武士の屋台骨で、すべての根幹であると言っている。

 義や節義についていくつかの事例を見てきたが、実は武士道で何が義かを判断する実際的な基準があった。それは、自分に不利益な方を選ぶのを義とする考え方である。つまり、義は私利の否定にある。日常の行為の中で武士たちは、往往にして自分の利益にならない方に義があるというわかりやすい基準で判断した。義と利が競合するとき、迷わず利を捨てて義をとるのが武士道であった。山鹿素行は『士道』で、武士たらんものの心を保つ工夫は、ただ義利の間を弁ずるのみであると説く。

 利益にならない方に義があるとする考え方は、武士道を超えて広く日本の庶民にも共有され、現在なお生きているように思われる。死んだ側、利益を得なかった側が正しく、生き残り、利を得た側が悪であるという、日本人の判官びいきの発想は、この考え方によると、武士道を研究する菅野覚明(東大教授)は言う(文献68、p.227)。

同じく武士道を研究する笠谷和彦(国際日本文化研究センター教授)は、武士道の「義」には二つの側面があるという。一つは具体的な正しさの徳目で、実体的正義と呼ぶべきもの。今一つは約束や誓約を誠実に守り、決して裏切ったりしないという信義としての側面である(文献27、p.116-119)。

 一つ目の実体的正義としての義は、悪を退けること。不正に走らず、不正の利得を拒絶すること。不正の企てに同調しないこと。そして私利私欲を抑制すること。知人や知行所を共有する人間に対して狡猾に出し抜いたり、利得を掠め取ったりしないことなどである。また、日常の振る舞いという次元では、他人の艱難を見捨てないこと、弱者をいじめないことなどで、政治や領内統治で苛政は戒められるのが義である。

 次に義の信義としての側面では、武士はひとたび言葉にして発したならば、それを違えることは許されず、全責任をもって履行しなければならなかった。武士に二言はなかった。武士から「頼」むと依頼され、それに対して「頼まれたぞ」と応諾した以上は、それをわが身に引き受け、そのために自分の命を捨てても守り通すのが武士道の義であった。武士における信義と約諾はそれくらい重かった。

 武士道の義が何であるか考えさせられるのが、元禄15年(1703年)起きた赤穂浪士の吉良義央邸への討ち入り事件である。旧赤穂藩の浪人47名が徒党を組んで深夜江戸の吉良邸に討ち入り、吉良義央を殺害した。この暴挙を決行した赤穂浪士を人びとは「義士」と呼んだ。「義士」と呼ばれることは武士として最高の名誉である。討ち入りは、彼らにとって武士としてどうしても行わなければならない「義」だった。

 仇(かたき)討ちは武士道の義であると認められていた。主君や親を殺されて平気な顔をしているような人間は武士ではなかった。赤穂浪士の討ち入りは、主君浅野長矩に無念の死をもたらした吉良義央に対する仇討と認識された。吉良に遺恨を覚える浅野が、元禄14年(1702年)3月江戸城松の廊下で抜刀して吉良を切りつけ、軽傷を負わせたが仕損じた。殿中での刃傷沙汰に将軍綱吉は激怒し、浅野は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。一方、吉良には何のお咎めもなかった。

 武家社会には、武士の喧嘩は両方ともに処罰するという、喧嘩両成敗の慣習法が生きていた。浅野は切腹、吉良はお咎めなしという武家の慣習法に反する幕府の裁定に赤穂藩士は納得しなかった。この幕府の片手落ちの裁定が、主君の仇として吉良を討つという藩士の決断をもたらした。江戸時代、仇討は認められており、これを合法的に行うには一定の手続が必要だった。それを経ない赤穂浪士の行動は違法であり、また幕府が一度下した裁定を覆す暴挙であるため、討ち入れば死罪となることはわかっていた。それでも赤穂浪士は討ち入りを決行したのである。

 残された赤穂浪士の手紙から、討ち入りはどうしてもやらなければならない武士の義だと認識されていたことがわかる。萱野和助は討ち入り直前に兄弟にあてて、「この場を逃れることは、私だけでなく、一家の面目にかかわり、ことに武士として生きている以上、甥の竹次郎は倅の猪之吉などにもよくないし、とにかく武士としての道を外れることになります」と書いている。また、神崎与五郎は妻おかつにあてて、「私もあなたが恋しいけど、これは人たるものの務めなのだ」と書いている。

 堀部安兵衛武庸にとっては、吉良を討つことが武士の名誉を守ることだった。籠城せずに城を明け渡す決断をした大石内蔵助に反対して、「(吉良)上野介が生きているのですから、御主人の敵(かたき)を見ながらどこにも顔を向けるところがありません。家中の一分が立つように仰せ付けられないうちは、この城を滞りなく渡し、どこに退こうというのでしょうか。家中にろくな武士はいないと評判になるでしょう。それは末代までの恥です」と言っている。

 赤穂浪士の討ち入りは、平和な江戸時代を震撼させる大事件だった。幕府は討ち入った四十七人の赤穂浪士の処分に苦慮した。世間は四十七士の行動を賞賛し、幕閣からも彼らを擁護する意見が相次いで出された。しかし最終的に、「主人の仇と申し立て」、「徒党を組んで」、「吉良邸に押し込み」を働いた四十七士は全員死罪と決まった。ただし、幕府は四十七士に武士としての名誉を認め、切腹という処分とした。また、吉良家は家名断絶・領地没収となった。これは幕府が事件時の裁定を片手落ちだったと認めたことを意味する。

 民衆は四十七士を義士と認めた。四十七士の眠る泉岳寺の墓には、300年以上も経った今もなお多くの人が訪れ、線香の絶えるときがない。

 江戸時代に認められていた合法的な仇討の制度は、明治6年廃止された。義は正義に他ならないが、武士道の義の正義としての普遍性を考えるとき、封建社会に特有の限界と狭さがあることは否定できない。正義からみた赤穂義士の評価が分かれるのは、当時の義の観念が普遍性からみて不十分であったという評価と重なっている。しかし、江戸時代の武士は義を人間の屋台骨と考え、生命を賭してそのような義の中で生きたのである。

独り立つ

 明治を代表する啓蒙思想家・福沢諭吉(1835-1901)が、文明開化した日本人に必要な精神として、「独立自尊」を説いたことはよく知られている。福沢は晩年「修身要領」を考え、旧道徳が力を失いつつある時世に新しい道徳の標準を示そうとした。そして「独立自尊」を「修身要領」の根底に置いた。

 実は福沢の「独立自尊」は武士道にルーツがあった。福沢は武士として生まれ、武士として育った人である。福沢は言う、「唯真実の武士は自ら武士として独り武士道を守るのみ。故に今の独立の士人も、その独立の法を、昔年の武士の如くして、大いなる過なかるべし」(文献67、p.156)。福沢は近代社会における商工業への尊敬を説いたが、彼には「先祖代々独立の気を吸わざる町人根性云々」といった発言もある。福沢の「独立の気力」は、明らかに武士の独立の気風に源がある。

 日本を代表するキリスト教思想家・内村鑑三(1861-1930)も、独立と自尊を特に重視した人である。内村は福沢より25歳ほど若いが、彼も武士として生まれた人である。内村は言う、「正に武士の子たる余に相応わしきは、自尊と独立である」(文献67、p.159)。内村は彼のキリスト教が武士道という台木に接木されたものであることを、誇らしく認めていた。

 武士の独り立つ、独立の気風はその発生に由来している。武士はもともと武力をもって開墾地を守る、独立した小領主であった。領地を脅かす者とは命を懸けて戦った(一所懸命)。武士が土地支配を全国的に争った戦国時代、武士の独り立つ精神は頂点に達した。強い戦国大名は一、二か国領有し、あたかも独立国の様相を呈した。こうした国持大名は武士の理想であった。戦国の武士は旺盛な独立自尊精神に満ちていた。

 代表的な戦国大名・武田信玄を中心とする甲州武士の事績を述べた『甲陽軍鑑』という書がある。戦国武士の精神を知る貴重な文献である。この『甲陽軍鑑』に「手の外なる大将」が武士の理想として描かれている。「手の外なる大将」とは、「手の内なる大将」の逆である。「手の内なる大将」とは、敵の手の内にあって敵から作戦を読み取られたり、また部下の手の内にあって、佞臣に思うままに動かされる大将である。大将、特に国持大将は、みずからの道理非の分別を踏まえ、「手の外なる大将」として人々の前に卓爾として立たなければならない。この「手の外なる大将」が、戦国大名にふさわしい独立自尊精神の持主である。

 江戸時代、幕藩体制が成立し、武士は幕吏あるいは藩士として組織社会に生きるようになったが、独立自尊の精神は存続した。山鹿素行(1622-1685)は、泰平の世の為政者となった武士のもつべき倫理道徳を「士道」として説いた。それは戦いのない時代の武士の存在理由の内省から出発していた。武士は耕さず、生産しない。そのような武士が遊民であってはならず、武士は自分の職分が何かしっかりと自覚しなければならない。素行は、武士の職分は人倫の道を実現することにあるとした。武士は人倫を正しくして商工者の規範となり、乱れればこれを正す。ゆえに、武士は人倫の指導者としての自覚をもち、道義的人格を実現した大丈夫とならなければならない。そして素行は大丈夫たる武士として「卓爾とした独立」を説いた。

 素行の説く武士の「卓爾とした独立」とは、気は至大至剛、外界を支配して外界に屈しない。度量は胸中に天下の万事を入れて自由であり、力量は天下の大事をうけて大任を負う能力をもつ。そして些事・利害好悪から自由であり、事の大本本源に生きる。また小成小利に甘んじず、功を立てて名を求めず、顔色を和らげて下に和し、人と争って憤怒することなく、情け深くゆとりをもつ。さらに、衣服飲食居宅言語は卑しからず、情欲に微動だにしない自己を確立している。これが「卓爾として独立した」大丈夫たる武士である(文献67、p.147-149)。  

 ところで福沢の「独立自尊」は武士の生き方に源があるが、武士道の単なる延長ではなかった。福沢は西洋思想の「ライト(right)」を深く理解して、これを「権理通義」と訳した。福沢の「一身の独立」とは自力で「権理通義」を実現することであった。そのためには、自ら物事の理非を弁別して他人の知恵によらないこと、および自ら活計をなして他人の財によらざること、の二つが根本であるとした。

 自己の「権理通義」を他人に守ってもらうことは、独立の欠如であり、他人に支配されることである。明治の世になっても日本社会に根強く残るこうした傾向を啓蒙すべく、福沢は独立自尊を説いた。福沢は武士道の独立自尊に新しい概念を付加し、これを深化させたといえるが、なお福沢の独立自尊は武士道と連続している。福沢は「一身独立して一国独立する」、「独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず」と言う。こうした深い洞察も、独立自立を重んじ、天下国家を自己の任と考えて行動した武士の生き方から自然に得られたものだった。

 山鹿素行は「卓爾として立つ」独立した大丈夫のあり方を示したが、武士の独立自尊の思想は幕末において大きく深化した。それは、何らかの自己を超えるものによって私情我意を超克し、自己がこれと一体となることによって真の独立自尊の自己となるという思想が生まれたことである。そして幕末の武士は自己を超えるものとして天を見出した。天は天地万物の生々を主宰する何ものかであり、それは超越的であるとともに個人に内在するものであった。この天の思想が幕末の武士―――佐藤一斎、藤田東湖、吉田松陰、西郷隆盛など――の精神に生きて彼らの行動を支配した。

 『言志四録』を著した昌平校の儒官・佐藤一斎の思想は、幕末の武士に深い影響を与えたが、一斎は「士は独立自信を尊ぶ」、「士は当に己にあるものを恃(たの)むべし」と言う。他人に頼らず、己の力を恃むべしと説いた一斎は、真我を確立することによって独立した強い自己となることを説いた。そして「天と一体になるとき、まさにその身を忘れて、身真に吾が有とならん」と言い、天と一体となり得たとき、真我が確立すると説いたのである。

 幕末の志士の独立自尊は、永遠なる天を背後にもち、私情我意を超克した真我による強いものとなった。この自覚が封建の身分秩序と主従関係をも克服する論理となった。一斎は、「人君は社稷を以って重しとなす。しかれども人倫は殊に社稷より重し。社稷は棄つべし、人倫は棄つべからず」と言った。一斎は幕府の儒官であり、社会革命とは無縁であった。しかしこの一斎の思想を徹底すると、吉田松陰の革命思想「草莽崛起論(民衆が立ち上がること)」にまで発展する。

 松陰は日本国の安否を思うとき、封建の身分秩序にこだわり続けることができなかった。武士道を研究する倫理学者・相良亨は次のように述べている(文献67、p.151-153)。「草莽崛起論は、幕府・藩つまり秩序を括弧に入れることである。しかして分の秩序を括弧に入れしめたものは、自らをのみ恃み、天下国家を以って自ら任ずる大丈夫の精神、卓爾として独り立つ精神の高揚であった」と。

 明治以後の日本の国運の上昇が、武士の独立自尊のエネルギーによるところが多いことは、しばしば指摘されている。幕末、武士の独り立つ精神は、天下国家をもって自ら任ずる精神にまで高揚した。松陰は、天下国家の事を自己独りの双肩に担いきることによって、はじめて自己の力で立つ武士となると考えた。松陰に典型的にみられる独立自尊精神の高揚と国家を担う精神との一体化は、多少の違いはあっても幕末の志士と明治の指導者に共通していた。明治維新はそのような武士が起こし、明治国家はそのような武士によって創られた国家だった。

嘘をつかない、事実本位

 嘘をつかないことは武士道の根本的道徳である。嘘をつかないこと、正直であることは日本人の最も重視する道徳であるが、それは武士道において徹底している。

 江戸時代1642年に出版された『可笑記』という武士の教訓書がある。作者は如儡子と称し、おそらく東北の有力武士の家系に出自を有する名族の末裔で、諸学諸道に通じた教養豊かな浪人である。この『可笑記』に武士道とは何かを以下のように記す(現代語に訳している)。

 「武士道とは何かを考究するに、それは嘘をつかず、軽薄でなく、主人に対するおべっか使いでなく、二枚舌でなく、胴欲でなく、驕慢でなく、人を誹謗中傷することなく、主人への奉公が疎かでなく、朋輩との仲もよく、些細なことにはとらわれず、人との間柄も睦まじく他人を称揚し、慈悲深く、義理がたいことを肝要と心得るべきである。(以下省略)」。

 まず最初に「嘘をつかないこと」が挙げられている。また、前述したように室鳩巣は『明君家訓』に武士が実践すべき節義の内容を、「嘘をつかず、私利私欲に走らず、心を素直にして上辺を飾らず、作法が乱れず、礼儀正しく、上にへつらわず、下をあなどらず、自分がなした約束を違えず、(以下略)」と記している。ここでも最初に挙げられているのは「嘘をつかない」ことである

 武士道が最も嫌ったのは嘘と卑怯だった。旧会津藩には有名な「什の掟」という武士の子弟の掟があった。会津では武士の子弟が「什」という小共同体をつくって生活していた。「什」とは集会のことで、藩校に入学する前の武士の子弟が午後になると什の構成員の家に集まった。そこで什長となった年長者が「什の掟」を言い聞かせた。

 1. 年長者のいうことにそむいてはなりませぬ。

 2. 年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ。

 3. 虚言(うそ)をいってはなりませぬ。

 4. 卑怯な振舞をしてはなりませぬ。

 5. 弱い者をいじめてはなりませぬ。

 6. 戸外で物を食べてはなりませぬ。

 7. 戸外で女の人と言葉を交えてはなりませぬ。

 8. ならぬことはならぬものです。

 年長者に対する従順と礼儀が最初の2条に述べられる。「什の掟」が藩校入学以前の年少者への教えであることを考えれば当然である。次にくるのが、嘘を言わないこと、そしてその次が卑怯な振舞の否定となっている。嘘を言わないこと、卑怯な振舞をしないことはことに会津では幼少のころから徹底していた。

 武士道が正直を尊び、事実主義で、嘘やごまかしを徹底して排除する精神は、武士の生き様から形成された。武士は戦いを職業とする人たちである。戦場で嘘やごまかしは一切通用しない。ごまかしようのない事実だけが支配する世界である。求められたものは、敵将は討ち死にしたはずだという説明ではなく、あくまで敵将の首という事実であった。

 戦国大名の朝倉宗滴は言う、「武者を心がくる者は、第一うそをつかぬもの也。いささかもうろんなる事もなく、不断理致義を立て、物恥を仕るが本にて候。(中略)不断うそをつき、うろんなる者は、如何様の実義を申し候へども、例のうそつきにて候と、かげにて指をさし、敵味方ともに信用なきものにて候間、能々たしなみ有るべき事」。

 武士が嘘をつかないことは、それが道徳的に正しいという理由で重視されたわけではなかった。もっと切実に武士が生き抜いていく上での要請であった。合戦の場では、嘘、うろんなこと(あいまいなこと)、はっきりしないことは一切通用しない。ここでは端的で明白な、あるものをあるとし、ないものをないとする事実に即した判断のみが必要である。  

 生きるか死ぬかという、後のない厳しい場に身を置く武士が自己を託すに足りるものは、動かすことのできない事実と、事実を正しく受け止める分別しかなかった。言葉や振舞はいかようにも飾ることができる。しかし、戦いをこととする武士は嘘と飾りで生き抜くことはできなかった。

 嘘を排除し、正直で飾らず、事実本位で生きる武士は、ありのままの精神をよしとした。自分の手柄を飾り立てせず、ありのままの事実をただ示す。実績が貧弱な武士は、自分の功績を偽り飾る。また他人の手柄を貶めて相対的に自己を飾る。武士道はこれを嫌った。偽り飾る武士という評価は最大の汚名であった。

 ありのままをよしとする武士は言い訳を否定した。はっきりした事実(証拠)で身のあかしをするのはよい。しかし、言葉でもって自分の行なったことを言い訳すること(「理(ことわり)をいうこと」)は、武士にあるまじきこととされた。言葉による弁明はどうしても飾りが入る。ゆえに明確な証拠とすべき事実を挙げ得ぬとき、いかに誤解されても武士は言葉をもって弁明すべきでなかった。言い訳を否定する武士の厳しい生き方と、言い訳なきゆえ発生した悲劇が、劇作家・井原西鶴の作品に生き生きと描かれている。

 武士のありままをよしとする精神、言い訳を否定する精神は、武士の名誉心、自尊心、自負心と密接に結びついていた。自負するところがあるゆえ、飾らず裸のありのままの自分を出すことができる。そしてそのような武士は、独り立ち、事実を見極め、追従右顧左眄しない。ありのままの精神は武士の独立自尊の精神とも結びついている。

 ありのままをよしとする武士の精神は、合戦のない江戸時代に消滅せず、むしろ内面の倫理として熟成した。幕末の佐藤一斎は「口を以って己の行を謗ること勿れ」という言葉を残している。自分の言葉で自分の行動を謗るなという。自分の言葉で自分を謗るのは、自己弁護で、ありのままでなく、一種の変形した飾りなのである。一斎の洞察は深い。

 世界的にみて日本人は形而上学的、思弁的議論を好まない民族といえる。また、原理原則論も空疎な観念論としてあまり重視せず、現実的、実際的、結果重視の考え方を好む。こうした日本人の傾向は、日本の武士道の事実尊重主義と通底している(文献27、p.134)。

 この日本人の武士道的思考は儒教的思考、特に朱子学的思考と著しい差異を成す。朱子学は事実尊重主義とはいえない。優れて観念的な形而上学の体系である。武士道は江戸時代儒教の影響を強く受け、儒教は武士道の中核的要素ともなっているが(儒教の影響を強く受けた武士道を「士道」という)、なお儒教と武士道には根本のところで大きな懸隔がある(文献27、p.134)。それは、武士道の事実尊重主義と必ずしもそうでない儒教との違いである。

 私はこの違いは、現代の日本と中国・韓国との国柄の違いともなっているように思える。

勇気、死、切腹

 勇気が武士道の基本徳目となることは論をまたない。武士の使命は戦場で戦うことである。戦って自分の土地、一族、家族を守る。臆して侵略、略奪、暴力に屈してはならない。主君をもつ武士は、勇猛に奮戦して勝ち、手柄をたて、敗色濃厚の局面においても踏みとどまり、主君の馬前に討ち死にすることを名誉とする。どのような困難な状況であれ果敢に立ち向かう勇猛の精神は、武士道の根幹をなすといってよい。

 武士の子が痛さに耐えかねて泣くと、「これくらいの痛さで泣くとは何という臆病者ですか。いくさで腕を切り落とされたらどうするのです。切腹を命じられたらどうするのです」と母はその子を叱った。勇気のない武士は、厳しい武士の世界を生きていくことはできなかった。

 勇気ある強者が武士の理想であった。このことは『保元物語』における鎮西八郎為朝の描写からも伺える。為朝は粗暴で、父為義から勘当され、九州に追いやられた一種の無頼漢であった。彼は九州で勝手に九州総追捕使などと名乗り、またたく間に九州を自分の支配下に従えた手のつけられない逆臣である。その為朝が剛勇の強者であるゆえをもって、『保元物語』では彼を第一級の人物として描く。

 世界的に共通するが、武士道においても義の伴わない勇気、単に勇敢なだけの行為は真の勇気と見なされなかった。中国の孔子は「義を見て為さざるは勇なきなり」と言った。これを肯定形で表現すると、勇気とは義(正しい行い)を為すことである。武士道では、義が伴わない勇気を「匹夫の勇」といい、そのために死ぬのを犬死とした。義が伴う勇気を「大義の勇」といい、そのために死ぬことを名誉の死として区別した。また、徳川光圀は、「生きるべきときに生き、死ぬべきときにのみ死ぬことを、本当の勇気という」と言った。

 真に勇気ある武士の特徴は、その落ちつきに見られる。戦いの最中にあっても、決して狼狽せず、常に冷静な心を保つ。どのような危険の中にあっても、落ち着いて平静さを乱さない。死に直面して歌をよむ。そのような驚くべき昔の勇者の行状が今日まで伝わっている。

 室町時代の太田道灌(1432-86)は兵法、学問、和歌に長け、江戸城を築いたことで知られる武将である。道灌は扇谷定正の館に招かれ、ここで殺害された。刺客が槍で道灌を刺し貫いた際、道灌が歌を好むと知っていたため、「かかる時 さこそ命の 惜しからめ(このような時は、本当に命が惜しいだろう)」と上の句を詠んだ。すると、息も絶え絶えの道灌は、絶命する前に下の句を付けた。「かねてなき身と 思ひ知らずば(今失う命だと知らなかったから)」。刺客に襲われ、絶命する寸前にこのような歌の交換をするとは、驚嘆すべき精神力である。

 剛勇、剛強は戦闘の場だけではなく、平時においても武士に必要とされる徳目であった。武士道が重視する徳目に「意地」がある。「意地」は正しいと判断された事柄を困難に打ち勝って貫く強い精神力(剛勇、剛強)である。大道寺友山の『武士道初心集』にも「武士道は剛強の意地あるを第一と仕るとあるは勿論の儀」と、武士道の核心に「意地」を置いていた。

 相手や周囲の雰囲気がどうであれ、情況に左右されることなく、「是は是、非は非」と明確に述べ、そのように振る舞うことを武士道は理想とした。そうした武士は、気骨ある武士として高く評価された。また、先述したように、武士は、信義を守り抜く、武士に二言なし、という厳しい世界に生きたが、これを貫徹するものこそ武士の内面の強さ(剛強)である。

 武士道は「克己」を重視した。克己こそは勇気の内面にある徳である。死を感じたとき、人は恐怖に襲われる。武士は戦場で生死をかけて戦うために、自分に打ち克たねばならない。そして自分に打ち克ち、自己の弱さを克服した武士が戦場で他者に勝つ。そうした者が初めて勇者として、戦場で名を知られる武士となる。武士は絶えず克己の訓練を積んだ。そして、克己は心の安らかさに行き着くものであった。

 戦闘者として生きる武士は常に死が身近にあり、武士はこれを直視して生きた。常住死に身となり、死と向かい合う覚悟を抜きにして武士道は語れない。死の覚悟を常に心に蔵することは武士道の根本的な嗜みであった(文献27、p.131)。死を覚悟することは、死んで自己が無になるという事実から目をそむけることなく、その死を恐れず、毅然として事に処し、あるいは敢然として死地に突入することである。死の覚悟が究極の勇気をもたらす。

 常に死に直面する勇気をもって生きた武士は、死に関する考察を深めた。「生きるべき時に生き、死ぬるべき時に死ぬことを、本当の勇気という」という光圀の言葉は非常に深いが、生きるべき時、死ぬるべき時とはいったいどういう時か。これに関し、高杉晋作の問いに答えて吉田松陰は書簡に記す。「君は以前、大丈夫の死すべきところは如何、と問うた。僕は昨年の冬以来、死についてわかったことがあった。(中略)死は好むものでもなく、また悪(にく)むものでもない。道が尽きて心が休まれば、すなわちこれが死に所である。(中略)死んで不朽の見込みがあればいつでも死すべきである。生きて大業の見込みがあればいつでも生きるべきである」。松陰のこの透徹した死生観は、死罪の宣告を受けて自己の死を目前にして書かれた。

 そして究極の勇気を示す行為が切腹である。武家社会には切腹という慣習があった。腹を切って自ら命を絶つ。これは生死を乗り越えた勇者でなければできない行為である。腹を切ることは首をくくったり、ピストルで頭を打ち抜いたりして死ぬわけではない。死をそこに見据えて、刀を腹につき立て、自分を切る。切腹を見事に行った者が、死を恐れない勇者の名誉を獲得した。

 切腹は武士が過ちを犯した時や、大きな責任の伴う職務遂行が不首尾に終わった時、自らの罪を謝罪するため、あるいは職責を全うできなかった不名誉を償うため自ら命を絶つ行為である。武家社会の責任意識は非常に厳しかった。法的には問題ないような事態でも責任が問われた。この場合、幕府や藩といった公権力による何らかの処分が下される前に、武士は職責を果たせなかった責めを自ら負って切腹した。

 1808年イギリス船フェートン号が長崎湾内に侵入して、出島のオランダ商館員二人を拉致した。交渉結果、オランダ人は解放され、フェートン号は薪水、食料などを得て退去したが、外国船の狼藉を許したことに責任を感じた長崎奉行松平康英は、事件を幕府に報告したあと、奉行所の庭で切腹して果てた。これは強制された死ではなかった。日本の長崎奉行として職責を果たせなかった自責の思いが、腹を切らせたのである。

 1751~64年、薩摩藩は幕府の命令を受け、木曽川、長良川、揖斐川の三河川改修事業(宝暦治水)を行った。工事は困難を極め、工事期間中、現地農民との対立や幕府の役人との軋轢が絶えず、担当の薩摩藩士は責任をとって次々に切腹した。その数は54名に及んだ。工事費は予定をはるかに超え、40万両に達した。藩財政を悪化させ、多くの犠牲者を出した責任をとって、総責任者平田靭負(家老)も、工事完了後切腹して果てた。

 切腹の制度、慣習は世界的に特異であるが、この制度と慣習が武家社会に厳然と存在し、機能し続けたことは歴然たる事実である。切腹の制度と慣習は武士道の中核的要素である。これを抜きにして武士道を語ることはできない。日本人の切腹には外国人の驚愕を含めて非常に多くの、さまざまな評価がある。非常に断片的ながら、私は切腹について以下のように感じている。

 まず、切腹の制度が支配者としての武士階級を支えたということである。庶民が武士による支配を認めた理由に、武士は切腹せねばならない人たちだとの思いがあった。武士は法にかかわらず、自らの判断で責任ありと思えば切腹しなければならない。このノーブレス・オブリジェ(高い身分に伴う義務)をもつ武士は上に立ってよい。自分たちは法に従えば済む。

 そして切腹の制度と慣習は、封建的な身分社会の産物であることを強く感じる。切腹は中世に発生したが、盛んに行われるようになったのは、実は幕藩体制が成立してからである。幕藩体制のトップに立つ武士は、秩序維持のため忠義を説き、主君を絶対化した。幕府や諸大名が意向に従わない家臣に、容易に切腹を命じる傾向が発生したことは、どうしても否めないだろう。武家社会では、主君の命令に従わずに諫言するには切腹の覚悟が必要だった。

 切腹の制度と意義が普遍性をもたない(と私には思われる)証拠に、幕藩体制のトップに立つ武士は切腹していない。お取り潰しになった大名で、「職を失った家臣に詫びる」と言って切腹した大名は皆無である。また、徳川慶喜は江戸幕府を潰した責任をとって切腹などしていない。

 最後に切腹は非常に日本的な慣習だと感じる。切腹は死者に鞭打つことはしない日本人の美意識に依存している。切腹したからといって、多くは事態を根本的に解決したことにはならない。しかし、武家社会ではそれが解決として機能してきた。切腹すれば責任が問われることはなく、子々孫々に影響することはなかった。むしろ子孫の利益にもつながった。切腹は、自分より家の存続を重んじる武士の生き方を背景にした、日本独自の責任の取り方だった。

忠義

 忠義は武士道における枢要の徳である。忠義とはまごころをこめて主君に仕えること、主君に臣従し、忠誠の義務を果たすことである。忠義は本来、人に対しまごころを尽くすという道徳であるが、武士道においては、主君に対する忠義にほぼ特定された。

 武士社会において古く鎌倉時代、鎌倉殿(源頼朝)と御家人武士との間に封建的主従制度が設けられてより、武士は主君に対して忠誠、忠節を果すことが根本義務となった(文献27、p.113)。『甲陽軍鑑』にもその巻頭において、「武士は寝ても覚めても、あるいは食事の時も主への忠節忠功を存ずべきこと」と明言しているように、忠義は武士道の第一の徳目といってよい。

 忠や孝は儒教の重視する徳目である。中国では親への孝が絶対的であり、忠よりも重視されたのに対し、日本では主君に対する忠の方がより重視された。忠と孝が相反する状況に陥ったとき、武士はためらわず忠を取った。それは親の考え方でもあり、そうした選択が人倫に反するとして非難されることはなかった。武士の妻は、子に対して主君のためにすべてを捧げるように教えた。

 水戸学の藤田東湖は、忠と孝は一つであり対立するものではないと説いたが、一般的に武士道では孝は忠の中に込められていると理解されていた。武士は主君に対する忠の見返りとして知行・俸禄を与えられ、あるいは保証(安堵)されている。それが武士の「家」を成り立たしめているのであるから、主君に対する忠を貫くのが「家」を守り、親と先祖に対する孝になるという考えである(文献27、p.113)。

 武士道が主君に対する忠を重んじた大きな理由に、主君は「公」であるという認識があった。主君とは藩や国といった「公」の代表であり、象徴である。主君に対する忠は、つまり自分の属する藩や国という「公」に仕えることである。「公」である主君は「私」である自分よりも重かった。また、親よりも重かった。なぜなら、親も藩や国という「公(=共同体)」の一員にすぎないからである。

 新渡戸は言う。「武士道は、国家は個人に先んじて存在し、個人は国家の部分および分子としてその中に生まれてきたものと考えたが故に、個人は国家のため、もしくはその正当なる権威の掌握者のために、生きまた死すべきものとなした」(文献65、p.249)。李登輝は、これが「忠義」の本質であり、武士道において当然のモラルであると言う。そして、人間は一人だけで生きていくことはできず、必ず人とのつながりと、公的(パブリック)な関係性の中で生かされているのだから、今日でも、いったん緩急あれば義勇「公」に奉ずるという気構えをもつのが当然であると言う。

 武士は忠義のため命を捨てることも厭わなかった。それは武士の最高の名誉だった。武士道の忠義がそこまで進んだのは、公(すなわち自己の属する共同体)への至高の献身として理解できるが、東大教授菅野覚明は、武士道が本来戦闘者のモラルとして成立してきたことから、忠義の基本は「共に戦うことにある」と説く。

 菅野は言う。武士においては主従の忠も親子の孝も、さらに妻子、兄弟、朋友の関係も、すべてが共に戦うという結びつきを第一義としている。忠の基本は共に戦うことにある。幾多の戦いをすべて一緒に戦い、負けても最後まで共に戦うことが完成された忠の姿である。主君のために命を捨てるような忠が成り立つ絶対条件は、主君もまた最前線で敵と切り結ぶ戦闘者であることである。真心をもって尽くす忠は、戦いを共にした主従の、人格的、心情的一体感から生まれるのだ、と。

 まさにその通りであろう。主君に対する忠義と、主従の人格的、心情的一体感の強さで名高いのは、徳川家康と三河武士である。『三河物語』に、家来の危機を見て、自ら馬を飛ばして駆けつける、情と勇猛を兼ね備えた主君家康の様子が生き生きと描かれている。三河武士はそのような主君のために、いつでも命を捨てることができた。強い忠誠で結ばれた家康と三河武士の共同体は、戦国の世の最終的な勝者となった。

 このように、忠義はそのために命を捨てることさえ名誉とするほど、主君に忠誠をつくすことであるが、武士道における忠義は、主君へただ盲従することではなかった。主君が過っていると思えば、それを正すことも武士道の忠義だった。主君が過ちを犯そうとしていると思われた場合、主君の機嫌を損ねるとか、処罰されることを恐れて、それを見過ごすことは不忠と見なされた。どんな手段を取っても諫言することが武士道の忠義であり、その結果切腹を命じられてもそれは望むところであった(文献64、p.121)。主君にへつらい、機嫌をとる家臣は佞臣として軽蔑された。『葉隠』の著者山本常朝は、「奉公の至極の忠節は、主に諫言して国家を治めることなり」と言う。これが武士道を説いた常朝の忠義観である。

 武士道の忠義の道徳は、武士階級が消滅した明治以降も存続した。明治時代、圧倒的な欧米思想の流入のなかで国民道徳が模索された。「武士道は武家社会の崩壊に伴って、すべての人々に対する道徳的標準を提供し、国民全体の渇仰および霊感となった」と新渡戸は言う。そして武士道の忠と孝が国民道徳の中心的思想となった。主君に対する忠と、家族の家長に対する孝は、天皇に対する臣民(国民)の忠となり、忠孝一本こそが日本固有の国民道徳とされた。武士道の忠孝は国家、天皇に対する臣道となり、臣民(国民)の順守すべき道に変容したといえる。

 明治天皇が陸海軍人に与えた『軍人勅諭』は「我が国の軍隊は世々天皇の統率し給う所にそある」の冒頭に始まり、次の5箇条を列記する。

 1、 軍人は忠誠を盡すを本分とすべし

 2、 軍人は礼儀を正しくすべし

 3、 軍人は武勇を尚ぶべし

 4、 軍人は信義を重んじるべし

 5、 軍人は質素を旨とすべし

 第一に忠誠が掲げられており、全体は山鹿素行の士道における武士の当為規範そのものである。武士は主君のために命を投げ出して戦った。日本の兵士は天皇陛下のために命を投げ出して戦えと教えられた。

 昭和16年、陸軍大臣東条英機による『戦陣訓』が出された。これは日本兵士の戦陣におけるあり方を訓諭したものである。本訓第八「名を惜しむ」に記す「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、愈奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」が名高い。この訓は明らかに「名を惜しむ」武士道を踏まえている。太平洋戦争で、この精神に生きた日本兵が戦いに敗れたとき、敵陣に勝ち目のない突撃を行うか、自決する道を選ぶという痛ましい歴史を経験した。

 戦後の日本では忠義の道徳が否定されるようになった。李登輝は、「玉音放送を境に、一瞬のうちに教育現場の教師たちも、日本社会の潮流も忠義を全否定するような方向に激変した。私はそのあまりにも極端な変節ぶりに半ば茫然とした」、「忠義という言葉そのものが、日本の戦後教育の中で一種のタブーのようになった」と言う。

 明治以降教育の基本であった『教育勅語』も戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の意向を受けて廃止された。「我カ臣民克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ---」とあるように、『教育勅語』の柱も「忠孝」であったといってよい。戦後間もない昭和22年、教育の基本方針となる「教育基本法」が制定された。これは、民主主義社会に生きる日本人の教育方針として、「個人の価値と尊厳」を根本に置くものだった。当時の日本の指導者は教育勅語と教育基本法は矛盾せず、十分両立すると考えていた。しかしGHQは、教育勅語を「日本人を欺瞞して世界征服の挙に出した策略の一つ」と認識しており、その廃止を迫った。そして昭和23年、日本の国会は教育勅語を廃止する決議を行った。

 戦後教育は日本にまだ主権がない占領期に、教育勅語のような伝統を否定する路線が敷かれた。私は、教育勅語は個人の尊厳を基本とする教育基本法と矛盾せず、これを廃止する必要はないとする当時の日本の指導者が正しかったと思う。新しい考え方や制度を導入しても、古いものを廃さず残しておくのが日本の歴史からうかがえる日本人の知恵である。

武士の情け、あわれみ、仁

 情け深さ、弱者に対するあわれみは、極めて重要な武士道の徳とみなれた。今まで述べてきたように、武士は名誉に生き、節義を守り、勇敢で強くなければならなかった。戦闘者たる武士に要求される徳は何と言っても強さである。しかし、強いだけで情けを知らぬ武士は、立派な武士とは見なされなかった。あわれみを知る武士が真の武士であった。泣かないのが武士といわれる一方で、「たけき武士は、いずれも涙もろし」(『甲陽軍鑑』)と言われた。

 強くて優しい武士が武士道の理想であった。優しさは強さと両立する、むしろ優しさと強さは比例すると考えられた。優しいゆえに強く、強いゆえに優しい。人びとはそのような武士の理想を、武家の棟梁・八幡太郎源義家に見出した。源義家は、清和源氏史上最強を謳われる武士である。八幡太郎義家には有名な逸話がある。

 11世紀半ば、義家は奥州陸奥の豪族安倍氏と戦った(前九年の役)。衣川(ころもがわ)の戦で敗走する安倍貞任(さだとう)に〈衣のたては綻(ほころ)びにけり〉とうたいかけたところ,貞任が〈年を経し糸のみだれのくるしさに〉と答えた。義家は貞任の教養に感じて、つがえた矢をおさめたという。義家は「あわれ」を知る武士で、武将として思いやりが深かった。同時に、「同じき源氏と申せども八幡太郎はおそろしや」(『梁塵秘抄』)と、都の盗賊どもが義家の名を聞いただけで震えあがるほどの、別格の強さをもつ武士だった。

 八幡太郎義家にみられるように、武士は詩歌を嗜んだ。詩歌管弦のわざとしての文は、武士に必須の教養であった。もののあわれを知り、文武をともによくする武士が武士の理想だった。文武両道というのも、強くてやさしいという武士の理想の別の言い方にほかならない、と菅野覚明は言う。

 下野国佐野城主、天徳寺了伯は、小田原北条氏に仕えた勇将であったが、琵琶法師を招いて『平家物語』を語らせるのを好んだ。了伯は、佐々木四郎宇治川先陣の曲の語りと、那須与一の扇の的の曲が語られると涙を流した。臣下が、二曲とも勇烈な曲なのに、どうしてご感涙にむせばれるのでしょうかと聞いたところ、了伯は答えた。

 佐々木四郎は、頼朝公が弟にも譲らず大切にしていた名馬「いけずき」を賜ったのだ。もし先陣ができなければ討ち死にする覚悟で頼朝に挨拶している。その時の心中を察すると哀れで涙がでるのだ。那須与一も同じである。与一は扇を射損じればそこで死ぬ覚悟をしている。それを思うと涙がでる。自分は、戦場に臨んでは、いつも佐々木四郎、那須与一の心になって槍をとっているのだ、と。

 「武の一筋は仁に根ざして惻隠の心より発するにあらずや」と室鳩巣は言う。抑えきれぬ涙が「真実」であるように、「物の哀れをしる心」から出る「武」こそが「真の武」とい う名に値するのであると、菅野覚明は言っている。

 情け、惻隠の情、あわれを知る心は武士道に不可欠であったが、こうした武士のあわれみは、「武士の情け」という武士道特有の言葉を生んだ。「武士の情け」は、相手の生死を支配する力を持ち、非情に振る舞うべき武士が、相手をあわれみ、温情をかけることをいう。「武士の情け」は敗者あるいは弱者に対するいたわりとして、武士道では尊重された。敵が致命傷で苦しんでいたらとどめをさして楽に死なせてやる、死にゆく敵に家族への伝言を頼まれたら聞き届けてやる、遺体を丁寧に弔ってやることなどが「武士の情け」であった(文献64、p.73)。  

 「武士の情け」の特徴は理性的な憐憫であることである。新渡戸は、「武士の情け」は盲目的な衝動ではなく、正義に対する適切な配慮を認めていると言う。敵をわざと逃がしたり、ただ敵の命を助けたりする非理性的衝動は、「武士の深情け」として否定された。

 武士道においても重視された憐憫、情け、思いやりといった感情は、古来人間の魂のもつ最高のものと認められてきた。仏教は「慈悲」、儒教は「仁」、キリスト教は「愛」を最高の徳とする。武士道は仏教の影響も受けたが、江戸時代儒教の影響を強く受け、儒教思想が武士道の中枢にまで及んだ。儒教によって武士の慣習である武士道の深化と理論化が進んだのである。

 「仁」は、人を愛する心のはたらきであり、儒教における最高位の徳である。当然武士道においても最重要の徳と位置付けられる。「仁」が道徳の基本であることについて、江戸時代の儒者は以下のように説いた。

 「仁はこころのいのち」である。「仁」こそが「生」の原理である。心は生きているが、その活動力の根本にあるのが仁である。あらゆる道徳は心が活動することから成り立つ。ゆえに、心の活動源である仁こそが道徳の基本である。天地の活動の本質は、ものを生じることである。天地に心があるならば、その心はひたすら万物を生みだそうとする心に他ならない。天地は、生み、育て、生かすことを好み、死ぬこと、殺すことを嫌う。それはつまり愛のはたらきである。ゆえに天地の子としての人間は、愛する心すなわち仁を本質としている。

 江戸時代、儒教は武士による統治の根本原理となった。国の統治は儒教による仁政が理想とされた。君主は民の父であり、父が子を慈しむような政治が仁政である。江戸時代の藩主は本気で仁政を行なおうとした。私は中国や朝鮮の歴代の王朝を含めて、儒教の仁政の理念が世界で最高度に実現されたのは、江戸時代の日本だったと思っている。それは儒教が日本の武士道と一体化して実現したのである。江戸時代には仁政をしいた名君が数多く出たが、米沢藩主・上杉鷹山(1751-1822)が最も名高い

 上杉鷹山は17歳で上杉家の家督を継いで以来、窮乏のどん底にある藩財政の立て直しに渾身の努力を傾注し、ついにこれを成し遂げた。鷹山は、藩主の地位を継いだとき、藩主は実の父母にように民を慈しみ、いたわらなければならない、との教えを守りとおすことを神に誓った。「受け継ぎて国の司の身となれば 忘るまじきは 民の父母」。鷹山の事績はすべてこの詠歌の実践であったと言って過言でない。

 鷹山は財政再建のために藩をあげて倹約に取り組んだが、まずトップに立つ自分の倹約が最も大切であるとして、藩主仕切り料を1,500両から209両に削減、奥女中も50人から9人に減らした。食事は一汁一菜、衣類は木綿とし、これを生涯守り通した。

 鷹山は竹俣当綱、莅戸善政といった優れた人材を執政に登用し、藩政改革を遂行した。莅戸善政は長期的な借財返還計画を立て、実行していった。鷹山の晩年には藩の借財はすべて返還完了した。鷹山は産業開発を積極的に推進した。黒井忠寄を登用し、難工事が予想される水利土木事業に挑戦させた。

 鷹山は当時「間引き」と称されていた堕胎を領内で根絶させようとした。貧しさゆえに日常化されている「間引き」を深く遺憾とし、藩財政の苦しいなか、熟慮と協議を重ねて、子供を育てられない窮民に育英資金を与えるなど、前後三十年の努力を傾注した結果、米沢藩においてはこの悪習の根絶に成功した。

 鷹山の仁政は、この時代に驚くべき近代的な高みに到達していた。鷹山は引退するとき、新藩主の広治に以下の「伝国の辞」を与えた。

 一、 国家は先祖より子孫につたえる国家であって、自分が私すべきものでない。

 一、 人民は国家に属している人民であって、自分が私すべきものではない。

 一、 国家人民のためにたてた君主であって、君主のために立てた国家人民ではない。

 右三箇条御遺念あるまじきこと。

 広治殿                          治憲(鷹山の本名)

 これはまさに君主機関説であって、民主主義思想のエッセンスともいえる。これが18世紀後半という時期に鷹山の到達した政治哲学であった。この「伝国の辞」は米沢藩で代々の藩主襲封のとき伝授する慣例となった。

 「伝国の辞」は、鷹山の民に対する深い愛と透徹した理性の産物である。鷹山が米沢藩を蘇生させた成功の根本を問えば、それは人々への愛であろう。鷹山は72歳で没したが、鷹山の死を聞いて、「民は、自分の祖父母を失ったかのように泣いた。階層を問わず悲しみ、その様は筆に尽くしがたい。葬儀の日には、何万人もの会葬者が路にあふれた。合掌し、頭を垂れ、深く悲しむ声がだれからも洩れた。山川草木こぞってこれに和した」と伝えられている。

 鷹山の政治は、封建社会で実現した最高の仁政であったように思われる。それは儒教で深められた武士道による統治であった。鷹山は好学の君主で儒教を深く身につけていたが、鷹山の情け深さ、弱者に対するあわれみ及び強い責任感は、天性であるとともに武士道的なものである。鷹山の政治は、武士道による仁政が到達した極限の事例を提供しているように思われる。

武士道における女性

 武士と共に生きた女性は、どのような生き方をしたのであろうか。武士道は女性にとっていかなる倫理規範だったか。

 武士は基本的に戦闘者であるゆえ、戦闘員でない女子供を軽く見たと言われるが、実は武士ほど妻子を大切にした者はいなかった(文献68、p.264)。武士は戦って所領を拡大し、家、一族の繁栄を守る。武士は妻子眷属、一族郎党という共同体に根ざした存在である。決して一人ではない。武士が戦うのも、家、一族、妻子を守るためであって、「皆妻子のためなり」という考えは十分存在した。武士にとって女性は、妻であり、母であり、それは家の繁栄そのものだった。

 妻もまた、夫を武士として成功させるために尽くした。夫と共に下剋上の戦国の世を生き抜き、夫・山内一豊を土佐20万石の大名にまで出世させた妻・千代の内助の功が名高い。その一つ。会津征伐に向かった徳川家康は、大阪で石田三成が挙兵したことを知り、小山で軍議を開く。家康に従軍した武将の妻子が大阪で三成の人質になっており、家康は武将に、三成側に付いても構わないと宣言する。その席で一豊は、掛川城を家康に明け渡すと宣言し、ほかの大名たちもこれにつられて家康に忠誠を誓う大勢が決まった。

 この一豊の決断に妻千代の働きがあった。千代は三成側から大阪屋敷の一豊宛に届けられた書状と、家康に忠誠を誓うように促した自分の手紙とを文箱に密封し、忠臣を通じて一豊に届けさせた。また同時に、文箱を開封せず家康に渡すようにと書いたメモをこよりにして、忠臣の笠の緒におり込んで届けさせた。千代のメモを読んだ一豊はそれを燃やし、文箱を開封せずそのまま家康に渡した。家康は、一豊の潔さと千代の手紙とにより、一豊への信頼を深めた。家康が、関ヶ原で特に目ぼしい武功もなかった一豊を土佐一国の主にしたのは、このゆえであると言われている。

 戦国時代、夫と共に率先して行動した女性も、平和な江戸時代には家を治め、守ることが主たる役割となった。武士道の説く理想の女性は著しく家庭的である。子女教育も家のためが基本であった。詩歌、歌舞などの芸事や読書は決しておろそかにはされなかった。しかし、芸や学問は学んでそれ自体を極めるためのものではなく、家庭を治め、家庭を和ませる人間性の涵養のためであった。

 夫に対する貞操は最も重んじられた。これも家を守るために武士の妻に必要とされる道徳である。貞操は生命を賭しても守るべきものであった。女性は貞操が守られないとき、あるいは守られなかったとき、自害した。自害の方法を知らないことは女性にとって恥とされた。

 自己犠牲と奉仕は武士道の基調にある精神であるが、これが武家の女性の支配的な倫理であった。武家の女性は幼少の頃より自己犠牲と奉仕を教えられ、そのように生きた。妻は夫のため、母は息子のため、娘は父のために自分を犠牲にした。そしてそれは女性の誇りであった。女性が夫、家、そして家族のために命を捨てることは、男が主君と国のために命を捨てることと同様名誉あることであった。

 豊臣秀頼に仕えて大阪冬の陣で奮戦した木村重成の妻は、自分が夫の足手まといにならないようにと、戦を前に自害した。書き残した手紙には次のように記されていた。「ただ影が形に添うように思って暮らしてきましたが、この頃聞くところによれば、最期の戦いを行なわれるとのこと、陰ながら嬉しく存じます----(あなたの妻になるという)この世の望みをかなえた私ですので、せめてあなたが生きている内に最期の時を迎え、死出の道とやらでお待ち申し上げます。必ず必ず秀頼公からの多年にわたる海山のような鴻恩を御忘れなきよう頼み申し上げます」。このような女性は決して稀ではなかった。

 武家の男女は家と家との取り決め、あるいは主君の引き合わせで夫婦となった。それは自分が決めたわけではなかった。そのように生きる女性に、岡山藩主池田光政は「夫婦となるには、一世の縁ではなく、みな神々の引き合わせなので、どのような醜い夫であっても、夫と決めたからには尊敬しなければならない。女は家の内を治め、夫は外を治めるのが古くからのしきたりである」と教えた(『明良洪範』)。武家の夫婦は形から入ったといえる。そして相手を愛するなどという自分の感情とは別に、夫婦になった以上は、夫は夫の役割、妻は妻の役割を全力で果たした。多くは夫婦になってから互いを思いやり、愛情を育んでいった。形から実質を生んでいったのである。

 武士道は決して女性を粗末にしなかった。軍学者大道寺友山は『武士道初心集』で武士の妻に対する正しい態度を説いている。「自分が女房とし、奥様、上様と言わせている妻に対して、大声をあげたり、さまざまな悪口雑言に及ぶのは、市や町場の裏屋や粗末な家に住んでいる日雇いの者や、田舎から出てきたような身分の低い者ならともかく、騎馬で役を勤めるような身分の武士としては、決してあってはならないことです」、「そうじて、自分に手向かいできない相手だと見越して、暴力を振るったりするようなことは、勇敢な武士は決してしないものです」と。武士は自らが妻の座を与えた女性に対しては、尊敬の心で接しなければならないのが武士道であった。

 武家の女性を支配した奉仕と犠牲は、キリスト教が特に重んじる倫理である。また仏教も大乗仏教の菩薩道で、奉仕と犠牲を説く。奉仕と犠牲は宗教における至高の教えである。日本の武家の女性は、この宗教的な教えを、普通の生活の倫理として生きた。武家の女性は、宗教の世界においてそうであるように、奉仕と犠牲の精神のゆえ尊厳性を高めた。そして武士の妻、母は奉仕と犠牲の精神のゆえ、最高の尊敬と深い愛情を受けた。

 以上が武士道における女性の倫理の概略であるが、最後に武士道における男女平等について考えてみよう。武士道は男女平等だったか、それとも男尊女卑だったかという問いである。結論として私は、武士道はどうしても男尊女卑だったと思う。

 薩摩藩は武士道の盛んな土地である。薩摩藩の武士の子供は、次のようなことが徹底して教えられた。

 1、神仏を敬い、祖先を崇め、家名を汚してはならない。

 2、長幼の序を正し、年長者を敬せよ。

 3、武士は情け深くなくてはならない。たとえ禽獣であっても慈しめ。

 (中略)

 7、義(理屈)を言わず実行せよ。

 8、約束を重んじ、命をかけて果たせ。

 (中略)

 16、男子の心身は主君のものである。そのため、心身を潔く保たなければならない。

 17、女子は卑しむべきものである。少女であっても交際してはならない。

 18、金銭は卑しむべきものである。

 このような教えで育つ薩摩武士は、どうしても男尊女卑の考えになると思う。薩摩藩では、男子は主君に命を捧げる存在であるから、藩の宝とされた。男子の枕元は、母も横切らなかった。衣類を乾かす物干し竿も、男女の別を厳重にし、洗面器なども男女は別だった。勿論、薩摩藩の男尊女卑は極端といえるだろう。しかし、薩摩藩は決して例外ではなく、全国的に存在した傾向の最も顕著な例といえるのではないだろうか。

 会津藩も薩摩藩と同様、武士道の深化した土地である。会津藩は明治元年(1868)、官軍となった薩長軍と戦った(戊辰戦争)。このとき、会津藩の上級武士・柴佐多蔵の家族の女子5人が全員自害するという悲劇が起きている。薩長軍が会津城下に迫った時、柴家の男子はいくさに備えて城内にいた。その間、柴家の女性全員----佐多蔵の母つね(81歳)、妻ふじ(50歳)、義娘とく(20歳)、娘そい(19歳)、娘さつ(7歳)----が自害して果てた。

 武士が大きな戦をするとき、戦う男たちに誠心奉仕するのが武家の女性の習いであった。その奉仕の極限は、討ち死に覚悟で戦う男たちに未練が残らないようにと、先に命を捨てることであった。戦国時代に発生したこの考えは、会津という武士道の地で純化されて幕末まで受け継がれ、柴家という立派な武家がいくさに直面したとき実践された。

 この悲劇が起きたとき、佐多蔵の五男・柴五郎は8歳であった。まだ幼少のゆえ城内には入れず、母の命で叔母の家にいた。叔父より、祖母、母、兄嫁、姉、妹全員が自害したと聞かされて、茫然自失、声も出ず、泣くに涙も流れず、めまいがして倒れた。柴五郎はその後、苦難の少年時代を経て創生期の陸軍に入り、明治33年(1900)北京で起きた北清事変(義和団の乱)における活躍など、軍人として立派な業績を残すことになる。

 戊辰戦争時の柴家の女性全員の自害は、柴五郎にとって生涯忘れることのできない痛恨事であった。晩年80歳を超えて書いた遺書に、「悲運なりし地下の祖母、母、姉妹の霊前に伏して思慕のやるかたなく、この一文(遺書)を献ずるは血を吐く思いなり」と記している(文献70、p.8)。

 柴家5人の女性の自害を主導したのは、おそらく祖母つねと母ふじだっただろう。祖母と母にとって一家の女子が全部自害することは、柴家の最高の名誉ある行為であった。私はこの出来事をみて、武士道に男尊女卑思想が存在したと思わざるをえない。勿論、武士道が純化された会津においても、武家の女性のこのような自刃はほんの一握りに過ぎない。しかし、会津武士道の化身のような柴五郎を生み育てた立派な武家から、自刃する女性が出たのである。

    武士道の吟味―現代性と普遍性

 以下、日本人が生み育てた道徳律――武士道――の普遍性を吟味する。武士道は現代および将来ともに意義ある普遍的な価値を含むか。

 武士道は数百年にわたり、主として封建社会で形成された武士の道徳律で、その内容は時代によって大きく変化した。しかし、一貫して変わらなかったものもある。

 日本人が数百年の歴史のなかで生み育てた武士道の精神的な高みは、我々に誇りをもたらす。そこには今後の我々が持ち続ける意義のある、普遍的なすばらしい教えがある。一方で、現代の民主的な社会にはどうしてもなじまない教えもある。

 こうした、過去高められ、深められた武士道精神の吟味は、混迷する現代世界を生きていく我々日本人の作業として大きな意味があると信じる。


名誉

 繰り返すが、戦国時代に来日したフランシスコ・ザビエル(1506-1552)は、「日本人は驚くほど名誉心が強く、武士もそうでない人びとも貧しいことを不名誉だと思っていない」、と驚きの書簡を本国に送っている。これほどの賛辞を現代日本人が得ることはまずないだろう。特に、貧しいことを不名誉だと思っていないところに注目したい。当時のヨーロッパと大きく違っていたので、ザビエルは驚いたのである。日本人はこの時代、貧しいことは不名誉ではないという、成熟した倫理にすでに到達していた。

 名誉の掟といわれるくらい、武士道には強い名誉心が横たわっている。名誉心は人の自尊心と直結している。誇りであり、矜持である。それは人間の尊厳性そのものである。自尊心と直結する武士道の強い名誉心は、時代を超える普遍性をもつと思う。

 武士道の名誉心は家の名誉意識も含むものであった。この現代的意義はあまりないように見えるが、私は現代もこうした名誉意識に意義を認める。それは、祖先への尊敬と誇りが自らの自尊心を高めるからである。祖先への尊敬と誇りの喪失が現代日本において著しい。第2章で祖先に対する感謝の重要性を述べたが、これに加えて祖先に対する敬意と誇りが自尊心を高め、正しい歴史認識をもたらし、より良い将来を切り開く力になると信じる。

 次に武士道の名誉の問題点について。武士道の名誉心は広範で、外聞、名声、面目といった、倫理としてみると、必ずしも高尚と言えない感情も含む。この中で、外聞、名声といった名誉心は否定すべきではないが、倫理としてみるとさほど重きをおくべきものではないだろう。面目については評価が難しい。武士は面目に関しては異常と思えるくらい敏感であった。面目は外聞や名声に比べると内面的な自尊心のウエイトがやや高く、倫理としても相当程度普遍性をもつと私は考えている。


独立自尊

 独立自尊は、日本人が今後とも強く持つべき精神であると確信する。福沢諭吉は、開国して世界と共に生きていく日本人に最も必要なものが、独立自尊の精神であると信じた。諭吉は外国を知り、文明国の隆盛が国民の旺盛な独立精神によって支えられていることを知った。

 旧道徳が力を失いつつあった明治時代、諭吉は独立自尊を核とした新道徳の修身要領を考えた。以下はその一部である。「心身の独立を全うし自らその身を尊重して人たる品位を辱めざるもの、これを独立自尊の人という」、「自ら労して自ら食らうは人生独立の本源なり。独立自尊の人は自労する自活の人たるべし」。

 前述したように、独立自尊精神は武士道にルーツがあったが、それは、武士がもともと小領主であったことに由来する。武士は独立して領地を守り、家族、一族郎党を守る責任意識を強く持って生きた。江戸時代に武士は主君に仕え、禄を食むようになったが、独立の精神は維持された。歴史家・武光誠は、「武士が世襲のものとして与えられた俸禄を、彼らが主君に差し出した領地の代償と考えれば江戸時代の武士の気持ちをよく理解できる」と言っている(文献76、p.115)。

 普遍的な価値を有する(と私は信じる)独立自尊精神が、外国からの借り物ではなく、武士道にルーツがあることを我々は誇りたい。幕末、佐藤一斎は「士は独立自信を尊ぶ」、「独立した強い自己は天と一体となった真我の確立によって得られる」と説いて独立の思想を深めた。

 日本の国の独立の維持にやや不安を感じる現在(私はそう感じている)、また、米国との関係において、戦後の日本ははたしてこれが真の独立国といえるかとの疑問もある現在、我々日本人に独立自尊の精神が強く必要とされていると思う。諭吉が言うように、国の独立は国民一人ひとりのしっかりした独立心によって得られると信じる。


 武士道の義は狭いかもしれない。しかし、義を最重要視する武士道は非常によいと思う。江戸時代室鳩巣の説いた節義は、現代も立派に通用する道徳である。以下再掲する。「嘘をつかず、私利私欲に走らず、心を素直にして上辺を飾らず、作法が乱れず、礼儀正しく、上にへつらわず、下をあなどらず、自分がなした約束を違えず、人が苦しい立場に立ったときは見捨てず、期待に違わず頼もしくあって、かりそめにも下々のつまらない話に加わらず、人の悪口などは言葉の端にも出さず、そうして恥を知って首をはねられたとしても自分がしてはならないことはせず、死すべき場に立った時は一足も引かず、常に義理を重んじて、その心は鉄石のごとく強く、また一面では温和慈愛で、もののあわれを知り、他人に情けある者を、節義の武士というのである」。

 現代日本は武士道のような義の道徳に欠けている。今の日本人は私のようなシニア世代を含め、あまり道徳教育を受けていない。昔の武士のような厳しい義の教育も受けていない。日本では敗戦後、日本の伝統に根ざす道徳を子供に教え込むことに躊躇するようになった。今も子供に道徳をあまり教えていない。

 「人を殺してなぜ悪いかわからない」、「人に迷惑をかけるわけでもない援助交際をして何が悪いのか」などと子供に主張されて愕然とし、戸惑う親がいる。これは今の日本の抱える問題の極端な事例である。子供に道徳――人の正しい行い――を教えるのに理由などいらない。会津「什の掟」の「ならぬことはならぬことです」でよい。人は道徳を知って初めて本能のみの動物から人間になる。大人は毅然として子供に道徳を教え、人間としなければならない。

 信義、約諾は命にかえても守るという武士道の義もすばらしいと思う。命に代えてもというのは武士道の世界であるが、今後もそれくらいの重みをもつ道徳だと信じる。信義、約諾の遵守は人間の信頼関係の基本である。これをないがしろにする者はやや下等な人間と見られる。これは国家間の約束でも同じである。19世紀、ヨーロッパでは様々な国家間の約束が取り交わされたが、取り交わした約束(条約)を最もよく守るのはイギリスで、守らないのはロシアであった。これはイギリスとロシアの国家のレベルの差をそのまま表していると思う。日本は武士道で培った信義、約諾を守る道徳を、個人のレベルでも国家のレベルでも遵守していきたい。

 武士道がもっとも嫌ったのが卑怯や卑劣であることもすばらしい。幸いにして、普遍的な価値のある(と思う)この道義感情は現代日本に健在である。我々は将来ともこの道義感情を堅持していきたい。「日本人は卑怯なことをしない」という世界的評価は、日本人に大きな名誉をもたらすだろう。

 武士道は、義と利が競合するとき利を捨てて義を取った。これは武士道の最もすばらしいところだと思う。しかし、実はこれを行なうには、むつかしい実践的判断が必要とされる。義は法や慣習から明確になっているものだけではなく、感覚的、主観的な義も数多く存在する。そうした義と利が相矛盾するとき、武士道は利を捨てて義を取った。こうした武士の選択を支えた精神は美意識と名誉心だったと思う。

 義と利を弁ずるのは永遠の課題である。現代の道徳として考えると、武士道ほど利を軽く見る(あるいは否定する)必要はないと思うが、義と利が競合するとき、義を取る方に美しさと誇りを感じる武士道精神は貴重である。著しく利の方に傾斜している現代社会に貴重な、高尚な倫理として存在してよいと信じる。

 自分の利にならない方に義があるとする武士道の実践的基準は、人間の本能は極めて利に敏く、そのため注意していなければ義を失うことになりやすいことを警戒する教えだと考えてよいと思う。人の利欲の本能は強く、人は平気でその正当化をもするゆえ、始めから利の否定に義があると考えておけばだいたい間違いないという考えである。実際は、義でもありかつ自分にも利となるケースはあると思う。そういったケースかどうかは、心を澄まし、純粋に考えることで正しい判断ができるだろう。

 武士道の義は普遍的な価値を含み、条件付きながら現代も必要とされる道徳であると思う。


正直、事実本位

 正直は日本人が特に重視する道徳であるが、武士道において徹底された。正直は普遍的な価値のある道徳で、日本人のよって立つ道徳基盤だと信じる。日本人は正直だという評価は日本をどれくらい益するかわからない。日本が長い歴史の中で正直の道徳を培って現在に至っていることに誇りをもち、他国の人たちがどのようであろうと、迷うことなく維持すべきである。

 武士道が事実本位であり、日本人が現在もこの精神を強くもっているのはすばらしいことである。日本人は事実本位など当たり前ではないかと思うだろうが、世界には必ずしもそうでない国もある。事実本位こそ世界の基盤道徳となるべきであると信じる。

 ところで武士道で高められた正直、事実本位の精神は、飾らない、ありのままをよしとする精神を生み、さらに言い訳を否定する精神を生んだ。この言い訳否定の精神が世界標準の道徳となりうるかどうかは、よく吟味する必要がある。武士道が言い訳を否定したのは、言葉での言い訳にはどうしても飾り(つまり虚偽)が混ざるという人間の弱さがよくわかっていたためであり、言い訳しないことに武士の美意識があったと考えられる。

 日本の武士道で成立した言い訳しない精神は美しく、貴重であるが、これを世界標準とするのは難しい。言い訳を認め、言い訳は事実を尽くすという精神を世界標準とすればよい。


忠義

 忠義の現代的意義を考えてみる。封建社会で高度に発達した「忠義」が現代社会で全面否定されるべきかというと、決してそうではないだろう。「忠」とは、まごころ、まことの意で、忠義は本来、人に対してまことを尽くすことであり、普遍的価値のある徳である。ただ、現代社会における忠義、あるいは忠実、忠誠といった言葉には、どうしても相手(主君、社長、上司など)に対して、自分の信念もなく、あってもそれを主張することなく従うといったイメージがつきまとう。「忠実な部下」あるいは「忠義者」と評される人間性には、自分の主義、信念といった自己の尊厳にかかわる主張に弱さが感じられる。

 忠義は英語のロイヤリティ(Loyalty)に相当する。ロイヤリティとは、人、組織、あるいは自分の信念に対して、変わらぬ支持と親しみを持つことである。李登輝は、敗戦によって今までの忠義を一夜にして捨て去るようでは、ロイヤリティという言葉を大切にしている欧米諸国をはじめ、世界から日本国民が信用されるわけはない、と述べている。

 ロイヤリティが現代日本語の忠義のもつ語感とやや異なるのは、ロイヤリティは信念に忠実という考えが強いことである。それは自己の尊厳と深くかかわっている。これは実は武士道の忠義と共通している。武士道は独立心と自尊心を尊ぶ。武士道の忠義は前述したように、主君に盲従することではなく、主君が間違っていると思えば、これに命をかけて諫言することであった。主君の機嫌をとる佞臣は不忠者であった。現在でも社長に必死で諫言する社員の武士道的忠義は、十分意義があるだろう。

 武士道では主君が「公」であるため、主君に対する忠義は決定的に重かった。明治時代、国の指導者は武士道的忠義の対象を天皇とした。国という「公」の代表が天皇になったからである。そして、天皇に対する忠義をもって国民道徳とした。私はこうした国民道徳が全面的に悪いとは思わない。しかし、この武士道的国家主義は日露戦争後、国家を健全に運営することができなかった。

 それは軍国主義の台頭とともに、軍部が国家を専横し、事実上の「公」となったからである。軍部の意向は国民の総意でもなく、天皇の意志でもなくなった。国民は軍部という、公ならぬ私の組織集団への忠義をせまられたことになる。これは国民道徳となった武士道の問題というより、国家の統治システムの問題であった。これを象徴的に示すのが、「統帥権の独立」などという、傲慢きわまりない軍部の主張が可能となるような、憲法の欠陥である。

 戦後日本では、戦前の苦い経験から、国家という公を嫌悪するような傾向が生じている。しかし、民主主義の現代社会で、自分たちが主権をもつ国家の公としての役割と、自分たちの責任は限りなく大きい。国家という公に対する新しい道徳の確立が必要である。それは、国を支えて国に頼らずという気概だと私は思う。そしてそれが国民の側から出なければならない。国を支えて国に頼らずとの気概は、国に対する武士道的忠義ともいえる。


武と勇気

 19世紀、欧米列強の強大な軍事力に直面して、国の独立に深刻な危機感をもった日本の武士は、開国して体制変革を行い、近代的軍事力をもつ独立国家を建設することに成功した。これは、当時の日本が武士による軍事政権だったからできたことだと思う。当時きわめて平和な社会だったが、武力を正当に理解する武士政権だったゆえ、欧米の軍事技術の恐ろしさと、日本の国の安全の危機が直視できたのである。これは、軍事政権でなかった 中国と韓国が、その後たどった実質的に独立を失う歴史をみれば、違いが明らかである。

 太平洋戦争で痛ましい敗戦を経験した日本は戦後、武力をタブー視するようになった。そして、武力のタブー視が続いていることに問題があると私は思っている。このゆえ、国家の安全保障に関する議論が良識あるものとならない。武力をタブー視するような国が、独立国として存在し続けることは、難しいのではないかと思う。

 武士道は当然武力をタブー視などせず、逆に大きな、ある意味では最高の価値を武におく。国の安全保障を考えるとき、武力をタブー視などせず、まともに見据える必要がある。このとき、戦前の日本の軍国主義化と武士道との関係をきちっと評価する必要がある。私はこの時期武士道が軍部に利用され、変容したと思っているが、なぜそうなったかを含め、伝統的な武士道の意義、問題点および限界をよく見極める必要がある。そうした反省が今後の国の安全保障を高めることになるだろう。


品性を高める教育

 武士道における教育は知の獲得ではなく、品性を高めることに主眼が置かれた。この教育理念はすばらしいのではなかろうか。その普遍的な重要性を噛みしめる必要がある。

 知識だけでなく、叡智を求めるという学問観は日本的、東洋的伝統である。西洋で成立した近代科学にはこうした考えはほとんどないが、ソクラテスが「徳は知なり」と言っていたように、なお西洋にも知を叡智として求めることの重要性はなくなっていないと信じる。

 武士道では教師は学問の目指す品性の体現者で、非常に尊敬された。教師はいわば聖職者であり、現代の日本よりずっと立派だったと確信する。私は教育に関しては戦前の方が戦後より優れていたと思うし、江戸時代の藩校や寺子屋の教育に優れたところが多かったのではないかと思う。

 江戸時代の子供教育はおそらく世界最高水準だった。元禄時代に来日したあるフランス人は、寺子屋に通う子供たちをみて「日本人の子育ては世界の理想であり、とうてい外国人のおよぶところでない」と驚嘆している。寺子屋で武士の子も庶民の子も一緒に学ぶ自由闊達さに目を見張ったのである。

 日本は教育に関しては世界の先進国だった。我々は伝統的な日本の教育の高さを誇ってよい。戦後日教組なるものができ、「教師は労働者である」と規定した。日本で進んだ教育理念を千年以上も後退させるような、低劣な規定である。教師は子供の品性を高める訓育をし、学問が目指す人格の体現者でなければならないという、武士道の教育理念の方がはるかに優れている。

 武士道における教育には、子供の魂を揺さぶる美しさと高尚さがある。「教師は労働者である」などという理念にあるのは、武士道の否定する物欲の重視と、武士道の重視する自尊心の放棄である。これでは魂の教育はできない。

武士道における美

 最後に武士道における美を整理する。


(1)武士道は武士の美学

 武士道を一貫するものは美しく振る舞うこと、美しく振る舞う精神、そして美意識である。すなわち、武士道は武士の美学である。

 武士道は品格を重んじた。その品格は内面の精神性とともに、行動の美しさが伴うべきものであった。礼と作法はこうした行動の美しさを凝縮した「型」である。ゆえに武士道は品格と美の「型」としての礼と作法を重んじた。そして練磨によって礼と作法を身に着けた武士に、品格が備わるものとされた。

 礼は本来「他人に対する思いやりを目に見える形で表現する振る舞い」である。従って美の型としての礼を重視する武士道は、幾分形式的である。しかし武士道はそれでよしとした。はじめから礼に込められた美しい心のあり方を身に着けることができなくても、それを型にした礼にかなった行動をとっているうちに、礼の美しい精神が身についてくるという考えである。

 武士道は行動の美学として「型」をつくりあげてきた。その一つが切腹という儀式である。武士は死ぬときも型を重んじた。


(2)美しく死ぬ

 「花は桜木、人は武士」という。これは桜こそ花の中の花、武士こそ人の中の人で、桜と武士の美しさを讃えた俚諺である。この俚諺には散り際の美しさを讃える意識が内包されている。桜が潔く散るように、武士も潔く散る(死ぬ)のが美しいとする考えが、武士道に存在した。

 武士は戦闘者であるため、現代人より死が身近にあった。武士が死を覚悟して戦場に臨むとき、最後までその行動を美的に意識していた。武士は戦って美しく死ぬことを念じた。討ち死には最高に美しい死に方だった。

 戦場に臨む武士の美意識は服装にも表れた。源平合戦の戦記物は、戦場における武士の美しい扮装をつまびらかに描写する。これは実は死のいでたちであった。この姿で死ぬならば美しく死ねるという武士の晴れ姿だったのである。

 戦う武士の行動を支配したものは、見苦しい生き恥をさらさないことだった。武士は戦っていかに雄々しく死ぬか、その覚悟をもつために死を美学として磨いた。そして、名を残して美しく死ぬという名誉の美学を結晶させた。

 美しく死ぬことは、美しく生きることである。人は死を意識したとき、生を深く理解する。死を自覚するとき、生を精一杯生きる覚悟が生まれる。美しく死ぬことは即、美しく生きることに他ならないとわかる。

 死は人の総決算である。人々からの感謝と名誉に包まれて死ぬ人は、立派な生を生きた人である。美しく死んだ人は美しく生きた人である。武士は美しく死ぬことを強く意識したため、必然的に武士道は美しく生きる倫理を強く含む規範となった。武士道がいかに美しく生きるかという根源的な哲学を含むものとなった。


(3)義にみられる美

 何より武士道の「義」には武士の美学が凝縮している。武士は欲得感情で動かず、義で動く。これは武士の美意識そのものといえる。欲得感情で動かず義で動くというあり方はノーブレス・オブリージュ(高い身分に伴う義務)である。これは「痩せ我慢」でもあり、この精神のゆえに、武士は高貴な精神をもつものとして尊敬された。武士道が利を捨てて義をとったのは、それが論理的に正しいからでなく、そうするのが気高く、美しいことだからであった。

 信義、約諾は命にかえても守るという武士道はすばらしいが、これを支える精神も美意識である。美意識に崇高の感情が加わった武士の美学となっている。また武士道は自分が犠牲になって義に殉じる。これを支えるのも崇高と名誉の美意識である。

 武士道は卑怯をもっとも嫌う。卑怯は気高さの対極にある心のあり方である。これほど卑しく、醜いものはない。

 武士道には切腹の慣習があった。武士は法が要求しなくても自ら責任ありと判断した場合、切腹した。その決断を支えたのは崇高と名誉の美意識である。切腹を覚悟で行う主君に対する諫言も、美と崇高の意識に支えられている。勇気は義をなすことであるが、命の危険を伴う勇気ある行動を支えるものも、義(正しさ)の確信と美意識である。


(4)誠にみられる美

 義と同様、あるいは義以上に武士道の中心にあるのが、誠(まこと)の精神である。誠は、嘘偽りのないまごころをもって人に接すること、正直なことである。幕末の武士は至誠を標榜して生きた。

 誠を尽くす――正直でまごころを尽くす武士道にも武士の美意識が横たわっている。それは心が純粋であるという美である。誠は飾らず、嘘偽りなく、ごまかさず、正直で、言い訳しない。武士道の誠がこうした心の純粋性の美をもつようになった理由に、武士道が「心の清明」を重んじたことが挙げられる。

 武士道ではどう行動すべきかを考えるとき、正しい判断は「清明な心」によってなされると考えられた。心が濁っていたならば、正しい判断はできない。それゆえ多くの武士道書が、「武士道を心がける者は清明の境地を得ることが大切で、およそ義とするものは清明の中から来る」と「心の清明」の重要性を説く(文献27、p.122)。

 武士道にとって、その根源的な意味で正しさを保証するものは、神道的な清明論であった(文献27、p.121-122)。武士道は神・儒・仏(神道、儒教、仏教)の混成であり、特に儒教の影響が最も大きいと言われるが、武士道は神道に最も近いと私は思う。根底に美があり、重んじる「清明の美(清浄の美)」が共通している。考えてみれば神道も武士道も、日本の歴史の中で日本人が生み育てた宗教と倫理であるから、根本が共通していて当然である。

 まこと、正直、嘘偽りがない、ありのまま、飾らないといった武士道における純粋性の美は、「正直は清浄を以ってもととなす」という言葉もあるように、つまりは神道的な清浄の美に吸収される。神は清浄を好み、清浄なところに宿る。従って清浄な心による判断は神と共にあり、正しい判断となる。ゆえに、誠、正直、ありのまま、飾らないといった武士道の美の精神は、正しい判断をもたらすのである。